2021-04-28_いちばん赤い薔薇

ここ数ヶ月私を苦しめていた英会話レッスンをようやく今日で終わらせることができた。記念すべき最後のレッスンには勿論、私が去年バカみたいに熱をあげていた彼を指名した。最後のレッスンだから今更テキストをやるというのもバカらしくフリートークにしたけれど、特にこれといって話したいこともなかったので謎に列車についてあれこれ話していたら時間が終わった。「See you soon!」だってさ。

しかし今になって私はとても寂しくて、それはこれから先おそらく彼にはもう会うことはないだろうということではなくて、あんなに好きだった人が好きな人でなくなってしまったこと、目の前で机に突っ伏して泣きたくなるぐらい好きだったのに彼の顔を見てももう何とも思わないこと、嵐のようだった感情が去ってしまったこと、そしてこの先彼のこと/彼に関する思い出をどんどん忘れてしまうだろうこと、そんなことは分かりきったことで・覚める前から知っていたことだけれど、それでも寂しく、とても悲しい。

恋愛というものは常に一時の幻影で、必ず亡び、さめるものだ、ということを知っている大人の心は不幸なものだ。
若い人たちは同じことを知っていても、情熱の現実の生命力がそれを知らないが、大人はそうではない、情熱自体が知っている、恋は幻だということを。

坂口安吾「恋愛論」

お前はまたすぐにそうやって坂口安吾の恋愛論だな??という感じだが、分別のある大人なので恋が始まるや否や/いやむしろ始まる前から/というか常にこのことを考えてしまう。こんなことはわかっているから、情熱的な恋愛感情を抜きにして良い関係を築けるような人と長く安定した付き合いをしたいものだと思っていたのだが、私はまた馬鹿みたいに恋愛に夢中になっているという有様です。はは、馬鹿は死ななきゃ治らないので仕方がない。

去年恋愛に思い悩んで『パイドロス』を読んだ時、始まりの論調は「恋している人間は狂人だから、むしろ恋していないまともな人間と付き合うべきである」という内容だったので本当にそうですね〜〜と反省を促されてよかったのだが、ソクラテスが突然それを全否定して「神から授けられる狂気は、人間から生まれる分別よりも立派」と主張し始めるので当時は頭を抱えてしまったのだが、神由来のものの方が愚かな人間の限界ある理性を働かせて捻り出したものより良いものであるというのはまぁ確かにそうなのかもしれない。『パイドロス』適当に読み返してたら肉体のことを「身につけて持ちまわっている汚れた墓」呼ばわりしてて笑ってしまった。私は墓に滅法弱くて、レトリックに墓を持ち込まれると本当に笑ってしまうんですよね。(ティーンエイジ墓場パーティー、墓のようなコーヒーなど)

スウェーデンの漫画家リーヴ・ストロームクヴィストの『21世紀の恋愛』を昨晩読んで、なぜ現代において恋愛をすることが難しくなってしまっているのかフェミニズム的な視点から考察されていて非常に面白かったんだけど、これでも要は「恋愛とはそもそも狂気なので、条件に合う人を探すというマッチングアプリのような合理的な方法では難しいですよね」という話をしていて、やはり紀元前からそれを見抜いていたソクラテスの慧眼ぶりには目を見張るものがありますね。ところでルー・ザロメが「ニーチェを狂わせたという功績でこの本の導師となっている)と紹介されていて、前に読もうかな〜と思っていたこの本でも読もうかなという気になった。

19世紀の男らしい振る舞いは、強い感情を感じてそれを表現できること、誓いを立てて身を固めることを躊躇わないこととあって、例としてマンの『ブッデンブローク家の人々』の間抜けで情熱的なプロポーズシーンが紹介されてておかしかったのでこれも読みたいが、その前にお前は『魔の山』を読破しましょうね。
それにしても日記をつけるというのも19世紀の男の典型らしいので、かなり私は19世紀の男らしさを体現しているのではないかという気がしてきたのだった。

2021-04-03_刺青女

「ときどきここにごろりと寝ころんで、そのまま静かに死んでしまいたくなる」

J.D.サリンジャー『フラニーとズーイ』村上春樹訳,新潮文庫,新潮社

気分が落ち込むと大体『フラニーとズーイ』を読むのだが、今回についてはそもそも気分が落ち込んでいたのか、メンタルの不調とは関係なく別の用事でフラニーとズーイに手を伸ばしたのかよく覚えておらず、あまりにも今までフラニーとズーイに助けを求めてきたので・パブロフの犬ライクにフラニーとズーイを読むと反射的にメンタルが落ち込むような気もしてきた。因果関係が逆転しているのではないか。きっかけがなんだったのかはすでに思い出せないが、ともかく私はまたフラニーとズーイを読んでいて、ただごろりと寝ころんで、そのまま静かに死んでしまいたいと言うズーイに同調していた。

感情というのはいつも新鮮で、今まで何度も死にたいような気持ちにはなってきたはずなのだが、それが訪れる度に不思議な気持ちになる。感情が新鮮というより、ただ単に私の記憶力があまりにも当てにならないだけでは?と思ったけれど、感情というのはそもそも記憶に残りづらいものなんじゃないだろうか。最近感情史(感情史って何?)が流行ってる(流行ってるの?)みたいな話もあるし、感情史も勉強したいなーーあーーーあ、時間がない。

しかし最近はメンタルの多少の乱れや落ち込みがあっても「死にたい」と思うことや、ましてや言うことは少なくなったよなと思い、自分のTwitterに言質を取りに言ったがやはり2017年ぐらいを最後に「死にたい」とは言っていない様子だった。「死にたい気持ち」はあったが、それは「死にたい」ではないのでノーカウントです。2017年以前もそもそも数えるほどしか死にたいと言ってなかったので意外と健康じゃんと思ったけど、おそらく父親が死んでから意識的にこの言葉を口にしなくなったんだろうなと思う。実際にじわじわと死に近づいていく人間をずっと側で見ていて、死ぬことはこんなにも険しく惨めなことなのだというのを目の当たりにしてから。

まぁそれはそれなりにそれっぽい理由だが、私がこの世に存在していることについてどう感じるか・どうしたいかは本来私の問題であって、いくら父親が死んだからと言ってそれによって自分がある感情を抱くこと・それを言葉にすることを禁じるというのもそれはそれで妙だとも思う。でもそれを禁じたのもまた私なのだから、数年間喪に服す意味で禁じていたけれど、三回忌もすぎたしそろそろ解禁してもいいかというノリだろうか。それが解禁されたからと言って特に華々しくパァッと何かできるわけでもなく、せいぜいが「ときどきここにごろりと寝ころんで、そのまま静かに死んでしまいたくなる」という文章を堂々と引用することができるようになる程度である。

こうして日記を書くようにしていることもあってか、最近は自分の加害性をすごく反省している。これはまた別の時に書きたいと思うけれど、思うところあってケイト・ザンブレノの『ヒロインズ』を少し読み返していて、「書く」人間の加害性というか、書くことによって人を傷つけるということを考えていた。まぁそもそもデリダが言うには「書く」と言う行為自体が暴力なので、何について書こうと根源的な暴力からは免れえないので「自分が言説として暴力的であることを自覚した言説、『最小の暴力として選び取られた』言語を持って戦わなければならない」(高橋哲哉『デリダ 脱構築と正義』)のは当たり前体操だったのだわ(やっぱりデリダ、100人乗っても大丈夫!)

加害性の話に戻すと、先日の京都旅行で感じた「寂しさ」の原因を検討していて、端的に言い表すと「恋人が私と同じでないのが寂しい」ということだった。

1. 恋人がわたしと同じものに興味を持たないのが寂しい
2. 恋人が「恋人の好みに合うもの」にしか興味を持たない様子なのが寂しい
3. 私はたまたまあなたの「好みに合う」人間だったからあなたは興味を持ったが、あくまであなたは自分の好みに合う部分の私にしか興味がないのではないか(仮説)
4. 「言いたいことは理解したが、そんなことはない」と否定される
5. (あなたの行動を見ている限りそのように見えるし、自分が興味を持っていない部分があるということ自体を認識できていないのではないか?)と思う
6. 寂しく思い、そしてこのような非難をした己を反省する

言いがかりも甚だしいが、自分が何に寂しさを感じているのかについて言語化はできて満足した。けどこれってかなり暴力的な話だよなと思ったのだった。

「僕らはフリークだ。まさに畸形人間なんだよ。あのろくでもない二人組が早いうちから僕らを取り込み、フリーク的な規範をせっせと詰め込み、僕らをフリークに変えてしまった。それだけのことなんだ。僕らはいわば見世物の刺青女(タトゥー・レディー)であり、それこそ死ぬまで、一瞬の平穏を楽しむこともできないんだ。他の全員が同じように刺青を入れるまではね。」

J.D.サリンジャー『フラニーとズーイ』村上春樹訳,新潮文庫,新潮社

フラニーやズーイに共感するのは色んな意味で恥ずかしさもあるのだが、自分の「相手に自分と同じようになって欲しい」という欲望とそしてそれが叶わないと感じた時の寂しさはまさにこれだよなと思った。それこそ死ぬまで、一瞬の平穏を楽しむこともできないんだ! 私の「死にたい」を穏便に言い換えると、つまりは「平穏が欲しい」ということなのかもしれないな。これは『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のホールデンが求めていたものにも近いような気がしますね。(この世には平穏を楽しめる場所などはなく、いつも誰かがやってきて「Fuck」とか壁に書いて台無しにしてしまう)

ちっぽけな自我! 知っているさ、あいつは親しみ深く、忠実で、鼻息が荒い。まさにそれがあいつだ。だが、この老いぼれ犬は、もう真面目に扱われたいとは思っていない。せいぜいあいつは、自分のいたずら心を満足させるように、むしろ物語の犬のような多少とっぴな姿になりたいと思っていて、まさに不幸な日々には、犬の亡霊の姿になる方がましだと思っているのだ。

ジョルジュ・バタイユ『有罪者』江澤健一郎訳,河出文庫,河出書房新社

あと自分の「死」に関するツイートをdigっていたら当然バタイユが出てきたので、バタイユぱらぱら捲ってたら目当ての文章以外もすべての文章が良くて全く関係ない文章を引用します。しかしバタイユは好きな文章が多すぎていつも微妙にズレた文章を引用してしまっている気がするな。「死にたい」の穏当な言い換え、あるいはより正確な表現として「犬の亡霊の姿になりたい」も良いなと思ったのだった。