2023-02-27_正気ではいられない

最近また本を読めるようになったことと、映画を見たり美術館に行ったりしたことから久しぶりに思考が活性化してきて楽しい一方で、それをいざ日記やそれ以外の文章として残そうとパソコンに向かった途端・億劫になり何も書けない…という日々を繰り返している。己の無力さにまた少し幻滅する。

この疑問は生きてると何度も湧き上がってきて、今日もまた考えていたんだけど、こんなに生きてて怖いのって私だけですか? こんなに色んなことが怖くてたまらなくて、一つ一つの怖さとまともに向き合っていたらとても正気ではいられないと思うんだけど、みんなよく普通に生きていられるなって思う。こないだ見たゾンビ映画の主人公が引きこもりで、「(ゾンビ関係なく)世界は怖いので家から出られず引きこもってた(から世界中にゾンビが蔓延しても感染せずに済んだ)」みたいなこと言ってたけど、いや本当にそうなんだよ… 世界は怖いから私だって本当なら家から出たくないんだよ…と心底共感したしストーリーの本筋とは特に関係なく心に残ってしまった。

私は失明するのが怖い。特に外を歩いてると、突然何かが飛んできて目が潰れる危険性がある気がして怖い。首とか手首とか、何か刺さったら死にそうな箇所を露出するのが怖い。手首の血管を見ていると気分が悪くなる。道を歩いてるとき、突然車が暴走して歩道に突っ込んできたらどうしよう…と思って怖い。電車に人がたくさん乗ってるのも怖い。特に電車内で刃物を振り回した人や放火した人が出た直後は本当に電車乗るのが嫌だった。いくらでも同じようなことが実行される可能性は消えてないので、その事実を忘却してるだけで普通に怖い。最近流行りの強盗が怖い。通り魔も怖い。夜道で謎に立ち止まっている人が怖い。最近会わないけど露出狂とか性犯罪者も怖い。いや怖くはないか?と思ったけど多分怖い。よくわからない身体の不調が怖い。伴侶が病を患うのが怖い。猫が衰えていくのが怖い。いつかまた一人になるのが怖い。何かを忘れるのが怖い、いつの日か何もかも忘れてしまうのが怖い。何もわからなくなって、私が私でなくなるのが怖い。そんな状態でも生きていたら怖い。そんな状態の私を看てくれる家族がいてもいなくても怖い。地震が怖い。台風と川の氾濫が怖い。火事も怖い。家や家財や本が全て燃えてしまうのが怖い。戦争が怖い、改憲が怖い、それを押し進めようとする今の政権が怖い、そしてそれに無関心な国民が怖い。政治の話をしても全然響かないしなんなら必死に否定してくる・ノンポリで新自由主義をすっかり内面化している友人が怖い。そういうことを考えると、友人と数えられる人の数がごっそり減ってしまって怖い。この世にまともな人ってほとんどいないのか?と思うと怖い。会社でも、無能(というか、マジでもう少し考えないんですか?)な人が多くて怖い。仕事ができない人を糾弾してしまいそうになる自分が怖い。自分もまた無能な人間の一人に過ぎないことが怖い。フェミニズムに対する憎悪や無関心が怖い。左派の男性ですら、そのトピックについてはマジで頓珍漢なこと言ってくるところが怖い。連帯する気力が失われる。それでも、そういった人たちの理解や協力を得られるように振る舞わなくてはならないのかもしれない、と思うと荷が重く、気は遠くなる。それでも自分はシスジェンダーのヘテロセクシャル女性で、かつ社会的にも比較的恵まれた状況に置かれているので、無自覚な特権で他者を傷つけているかもしれないことが怖い。文章を書くということも怖い。前にそれで人を傷つけて、関係性を損ねてしまったから。そのような形で発覚していないだけで、本当はもっと何かを損ねてしまっているかもしれない。こんな文章を書くよりも、もっと他にやるべきことがある気がするのに、それができない自分の無責任さが嫌になる。こんなに色んなことが怖いです、生きてるだけで頭がどうにかなりそうなんです、といったところで、ただの言い訳だなあと思う。政治や社会活動を頑張っている人たちからの目が怖い。あと無性にミノタウロスが怖い。小さい頃、ミノタウロスが怖くて深夜の台所に降りるのが怖かった、ここはクレタ島ではないし、ミノタウロスがいるはずもないのに。あとサブウェイも注文のシステムがいまだに怖くて利用できない。

2023-02-18_棍棒を持った男たち

われわれの世界には、何時でもどこでも、この棍棒を持った男たちが偏在している。われわれのほとんどは、彼らの存在を考えずに生きるためだけに、数限りない境界線や柵を越えることなど、考えることさえあきらめている。毎日どの大都市でも見かけられるように、ひもじさで倒れそうな女性が、食べ物の山から数メートル離れて立っている。だが、われわれにはそれを取って彼女にあげることができない。なぜなら棍棒を持った男たちが現れ、われわれを打つからである。

デヴィッド・グレーバー『アナーキスト人類学のための断章』P130,高祖岩三郎訳,以文社

ここのところしばらく元気がなく、藤井聡太の乙女ゲーをやることぐらいしかできていなかったのだが、ようやく本を読んだり考えたりできる程度に回復してきた。空気中にほのかに漂う春の気配のおかげだろうか?

斎藤幸平の『ゼロからの『資本論』』とグレーバーの『アナーキスト人類学のための断章』を読んだらアナーキーな気持ちになってきたので、そのテーマと態度を持ってしばらく読書に臨もうかなという感じ。先行してアナキズムに傾倒している(?)人間もちょうど家にいることだし…。

結婚して最も良かったことの一つは、お互いの蔵書を共有できるようになったことかもしれない。夫が歯を磨きながら私の本棚を眺めていたり、いつの間にか私の本を読んでいたりすることが、何気なく・しみじみと嬉しい。私も夫の本を勝手に読み、その本を通じて興味を持って・読みたいと思ったものが既に本棚に揃っている ということが多く、かなり助かっている。逆に私がなんとなく買って置いておいた本をなんとなく読んだ夫が、そこから良いアイデアを得たらしく「結婚してよかった…」としみじみ言っていたのも、気が合うな〜と思って良かった。

人と暮らすようになれば当然だが一人でいられる時間がほとんどなくなり、あらゆる人間の中でかなり気が合い・気を許せる相手とは言え、自分以外の他者がずっと共にいること由来の疲れというのは否めない。時折意味もなくぐったりしてしまう。とはいえ、やっぱりこうしてお互いに影響を受けたり/与えたりしながら変わっていくことは、他者と共に暮らすということの醍醐味だなと思う。自分一人でずっといると、自分自身からどこまで行っても離れられなくて、しんどくなる時あるものね。とはいえこれはたまたま気が合う人と結婚できたから成り立っているだけであって、本当に僥倖ですね。

ここまで書いてて思ったけど、これ「かなり気が合う人と一緒に暮らす」楽しさだから別に制度としての「結婚」とは何も関係ないな。「結婚して良かったこと」ではなかった。私は前から1対1の夫婦は家族として小さすぎると思っていて、別に複数の夫を持ちたいというわけではないけれど既存のモノガミーを中心とした体制に対するオルタナティブな在り方としてのポリアモリーが実践できたらいいのに、と思っている。でもその場合なら「ポリアモリー」とわざわざ言わず、単に「群れ」でいいのかもしれない。今日読んだグレーバーにもそんな話がちょうど出てきて、「それだよそれ〜」となった。

※ポリアモリーについてはこの記事が面白かった→ 「リアルポリアモリーとはなにか?」幌村菜生と考える“21世紀的な共同体”の可能性

グレーバーは、現代アクティビズムに必要な直接民主主義的な合議方法、集団的意思決定過程の実践的方法の核となるものとして、「類縁グループ」と「スポーク会議」という集合性を挙げている。類縁グループは4〜10人ぐらいの仲間からなる集合で、例えばエコ・フェミニスト・レズビアンであるとか、同じ地域出身であるとか、友人であるとか、なんでもいいらしい。この類縁グループが大規模な行動を起こす際の基本的単位となり、スポーク会議という行動前の大会議で合意形成を行う、という流れになる。今のところ私は具体的に何か「大規模な行動」をする気もできる気もしていないけれど、まずこの「類縁グループ」というのはいいよね、と思った。北米で有名な異教的アナーキズムの活動家によれば「類縁グループとは、お互いに共感を持ち、お互いの強さも弱さも知り、支えあい、そして政治/活動をやる(やろうとする)グループである」とのこと。類縁グループ… 実現したい! と思うけど、気難しくて人付き合いな苦手な人間がこの手のコミュニティを結成したり/維持したりするのって、かなり難易度が高いとも同時に思う。「気難しくて人付き合いが苦手な類縁グループ」を作ったらいいのか? それはちょっと「明かしえぬ共同体」っぽい。

グレーバーによれば、マルセル・モースは「革命的社会主義者」で古典的なアナーキスト的信条を持っていたとのことなので、昨年来のさまざまなお祝い等に対する返礼疲れ以来高まってきていた『贈与論』を読む機運がいよいよ熟してきたな。贈与日記のタイトルに恥じないよう、次はついに贈与論を読むか〜(『魔の山』もドメインに使ってるんだしちゃんと読もうね)