2021-02-08_手探りで愛す

しばらく日記を書いていなかったので久しぶりにwordpressにログインしたところ、このタイトルだけが埋められた真っ白な投稿画面が開かれており面食らってしまった。2月8日にわたしは何を書こうとしていたんだ? まったく記憶にございませんね、、と言いたいところだが私は不誠実な政治家ではないので、思い出せる限りのことを書いてみる。

秋の終わりに恋人が突然できてから、どうせ自粛生活で出かける当てもない私は毎週末を恋人と過ごしており、人間の三大欲求を順繰りに満たしていくようなことを繰り返している。どこかに出かけるとか/何かをするとか、特筆すべきようなことは基本的にないので(最近は公共交通機関を使わず/外食はせず/短時間でサクッと帰るという条件で多少出かけたりはしているものの)こうして後から振り返るとその週末に何をしていたのか全然思い出せなくてなんとなく寂しくなる。そういう記憶からこぼれおちやすいちょっとした会話の内容とか、怠惰な午前中の光とか、何で笑ったのかとか、未明に一人起き出して残されたときの悲しさとか、そういうものこそ覚えていたいのに、書き留めていないと全てがあっという間に遠ざかっていってしまうし、書いた時点でどうも何か違ってしまうということもまた確か。でもお前が私に桃鉄でしたひどい仕打ちのことは絶対忘れないからな、覚えてろよ。

人と交際するのがかなり久しぶりなのと、人と出会う➡︎(仲をつめる)➡︎交際する➡︎(いろいろある)➡︎別れる というプロセスを繰り返すのにほとほとうんざりしているので、この恋愛をだめにしたくない一心で(※今までだって毎回だめにしたくない気持ちで私なりに真剣に取り組んできてはいたのだが)過去の失敗やら自分の行動やら気持ちの動きやらを分析しつつ、相手を観察したり考えを聞き出そうと適宜インタビューしたりしている 。その一環で、「愛したいタイプか、愛されたいタイプか。あるいは今まで(相手に愛されるより)愛してきたか、(相手を愛するより)愛されてきたか」という話をした時、己の傲慢さを恥じながらも割と堂々と「愛されてきた」と豪語するので笑ってしまい、わたしもまた傲慢なので「私も愛されてきたし、相手の好意にずっと胡座をかいてきたので正直なところ人の愛し方がわからない」と即座に乗っかったところ「僕は最近わかってきた」と言うので(最近わかってきたのか…)と思いつつ「私はかなりいま手探りで愛している、愛そうとしている」と白状した。愛し方がわからないので手探りで愛する というの、我ながらかなり良くないですか? 実際にそれが成功しているかはさておき…。

こんな風に時折、わたしは自分がすごく根本的な部分で(世間一般の通念と比較して)間違えていることを発見してビックリするし納得するのだが、最近気づいたこととしては私は「嫉妬する」のが割と好きなんですよね。それゆえ、相手にも嫉妬してもらおうと思ってわざと嫉妬させるようなことを(親切心で)言ったりしていたようで、行動の原理はきわめてキリスト教的な「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」(マタイによる福音書7:12 新共同訳)に則っていて善意と言っても過言ではないのだが、一般的には嫉妬は好んでするものではないので普通に迷惑である。恋人にも「※一方僕は嫉妬が趣味ではないです」と注意書きを入れられたので笑ったし、普通に申し訳なく思いました。

今日たまたま本棚にあった GATHER JOURNALの”SIN”特集の号 が目に入って、パラパラと読んでいたんだけど、(七つの大罪って英語で “Seven Deadly Sin” って言うんですね、すごい致命的じゃん。)”Envy”の項で Envy と Jealousy は違うものなんですよと書いてあって へぇ〜と思ったので引用。

While used interchangeably in our modern vernacular, envy and jealousy are not in fact one and the same: Envy is the desire for something someone else has, while jealousy is the fear of losing something you have.

GATHER JOURNAL VOL 6, ISSUE10: Winter 2017 , P83

「妬み(Envy)は誰かが持っているものへの欲望であり、嫉妬(Jealousy)は自分が持っているものを失うことへの恐怖である」
日本語の「嫉妬」はEnvy の意味でも使われるけれど、わたしはあまりEnvy は抱かないので(少なくとも抱かないと思っている)私が趣味と言っている嫉妬はひとえに Jealousy のことなんですね。とわかってなんとなくすっきりした。

Gather Journal は一応料理雑誌なので、特集のテーマが “Sin” でもそれにあわせたレシピを用意してくれていて、Envyのところでは Green with Envy cake with mocha buttercream というケーキが載っていて、シェイクスピアが嫉妬を緑色と結びつけていたのは知っていたけど Envy も緑なのか? それともシェイクスピアの時代には Jealousy とEnvy はもっと互換性があったのか? と思ったらちゃんと解説が付いていた。シェイクスピアよりもっと先に、なんとサッフォーの時代にも嫉妬は緑色だったらしい。(※正確に言うと、妬みは過剰な胆汁を発生させ、肌に緑がかった色を与えるとされていた)

Turning green with envy can be traced to the poet Sappho who used the color to describe the complexion of a forlorn lover (ancient medicine theorized that envy produced excess bile, giving skin a greenish cast). Years later, Shakespeare would tie the color to the vice in three of his works (Merchant of VeniceAntony and Cleopatra, and Othello), cementing its envious association.

GATHER JOURNAL VOL 6, ISSUE10: Winter 2017 , P93

『オセロー』というと、私の朧げな記憶によるとオセローが嫉妬に狂って妻を絞殺するきっかけになったのが確かいちご柄のハンカチで、いや流石にいちご柄のハンカチってファンシーすぎるし絶対私が『いちご100%』とごっちゃにしてるだろ、本当は何かの刺繍が入ってるぐらいのハンカチだったんだろ? なんだったんだ? と思って今日久しぶりに読み返したら本当にいちご柄のハンカチーフだったので『オセロー』は正真正銘17世紀の『いちご100%』でしたね。シェイクスピア天才すぎるだろ。

2021-02-05_路上

先週の金曜日も「ヨーシもうこの続きは来週気合い入れてしっかり働こ!今日はもう週末を始める!!」といって早々と終業した気がするのだが、全然週が明けて月曜日になっても気合いが入ることはなく、同じように「ヨーシ来週がんばろ!」と言って今週も終業した。やる気が行方不明だからいい加減ブルシット・ジョブでも読もうかな。デヴィッド・グレーバーといえば、私の大好きなベル・フックスからも影響を受けていると聞いて意外だったんだけど、どの著作ならその影響を窺い知れるんだろうか。

今週は、今一番面白い雑誌こと『福音と世界』の2月号「惑星の蜂起」特集を読んだ。政治を「語る」ことは、統治する者と同じ言語を使うことは、支配する側と同じ視点を内面化することにつながっていないだろうか。ある目的達成のために手続きを踏み、合理的に物事を進めていくことは、新たな別の「体制」を作るだけなのではないか? …おやおや、これもまた滅茶苦茶バタイユが唱えていたことっぽいですねえ。(いつでもバタイユのことを想う人間)

秩序立った言葉や図像は、気づかぬうちに少しずつ自然全体を有益性に従属させている一体系の、われわれの内面における継承者であるのに、その言葉や図像にまで不服従の姿勢が及ばないのだったら、その不服従は、単に外的な諸形態(政府とか警察のような)への拒否ぐらいに留まってしまう。現実の世界への信頼、というよりむしろ隷属は、これに一点の疑いも持たないのだったら、いっさいの隷属の基底になってしまう。自分のなかで言語の絆を断ち切るという欲望を持っていない人を、私は、自由な人だとみなすことはできない。ただしもちろん、われわれ自身の存在を何ものにも従属させないという配慮をできるだけ遠くへ推し進めるためには、一瞬のあいだ言葉の帝国から逃れるというだけでは不十分なのだ。

ジョルジュ・バタイユ「半睡状態について」『ランスの大聖堂』酒井健訳,ちくま文庫

今年の私のテーマは「言語・法・暴力」ですが、わたしが言語について勉強しよ〜と思ってるのはこのバタイユの影響が大きいですね。去年のよかった本リストに入れた『ウェブスター辞書 あるいは英語をめぐる冒険』とかを読んで言語の帝国主義的な側面を考えたこととかも勿論あるんだけど。あとはソ連の言語政策、スターリン言語学、そして言語とジェンダーの話とか…。全然バタイユだけじゃなくてトピックスいろいろあったわ。勉強しよ。あとは普通に英語とフランス語できるようになりたい。かつ、言語活動から自由になる試みとしてのダダイズムでしょうか。正直なところ言語から自由になる前に、まずは言語を意のままに操縦できるようになりたい気持ちの方が大きいですが。

「蜂起」特集なので、ブラック・ライヴズ・マター、フランスの黄色いベスト運動や、香港のブラックブロック活動などなど、最近世界各地で起きている民衆による運動を取り上げながら、目的を達成するために統制を必要とする20世紀の「革命」とは違う形をとる、より開かれた闘争の過程を含む「蜂起」という概念について論じられており面白かった。香港のブラックブロックとか、SNSに「○月○日、近所のXに集合。ブラックブロックとして行動します」と書き込むだけで人が集まって、そのまま蜂起活動に突入するらしい。そしてひとしきり暴れたらそのまま解散して、特に反省会とかもしない。なんども集まってるうちにだんだん顔見知りになってくるらしい。すごいな Clubhouseなのか? そしてフランスのジレ・ジョーヌによる暴動の描写がよかったので読んでよ。

監視カメラをたたきこわす。銀行や不動産屋から書類をもちだす。路上にばらまき火をはなつ。「美しい!」と声があがる。車も燃えあがり、機動隊にはロケット花火をうちこむ ––二〇二〇年一二月五日のパリの光景です。

白石嘉治「青空と文字のあいだで––われわれの蜂起を肯定するために」『福音と世界』2021年2月号,新教出版社

この箇所読んで、こんなの完全にケルアックの『路上』だ〜〜!!!となってしまった。

ぼくにとってかけがえのない人間とは、なによりも狂ったやつら、狂ったように生き、狂ったようにしゃべり、狂ったように救われたがっている、なんでも欲しがるやつら、あくびはぜったいしない、ありふれたことは言わない、燃えて燃えて燃えて、あざやかな黄色の乱玉の花火のごとく、爆発するとクモのように星々のあいだに広がり、真ん中でポッと青く光って、みんなに「ああ!」と溜め息をつかせる、そんなやつらなのさ。

ジャック・ケルアック『オン・ザ・ロード』青山南訳,河出文庫

『路上』はあんまり話は覚えてないのだが、なんか綿花畑で毎日綿を摘んで、その日もらったお金でその日食べるものを買うというマジのその日暮らしを彼女(?)としていて、綿花畑の近くの納屋的な場所で天井のタランチュラ(?)に見守られながらセックスするというシーンがあって、これがわたしの「文学上の好きなセックスシーンランキング」にランクインしてるセックスのひとつです。あとは『百年の孤独』で浴室の天井を突き破って男が侵入してきて、そのまま蠍と黄色い蛾に囲まれながらセックスするシーンもランクインしてるというか1位です。なんだ? 私は鋏角類に見守られながらセックスをしたい欲望でもあるのか?? 何の欲望?? 途中で離脱してた『コレラの時代の愛』も最近また再開して読んでるけど、やっぱりガルシア=マルケスの書くセックスシーンは勢いがあっていいなぁと思っています。

びっくりするほど脱線したが、何かを読んでると必然的に脱線するので、脱線する過程で読みたい本が出てきてそれを読むとまた脱線して、そこからさらに新たに脱線して脱線してまた脱線するので、本当に本読んでると無限に忙しくなるんですよね。もう少し脱線せずにひとところに留まって思考を深める活動がしたいのだが、無限に流されてしまう。最後にもう1箇所脱線すると、『福音と世界』のマニュエル・ヤンの連載もなかなか面白くて、その中でイギリスのマルキシスト歴史学の権威 E・P・トムスンがヘンリー・ミラーをこき下ろしていたらしいのだが、いやヘンリー・ミラーはアメリカの資本主義文明や国家暴力を『南回帰線』とか『冷暖房完備の悪夢』で糾弾してたしいいじゃん!って異議を申し立てててよかった。ヘンリー・ミラーは『北回帰線』を挫折したし全然読んでないんだけど、『冷暖房完備の悪夢』は完全にタイトルで買ったら予想外にめっちゃ良くてよかったです。エッセイ集なので全部ではないが、アメリカを車で旅行しながら見たアメリカのおかしな光景や、異常な人間のエピソードや、アーカンソーの巨大ピラミッド計画の話とか、あとはひたすらアメリカの悪口を書いてて個人的にはかなり好きでした。やっぱ車でアメリカを旅する話は面白いんだよな。あーあ、アメリカを車で旅してモーテルを泊まり歩きたい。では。

2021-02-02_SFを読んで責任を持て

最近日記を書けば書くほど己の愚かさを目の当たりにして落ち込むのだが、書くことによってそれに気付けているのであれば、この営みを絶えず繰り返していくことでいつか叡智にたどり着けないだろうか? という無謀にポジティブな気持ちでやっていく。

今日は『テクノロジー的全体主義――AI・DNA・GAFA』というテーマのオンライン講演会を聞いた。コロナ禍における数少ない良いことは、こういう講演会とか講義とかがオンラインで催されることが増えて格段に参加しやすくなったことですね。去年の沼野充義先生の最終講義なんかもまさにそう。当時はまだ自粛生活が始まったばかりで、週末に人と会ったりせず、静かに家で本を読んだり映画を見たりすることが初めて全面的に肯定されたような気持ちで、堂々と一人で時間を使うことに満足できていた時期だった。今も再び在宅勤務・自粛生活には戻ったけれど、あの頃の静かで不思議と満たされた時間というのは二度と手にできないだろうなと思う。想像以上に無能だった政府に怒り狂わないといけないし。ありがたいことに沼野先生の講義は今もYoutubeで聴けるので今まさに聞いているけれど、少しだけあの時の嬉しい気持ちが蘇ってきて心がホカホカしますね。

今日の講義は去年読んだ『漂泊のアーレント 戦場のヨナス』の著者のお二人による対談だったので、「テクノロジー的全体主義」についてハンナ・アーレントとハンス・ヨナスの思想を紹介しながら、それぞれのテクノロジーや全体主義に対する捉え方、抵抗の戦略について対比しながら語っていて面白かった。『漂泊のアーレント 戦場のヨナス』を読んだ時にも思ったけど、やっぱりハンス・ヨナスはハンス・良ナスだしハンナ・アーレントはヨナスに比べるとどうもちょっとイマイチに思えてしまうんだよな。アーレント読んでないから言いにくいけど。あと学生だったアーレントに手を出したハイデガーが最悪です。個人的哲学者好感度ランキングでハイデガーはかなり下位にいますが、まあ好感度とかその人が果たした功績に比べたら別にどうでもいいよね。いや、「好感度」を持ち出したのがそもそも間違いだった、学生に手を出して不倫したハイデガーはシンプルに最悪。いや、しかし不倫とはいえそこにアーレントの側からも愛があったならいいのか…? 何もわからない…。

「テクノロジー的全体主義」というのは、まぁタイトルのとおり「ビッグデータ」とか「AI」とかでなんでもレコメンデーションされてしまう世界で、明らかにそれは「便利」ではあるし、自分に最適化されて提示された選択肢を選ぶことは意思決定のリソースも省けるわけだし、それに乗ってしまった方がいろんな意味で「得」なのかもしれない。間違う可能性が低くて、自力では見つけられなかった自分好みのものを効率的に発見できるかもしれない。そうした「効率」や「利便性」の高い選択肢の提示を受けること自体は悪いことではないし、別に悪意ある支配者が直接的に人間の行動を操ろうとしているわけでもない。だからこそ我々はその選択肢の提示を喜んで受けてしまうし、しばしばそれに従った選択をするだろう。でも実はその時、そこで失われている人間の「自由」「自主性」「複数性」があるのではないか? 20世紀の全体主義のように恐怖や暴力で直接的に人間の自由を抑圧するのではなく、21世紀の全体主義は違う形で人間の「自由」を抑圧していくのではないか? という、まぁそれは本当にそう…という。

今日の話を聞いていて、ちょうど読んでた『現代思想』の2021年1月号(現代思想の総展望2021)の藤原辰史+山内志朗の対談で取り上げられていたエマヌエーレ・コッチャの「浸り」の概念を思い浮かべていた。「浸り」というのは、ざっくり言えば我々人間はこの地球上で生きていくために必要な空気に浸っているという意味で、我々は普段意識しておらず・見えもしないけれど、我々の生命の条件がそこにはあると。コッチャはそこからその条件を用意している植物という存在を問い直していこうとするらしいのだが、この二人の対談で印象深かったのがこの「浸り」という概念が全体主義的な恐ろしさを持っていると批判していたところで、また私は安易に今日の議論に接続してしまったのであった。マジで全然違う話ではあるのだが、「普段意識もせず・見えもしない条件」上で、我々はあらゆるテクノロジーを利用しているがそこには全体主義の契機があるんではないでしょうかということだけ言いたい(みんな知ってるか)。

話を戻して、ハンス・ヨナスの何がいいかというと、「今まだ存在していない人間」に対する責任、はるか先の未来に対する倫理を考えようとしてるところなんですよ。いわゆる「世代間倫理」というものですね。テクノロジーの発展によって、人類の行為が及ぼす影響の地理的・時間的影響というのがとんでもないことになり(たとえば原発の放射性廃棄物が安全なレベルになるのに10万年かかるみたいな)、現代を生きる我々は将来世代への責任を過去にないレベルで負っているのだと。地球温暖化とかも、今すぐなんとかしないと100年後に地球がやばくなります!!!みたいな話、でもぶっちゃけ自分はもう死んでるしね、将来世代のみんながんばれ。みたいなので本当にいいのか??よくないよね???という。ハンス・ヨナス今めっちゃアクチュアルなのでは? 『責任という原理』手に入らないらしいが。

ヨナスは「あなたの行為の影響が、地上における本当に人間らしい生き方の永続と両立するように、行為せよ」というめちゃめちゃカントの定言命法のオマージュで語っておられます。未来への責任を果たすためにはテクノロジーがどのような影響を及ぼすのか知り、いくら現在に利益をもたらすものだとしても、それが「人間らしい生き方」を将来的に滅ぼす可能性があるのであれば許容しないという判断が必要だと。そしてそのためにはテクノロジーについての知識だけではなく想像力が必要なので、「SFを読め」という話らしいです。わたしが散々引用してるハクスリーの『すばらしい新世界』をハンス・ヨナスも引用してるらしくて、気があうね♡とニコニコした。ヨナスは『すばらしい新世界』について「そこでは不幸を眺める能力が人間から失われている」と評しているらしいのだけど、今の日本でも十分に失われていますからね、本当に怖い。その社会の中では当たり前だとみなされていて、だれも疑問には思ってはいないけれど、現実にはきつい思いをしている人がいる。その目の前の傷ついている人に手を伸ばすこと、それはある意味その社会における「規範」を超えていく配慮だが、それが「責任」というものであると…。現代社会、分断されすぎてその「傷ついている人」がもはや目につかないみたいな問題もあると思いますが、自分にいったい何ができるのか、考えていきたいところ。

とりあえずSFを読みましょう! では。

21-02-01_叶えられた祈り

詩とは欲望のままとどまる欲望への、実現した愛である

ルネ・シャール「断固たる配分」

あらゆる欲望を欲望のまま留まらせず、欲望が芽生えるやいなや即座に充足させてしまうような週末を過ごしていて、ふとこの一節を思い出した。私はもともと詩的な人間ではない自負があるが、それにしてもあまりにも不満がなく・平穏で・幸福で、祈りはすぐに叶えられる、詩が生まれようもない生活で、これではまさにあの恐ろしい「すばらしい新世界」だ。詩も、文学も、真理も、神もいらない世界。

「ところが、わたしは愉快なのがきらいなんです、わたしは神を欲します、詩を、真の危険を、自由を、善良さを欲します。わたしは罪を欲するのです」
「それじゃ全く、君は不幸になる権利を要求しているわけだ」とムスタファ・モンドは言った。
「それならそれで結構ですよ」と野蛮人は昂然として言った。「わたしは不幸になる権利を求めているんです」

ハックスリー『すばらしい新世界』松村達雄 訳,講談社文庫

願ってもない幸運に恵まれながら、不幸になる権利を要求する私はあまりにも自己中心的且つ捻くれている人間かもしれないし、そんな素行ではすぐにでも願ったとおりの不幸が叶えられてしまうかもしれない。そしてその叶えられた祈りのうえに、より多くの涙が流される。はい、御察しの通りわたしはカポーティの『叶えられた祈り』が、特に一章が大好きなんですよね。一章が、というより書き出しが、「まだ汚れていない怪獣」のくだりが大好きだ。わたしもまだ汚れていない怪獣を探しに行きたいし、その過程で汚れてしまった怪獣にも会いたい。そして田舎に引っ越したい。

わたしが幸福の只中でこれほど不安になるのは・思わず「不幸になる権利」と呼ばれるものを求めずにいられないのは、まさにこの幸福を手離したくないが故なので何かをひどく間違えているような気がするが、これは私がわたしであるための切実さなのだ。私は恋愛となるといつも感情に引きずられて・常日頃の自らを損なってしまって、その結果「当初相手が好いてくれた自分」の形を失ってしまい・それ故相手からの好意もまた失ってしまうように感じていて、だから自分が恋愛によって変わってしまうことがとても怖いのだ。それこそ恋愛の醍醐味だし、わたしの望むところのはずなのにな。

最近の反省として、すぐに抽象化や一般化をして何かを取り出そうとする、パターンを見出そうとするのがよくないのではないか、というのがある。いま私が抱えている問題の恐れも、過去の恋愛における失敗から私が勝手に取り出したパターンに過ぎなくて、それの回避に躍起になること自体には実際のところ何の必然性もないのではないか。しかしこれが所謂「過学習」ってやつなのだろうか、とか考え出すと今度は学習データがやっぱり足りないんじゃないかみたいな話になってしまって、また間違った方向の努力に駆け出してしまうので安直なアナロジー・ドリブンな思考をほんとうにやめようね、それが楽しくて生きている部分は確かにあるのだが…。私はわたしが可愛いので楽しみを奪うのは忍びないけれど、一人でオモチャで遊ぶことより優先すべきことがあるのかもしれない。

冒頭に引用したルネ・シャールは、ブランショとバタイユが自著の中で割と引用することの多い詩人なので詩集を買って読んだりした。でも持ってる詩集の翻訳より、モーリス・ブランショが『終わりなき対話』の中で引用している翻訳の方が印象深かったのでそっちを引用した。ブランショかバタイユが引用してたんだよな〜〜〜とは思いつつ、すぐ『終わりなき対話』だと思い出せなくてバタイユの『内的体験』の中を探していたらやっぱりバタイユは滅茶苦茶良くて泣きたくなったので、その部分を引用して今日は寝ます。

さて、生きるとは君にとって、君のなかで統合されるいくつもの潮流や、つねに逃げ去ってゆく光の戯れなどだけを意味するわけではない。それはまた、一存在者から他の存在者への、君から君の同胞への、あるいは君の同胞から君への、熱や光の移行をも意味するのだ。(君に向かって注ぎ込まれるこの私の熱の伝染を、君が読み取るまさにその瞬間にあってさえも。)話される言葉、書物、記念碑的建築物、象徴、笑いなどは、この伝染、この移行のかずかずの道にほかならない。個別存在者などは大して重要なものではない。 –中略–  かくて私たちは、君も私も、私から君に向かって行く言葉、一葉の紙に印刷された燃え立つ言葉に比べてみれば何ものでもないのだ。なぜなら、私はただその言葉を書くためにのみ生きたのだし、その言葉が君に宛てられたものだとすれば、君はその言葉を聞くだけの力を持ったということで、これからも生きてゆくだろうから。

ジョルジュ・バタイユ『内的体験』出口裕弘訳,平凡社ライブラリー