2021-12-05_熱海、ブルーは熱い色

そのうちまた泊まりたいなぁと思っていた熱海のニューアカオが11月に営業を終了していて、人生は「そのうち」とか「いつか」とか言っているうちに手遅れになることが多すぎる、ともはや何度目かわからない反省をした。反省しているはずなのに同じ過ちを繰り返しているので、その実まったく反省ができていない。12月12日までニューアカオを会場にしたアートイベントが開催されているというのを知り、1年以上会ってなかったし・連絡すらほとんど取っていなかった友人に「今週末熱海いかない?」と突然連絡すると理由も聞かずに「いく」と即レスが返ってきたので本当に信頼できるし最高の女!と感謝し、女二人週末熱海旅に出かけた。

品川駅に集合し、スケジュール上お昼は新幹線内でお弁当を食べる予定だったので、駅構内でお弁当を物色する。「あらいい天ぷらだねぇ」「寿司もいいねえ」「海苔弁も美味しそうねえ」などと優柔不断にブラブラしていたが、生牡蠣がタッパーに詰められたものが売られているのを発見し、「…生牡蠣、食べる?」「新幹線で?」「匂わないし、ここで売っているということは、新幹線で食べられることも当然想定されているはず」「ポン酢も売ってる!」「これは生牡蠣ですね」ということで、生牡蠣をシェアハピすることに満場一致で決定した。プラス各自食べたいものとビールも調達し、新幹線に滑り込む。品川から熱海までの38分間で、生牡蠣を平らげ、お弁当を食べ、ビールも飲み、お互いの近況をバーーッツと共有し、最高の駆け出し。ちなみに生牡蠣は総上げ底の時代の現代においてまさかの上げ底をしておらず、信じられないぐらい牡蠣がミッチミチに詰まっててコスパ最高だった。絶対にリピします。

「前回会ったのいつだっけ? ベトナム料理屋で飲んだの」
「いつかの夏じゃない?」
「すごいオシャレな言い方するじゃん」
「あれだ、BLMがあった後だから、去年の夏だ。お互いBLMで男と疎遠になった後」

前回会ったときは、彼女は当時付き合っていた彼氏がBLM(Black Lives Matter)でバッド入ってしまって疎遠になり、私は私で破局後もなんだかんだ友人関係を続けていた元彼とBLMの話題で喧嘩(?)になって絶交をしており、謎に二人してBLMに起因して特定の男と疎遠になっていた。そして最近は、彼女は今の彼氏と別れたがっており、私は今の彼氏と別れたくながっていた。似たような状況で、対照的な役割を演じていた。

彼女は話を聞くたび大抵男から熱烈に愛されていて、今回もかなり猛烈に愛されていた。出会ってからというもの会うたび凄い熱量で好意を表されたので、それを断るほどの熱量もなかったのでとりあえず付き合ってみたが、育ってきた環境が違いすぎてずっとSMAPの「セロリ」が流れている恋愛らしい。(わたしは彼氏の睫毛を見るたび大森靖子の「非国民的ヒーロー」がずっと流れている恋愛だ。)彼女の彼氏は彼女のことが大好きで、彼女がご飯を作ってる時も違うことをしてればいいのに横でじっと彼女のことを見ていたり、ご飯を食べてる時も気がつくと食べるのを止めて・ただ彼女のことを見つめていたり、彼女を肴に酒を飲んだり、隣で寝てる時に突然幸せすぎると言って泣き出したりするらしい。(わたしも彼氏を見ているのが大好きなので似たようなことをしているし、彼女の彼氏の気持ちはわからないでもないと言うか、正直かなりわかる。)でも「幸せすぎて泣き出す」って本当にすごくない? すげ〜女! 感動して思わず『悪霊』のピョートルの台詞を読ませちゃったよ。

「スタヴローギン、君は美丈夫です!」
ほとんど有頂天になって、ピョートルはこう叫んだ。
「君は自分の美しいことを知っていますか? 君の持っているものの中で一番貴いのは、君が少しもそれを知らずにいることです。ええ、僕はすっかり君という人をきわめつくしました! 僕はしょっちゅう横の方から、隅っこの方から君を眺めているんです! 君には単純なところさえあります。ナイーヴなところすらあります、君はそれを知っていますか? まだ残っています、本当に残っています! 君はきっと苦しんでるでしょう、しかも真剣に苦しんでいるに相違ありません。それもやはりこの単純な心のためです。僕は美を愛します! 僕はニヒリストだが、しかし美を愛します。全体、ニヒリストは美を愛さないものでしょうか? なに、彼らはただ偶像を愛さないだけです。ね、ところが、僕はある偶像を愛します! つまり、君が僕の偶像なのです!
(中略)
僕は君のような人をほかに誰も知りません。君は指揮官です。太陽です。僕なんか君の自由になる虫けらです……。」

ドストエフスキー『悪霊』米川正夫訳,岩波文庫

これ、わたしは完全にピョートルの気持ちに共感して読んでいたけど、彼女の方はスタヴローギンで、崇拝される偶像で、太陽なのだった。久しぶりに会った彼女は真っ青な髪の毛をしていて、アデル、ブルーは熱い色 だと思った。

『悪霊』を読んでいるとたくさんの人間がスタヴローギンを崇拝していて、誰かを「崇拝する」ということは「理解する」ということからは程遠く・グロテスクで健全ではない行為なのはわかってるんだけど、これほど崇拝できる人間がいるということは幸せだろうなあとも思う。でも現実世界で崇拝に値する人間なんてほとんど出会うことないからな〜と思っていたら、久しぶりに会った女がその役割を立派に果たしていたから笑ったし大喜びしてしまった。誰かを崇拝するのは楽だし気持ちがいいだろうから、私も誰かのことを心の底から崇拝したいわ なんて一瞬思っていたけれど、それより自分が「崇拝に値する人間」になることの方がずっと価値のあることだよなと思う。何倍も険しくて難しい道だけど、楽な方より大変な方を選んだ方がいい気がしているんだ最近は。

想定より大幅に居酒屋に長居してしまい、宿の温泉に入れる時間も過ぎてしまったので開き直って深夜の砂浜を散歩して、東京より広くてよく見える星空を眺めた。熱海は椰子の木がたくさん生えていて、市街地からすぐのところに砂浜があって最高だ。「私のほとんど唯一と言っていいロマンチックなところは、星が好きなところなんだよね」と言う彼女は流れ星をしっかり見つけて「Love!Love!Love!」とすかさず唱えていた。わたしは視界を横切る蝙蝠しか見えなかったけど、キンと冷えた冬らしい空気を感じながら眺める星空は綺麗で、波の音が心地良い夜だった。

眠りについたのはかなり遅い時間だったはずなのに、翌朝6時過ぎには起き出してベランダから日の出を見ている彼女の後ろ姿とオレンジ色に輝く海がベッドから見えて、(マジでこの女異常に元気だな…)と思いながらわたしはその光景を目に焼き付けながらもう一度眠りについた。

2021-11-22(12-2)_手を焼く

恋人とデートで都美術館のゴッホ展を見に行った。
基本的に都美術館のことは信用しているけれど、前のゴッホとゴーギャン展に比べてしまうと内容は少し見劣りがするように感じた、特にヘレーネとゴッホの魂が響き合っているようには思えなかったし…。とはいえやはりゴッホは生で見るのに限るのであって、展示を見終えた後に図録やポストカードや複製画を目にした時の落差でそれを実感する。それにしても、わざわざ展覧会にまで来て絵をろくに見ずにただ絵の前に行列している人たちは何をしに来ているんだろうなといつも思う。自分もきちんと絵を「見て」いるかといったら自信はないが、私程度の熱心さで絵を見ている人すらほとんどいないのだから本当に不思議だ。目の前にあるゴッホの絵も見ずに、一体何のために生きているんだ?

ゴッホ展を見に行ったら、ゴッホに関連してきっと自分は何かを考えるだろうし、それについて書こうと思っていたのに全然何も思考が湧いてこなかったので拍子抜けした。まぁ妙な関係になってしまっている恋人と一緒に行ったから、そちらの方が気がかりだったのかもしれない。セルフサービスレストランみたいに律儀に並んでいる行列を無視して、空いている絵や見たい絵の方へ人混みの合間を縫って歩き回りながら 彼氏ともくっついたり/離れたりして、このくっついたり・離れたりする距離感が心地いいなと思いながら、こんなふうに一緒に美術館に来たりするのももうこれが最後になったりするんだろうか?と、もたれた左肩から伝わる温かさと安心感とは裏腹に悲しい気持ちでゴッホを眺めていた。

事実上の別れ話をしてから、私はすべての瞬間を(これが最後かもしれない…)という気持ちで過ごしていて、というか仮に別れなくても人生においてその瞬間は常に最後なので・毎回最後の気持ちで過ごすのはある意味人間として正しい姿勢なのかもしれないけれど、とにかくそういう気持ちでいることが必要以上に私を怯えさせていて、この本来必要ないはずの怯えが、二人の関係性を台無しにしそうで嫌になっている。私の凶暴な猜疑心や寂しさが、今にも彼の喉笛を食いちぎってしまいそうだ。理性ある知的な人間としてそれらを必死に押さえつけて、せいぜい手を噛むぐらいに留めているつもりだけれど、それにしたって頻繁に噛みつかれるのも/凶暴な感情を押さえつけるのもどっちもしんどいよな。こんな風になる必要なんて全然なかったのに、なんでわざわざ関係性を損なうような真似をしているんだろうな私たちは。

これが最後かもしれないと思えば、「おやすみ」と言った後も眠るのが惜しくて、瞼を閉じた彼の顔を眺めていたら無性に寂しくなって、彼の肩に滅茶苦茶に顔を擦り付けて「別れたら寂しいよ」と言ってしまう。その話はできるだけせずに、ただいつも通り“おもしれー女”として楽しく過ごすことで(フゥン やっぱ おもしれー女…)と思わせて手離せなくさせる作戦だったというのに、私の理性というのはかくも弱いのであった。口に出してしまってから、はたしてどういう反応を返されるのかとひやひやしていたら、少し寝ぼけたようなとろりとした声で「別れるの?」と言って私を腕の中に埋めてくれる。ワァ、めちゃくちゃ悪い男か…?と思いながらも、安心してその夜は眠った。

ところで、ヴァン・ゴッホは片方の手を焼かれたのであるが、生きるための、すなわち生存するという観念から生きるという事実を奪い取るための戦いをけっして恐れたりはしなかった、
そしてすべては、あえて苦労して存在せずにもちろん生存することができるし、
そしてすべては、狂人ヴァン・ゴッホのように、あえて苦労して輝いたり、きらめいたりせずに存在することができるのである。

A・アルトー「ヴァン・ゴッホ 社会による自殺者」鈴木創士訳『神の裁きと訣別するため』河出文庫,P159

ゴッホを見にいくにあたってアルトーを読んでいて、あれと思ったんだけど、ゴッホって耳を切る以外に手も焼いてたんだっけ? 「ゴッホ 手 焼く」とかで検索しても、周りの人間がゴッホに「手を焼いていた」という文脈しか出てこなくてそうじゃないんだよ、、となる。ゴッホはなぜ手を焼いたんだ? いつ? 自らの意思で?

『百年の孤独』のアマランタがピエトロ・クレスピの求婚を拒み、彼が命を絶ったあとで心の悔いを癒すために自らの手を竃の火で焼いたのと同じように、ゴッホもまた手を焼くことで、耐えがたい心の悲しみを癒そうとしたのだろうか? 『紙の民』でも、悲しみを癒すために手を焼く人物が出てくるけれど、悲しみは火によって治癒されるのだろうか。私もいざとなれば、自らの手を焼くことで心を癒すことができるだろうか?

と、感傷的に思ったりもしてみたけれど、最近の自分はかなり変に前向きなので、自分の人生がもはやどうでもよいのであれば、自分の人生をなげうって何か世界を少しでも良くするような、そんな「何か」をすべきなのではないか? という気持ちでいる。人間はあえて苦労して存在せずに生存することができるけれど、生存そのものが耐えがたいのであれば、あえて苦労することで輝いたり・きらめいたりして存在するべきなのではないか? メソメソ手を焼いたりしないぞ、と思ったけれど、「手を焼く」ことが「生存」するのではなく「生きる」ということなのであれば、手を焼くということは全く正しいことなんだな。私もその時には、躊躇いなく竃に手を差し伸べられますように。