20-12-13_たくさんの強さと愛

シャンタル・アケルマンによるピナ・バウシュのドキュメンタリー『ある日、ピナが…』(ONE DAY PINA ASKED…)をみた。

「ある日、ピナが…、リハーサルにやってきて、私たちに”LOVE”という言葉から何を連想するか聞いたんです。」という紹介文に惹かれて見たけれど、正直ダンサーからはそこまで独創的な答えは出なかったので、その部分についてはやや肩透かし。まあ私が「愛という言葉から何を連想する?」と聞かれたところでパッと答えられないし、仮に答えられたとしてもおそらく己の凡庸さに恥じ入るばかりになるだろうし、「答えない」という選択をする卑怯な女が私。そういうのよくないと思うよ。

「愛は来ては去る しかもいつだっていま起きている」
「ほとんどの場合、愛は失敗する でも自分はまた必ず挑戦する 幸い愛だけが人生のすべてじゃない」
「愛なんて夢物語だ 他に聞くことはないの?」
「愛は来て 去って それから幸運にも戻ってくる そして愛は悲しくも去っていく」

一昔前はやたらと「愛」について考えたり書いたりしていた気がするが、(She is のプロフィールにも「人生のテーマがどうやら愛」とか書いててビビる。過去の自分はほぼ他人だ)最近はめっきり「愛」について考える機会(必要)がなかったので「愛」と言われてもパッと何も出てこない。しばらくアクセスしていなかったのでキャッシュが残っておらず読み込みに時間がかかる感じ。

Some day he’ll come along
The man I love
And he’ll be big and strong
The man I love
And when he comes my way
I’ll do my best to make him stay

He’ll look at me and smile
I’ll understand
And in a little while
He’ll take my hand
And though it seems absurd
I know we both won’t say a word

George Gershwin “The Man I Love”

ジョージ・ガーシュウィンの「私の彼氏」の曲に合わせた手話のシーンが良くて、手話について学びたくなってしまった。もちろん「手話」も語彙と文法を持つ「言語」の一形態ではあるんだけど、われわれが普段用いている「言語」とは違う身体的な親しみのようなものを感じて、シュタイナー教育に取り組んでる知人が学んでいた「オイリュトミー」のことを思い出した。

意識身体のギャップを埋め、言葉または音楽を全身の動きに変換し、内臓ミクロコスモス)を動かすエネルギー惑星マクロコスモス)を動かすエネルギーを関連付ける。 また、言葉または音楽の持つエネルギーを身体表現によって具象化する。 子音母音には、一つずつ動きが定められており、子音の動きと母音の動きを組み合わせることで、言語を立体的に表現することを可能としている。

Wikipedia オイリュトミー

大体常に意識と身体にギャップのある人間、生活が精神や言語表現に偏りがちな私であるけれど、恋愛の場になると突然「身体」の比重が大きくなるので戸惑ってしまう。私はよく「IQが下がる」と表現するけど、ある意味では普段精神的な活動/思考に偏っているエネルギーが身体の方に取り戻されているとも言えるのかもしれない。言葉を交わさなくてもただ人と「居る」のが嬉しい、触れるのが心地よい、という感覚を久しぶりに思い出した。というか、ここまで心地が良い感じは割と初めてかもしれないので、これもまたホロスコープの正しさを裏付ける証拠になってしまうな(確証バイアス)

端的に言えば「幸福」だなと思うけれど、少し前に友人の言っていた「別に幸せになるために生きているわけではない」に死ぬほど同意していた癖に、いざ自分のもとに舞い込んできたらしっかりそれに浸るというのはどうなんだよという気もしないでもないが、「幸福」は紛れもなく「幸運」なので、あるときにはちゃんと味わうべきなんじゃないか。そしてそれは、「別に幸せになるために生きているわけではない」と矛盾することではない。

バタイユの自伝で、バタイユとコレット・ペニョの関係性についての箇所で「バタイユがこの愛を考えるとき、幸福というものは度外視されていたと言っても過言ではない(幸福という概念は彼の関心を引くにはあまりにも薄弱な概念だった)。」(ミシェル・シュリヤ『G・バタイユ伝』)という記述があったのも思い出して、愛において幸福を度外視できるバタイユまじすごいなと改めてちょっと尊敬してしまったのだが、「幸福という概念は彼の関心を引くにはあまりにも薄弱な概念だった」と書かれている割にバタイユって『純然たる幸福』という著書があるよねと思った。

私は、私の幸福について語りたいし、語らねばならない。だがそれが原因で、なんとも理解しがたい不幸が私を訪れる。この言語、私が語っている言語は、未来を求めている。この言語は苦痛––どんなにささやかなものであっても––と闘っているのだ。今の私においては、幸福について語りたいとする欲求が苦痛になっている。言語はけっして純然たる幸福をめざさない。言語は行動をめざす。行動の目的は失われた幸福をもう一度見出すことだ。しかし行動そのものはこの幸福に到達することができない。というのも幸福であったら私はもはや行動しないであろうからだ。

ジョルジュ・バタイユ『純然たる幸福』酒井健 編訳 ちくま学芸文庫

これに続いて「純然たる幸福は言語の否定である」とバタイユは言い切っているのだが、最近「言語」について疑惑を持っている私としては吟味するのにちょうど良い機会だなと思った。(恋愛をしろ)「幸福」は望んで得られるものではないし、ほんとうにありがたい。

タイトルの「たくさんの強さと愛」は、未来への展望を聞かれたピナの答え。

「わからない 世界には大きな問題があるから
自分の未来に何を求めるか聞くのをためらうような
でもきっと私が願うのは強さ たくさんの強さと愛
どうだろう たくさんの強さ だと思う」

『ある日、ピナが…』

彼氏は「自由」と答えていたけれど、自由を得るにも力がいるし、私もまずは「たくさんの強さ」そしてその後、「愛」ですかね…