2021年読んだ本ベスト10

2021年まじで全然本を読めていないな…という感想ですが、とはいえこの1年自分が何を読み・何を考えていたのか振り返るために無理やりベスト10を捻り出しました。
今回も良かった順のランキングではなく、概ね読んだ順に並べています。

ファビエンヌ・ブルジェール『ケアの倫理 –ネオリベラリズムへの反論』原山哲/山下りえ子訳,文庫クセジュ,白水社

最近取り上げられることが増えたように思う「ケア」という概念だけれど、この本を読んだ時点では正直なところあまりピンときていなかった。フェミニストであると自称するのも憚られるほど「フェミニズム」関連の本や議論を追えていないけれど、昨年友人とフェミニズムの話をしたときに「ケア」の話題を出されたので(ひとまず履修しておくか…)ぐらいの気持ちで手にとったのがこの本だった。

かつてないほど、私たちは「ケア」(care)の倫理を必要としている。人類はみずからの弱さをますます自覚しているが、他者へ関心をもち、他者に配慮する実践を展開することが、共に生きること、社会をつくる仕方を考えることになる。万人の万人にたいする競争、とどまることのない金融投機の資本主義において、どうしたら、自分だけに閉ざされず、他者と共に生きることができるのだろうか?

ファビエンヌ・ブルジェール『ケアの倫理 –ネオリベラリズムへの反論』原山哲/山下りえ子訳,文庫クセジュ,白水社,p7

この日本語版序文の書き出しから、あぁこれは私が学ばなければいけないことだ、と読む姿勢を改めた気がする。「ケア」というと、どうしても子育てや介護、家事といった「人の世話」に関することが思い浮かぶし、実際にそういった具体的な状況も重要なのだけれど、ケアとは広く他者への関心、他者への配慮、そして他者と共に生きるということについて考えることなのだと知った。また私が今まで「ケア」に無関心だったのは、自分が常にケアされる側であり、ケアされていることにすら無自覚だったからなのだと気付かされた。病気と治療の副作用によって徐々に身の回りのことができなくなる母を「ケア」し、今まで母が担っていた家事を引き受けるうちに、私がいかに母によるケアを搾取することで自身を成り立たせていたかということを痛感した。私はずっとこの社会構造において犠牲者ではなく、他者の犠牲の上で自分の自由を謳歌する特権を持つ加害者だったのだと、そして自身が持つ特権や加害性を自覚するのは難しいということを。

この本はキャロル・ギリガンが『もうひとつの声』で提起した問題、「配慮すること」=「ケア」が主に女たちに任されてきたこと、そしてそれらがいかに隠蔽され、議論されず、無視されてきたかということから論じ始める。そして書名にもあるように、企業家としての個人が称賛されるネオリベラリズムの社会が、「ケア」の仕事に従事する女たちや移民などを搾取することで成り立っていることを糾弾する。ケアの倫理は、まず低い地位に留められてきた「配慮の仕事」の絶対不可欠さの承認を要求し、私的なこと/公的なことの相補性を問うだけでなく、その基底である社会の在り方自体に変革を求める。この本の良いところは、これまで普遍的であると考えられてきた「道徳」がいかに家父長制の男性中心に形作られてきたものか、カントの道徳論を受け継ぐジョン・ロールズの政治リベラリズムを批判したり、十八世紀の実践哲学まで遡って現在の社会へと至る系譜を明らかにしようとしたりするところですね。フーコーの議論も引き合いに出されていて、あ〜フーコーやっぱり読まないとね…と思いましたが結局フーコーは入門の新書を1冊読むに留まりました。文庫クセジュあるあるだけど、翻訳のせいかわからないが「大事なことが書かれていることはわかるが頭に入ってこない」が結構多発して、凄くいい本なような気がしているけどちゃんと理解できているか自信はないし、まぁまぁわかりづらい&読みにくい本かもしれない。

ケアに関する本といえば ジョアン・C・トロント『ケアをするのは誰か? 新しい民主主義のかたちへ』岡野八代訳,白澤社 も読んだ。これはジョアン・C・トロントによる講演録と、トロントの思想の歩みについて訳者による解説で成り立っており、「ケア」の概念と問題提起について整理されていてこちらの方が概要としては掴みやすいかもしれない。『ケアの倫理』で取り上げられていた哲学・思想への言及はあまりないので、そっちを先に読んだ私としてはちょっと物足りなく感じたけど。原題は “Who Cares?” なので、「誰がケアするのか?」という意味と「自分が知ったことではない」というケア活動を誰かに押し付けておくことのできる特権的な人間の無責任さを皮肉るダブルミーニングになっているところがイケてる。ちなみに ケア・コレクティヴ『ケア宣言 相互依存の政治へ』岡野八代+冨岡薫+武田宏子訳,大月書店 も買ったけど絶賛積んでまーす!関連しそうな書籍としてはカトリーン・マルサルの『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?』も面白そうなので来年読みたいな。

「ケア」に関する議論、道徳と倫理の話でもあるので道徳と倫理についても考えを深めようと思ってバーナード・ウィリアムズ『生き方について哲学は何が言えるか』も読んでたけど情報量が多くて全然読み進まないんだよね!助けて〜!文章はわかりにくいわけじゃないし・むしろスーパー理路整然としてて頭が良い人間の文章ってすごいな〜と感心するばかりでまじで読み進まないんですよ。助けて〜〜!! バーナード・ウィリアムズのことは全然知らずになんとなく読んでたけど、後から読んだ佐藤岳詩『「倫理の問題」とは何か メタ倫理学から考える』 にも登場していたのでこれを読んでいた直感は正しかったな、、(?) と思った。伊藤亜紗の『手の倫理』は私は全然だめで、序盤にムカムカしてからは怒りながら読んだので正当な判断ができてないかもしれないけど、読んだ人いたらどうでしたか? 序盤の「道徳」と「倫理」に関する話がどうも腑に落ちなかったんだよな。振り返ると意外と道徳と倫理関連の本を読んでたんだなぁと思うけど、全然覚えてなくてもうだめです。

キム・ハナ/ファン・ソヌ『女ふたり、暮らしています。』清水知佐子訳,CCCメディアハウス

「その当時の私は信じていた。ひとりは秩序と似ていると。早くて、楽で、美しいという点で。」

私も基本的にひとりで行動することが好きだ。もしかすると積極的に好んでいたわけではなく結果的にもたらされたものだったかもしれないけれど、それでもひとりで行動するときの完全な自由さを気に入っていた。ひとりでいれば、無茶なハードスケジュールを組んでも自分が疲れるだけだし、わざわざ見に行ったものが退屈でも気まずくならないし、家が散らかっていても問題ないし、何を食べるのも食べないのも自分の自由だ。ひとりでいるのはとにかく楽だ。思うようにいかなくてイライラすることもないし、こちらが相手に迷惑をかけたり/不快に思わせたりする心配もない。それでも、この自由さが時々無性に空しくなることがある。

今でも私は、ひとりで食べるご飯をおいしいと思うし、ひとり旅の気軽さが好きだ。その一方で、こう思うようになった。ひとりですることはすべて記憶になるけれど、一緒にやれば思い出になると。感動も不平不満も、心の中でつぶやけるだけつぶやいた後には口に出して確認したくなるものなのだ。

キム・ハナ/ファン・ソヌ『女ふたり、暮らしています。』清水知佐子訳,CCCメディアハウス,P23

私はおそらくひとりを相当満喫できるタイプの人間だし、むしろひとりの時間がないと死にそうな人間だけれど、自分のためだけに、自分ひとりの満足のために生きるのにはほとほとうんざりして飽きてきたというのが正直なところだ。誰かと共にいるということは厄介で、めんどくさくて、自由が制限されて、ひとりでいることが秩序であるならば・誰かといることは自分の世界に混沌が持ち込まれることだ。キム・ハナとファン・ソヌは凄く趣味があって意気投合できる友人であったけれど、一緒に暮らしてみたらまるで正反対の性質の持ち主であることが発覚して、これだけ性質の違う人間がよく一緒に暮らせるな…と感心してしまう。もちろんそれ故にぶつかることもあるわけだけれど、どうやってそれを乗り越えるか、むしろ自分と正反対の人間から何を感じて何を学ぶか、ということがお互いの視点から書かれていてすごく参考になったし、あぁ人と暮らしたいなぁと思わされた。孤独を避けるためには基本的に「結婚」しかない(と思わされている)社会の中で、恋人ではない友人をパートナーとして、一緒にローンを組んで良いマンションを買って共に暮らすという選択肢… 本当に素晴らしいしなぜ私はこれをやっていないのか…なぜできないのか… と遠い目になってしまうが、実践していることの凄さに比べると文章や発想は軽やかで本当に愉しくて良い本だった。パジャマが「くつろぎのためのスーツ」と呼ばれていたのに触発されて思わずシルクの可愛いパジャマ上下を買ってしまったぜ。

カルヴィーノ『アメリカ講義 新たな千年紀のための六つのメモ』米川良夫・和田忠彦訳,岩波文庫

なんで急にこの本を読んだのか全く思い出せないけれど、多分何かで言及されていて読んだのでしょう。これはイタロ・カルヴィーノがハーヴァード大学のノートン詩学講義に招待された時の講義録を本にしたもの。ノートンレクチャーズといえば、ボルヘス( This Craft of Verse『詩という仕事について』岩波文庫)やオクタビオ・パス( Children of the Mire: Modern Poetry from Romanticism to the Avant-Garde 『泥の子供たち ロマン主義からアヴァンギャルドへ』水声社)も講義をしていてそれぞれ本になってますね、『泥の子供たち』がそうだという情報は日本語でググっても出てこないが、講演のタイトルからしてまず間違いなくそうだよね? ボルヘスは大学の頃に読みすぎて以来読んでないのでよく覚えていないが、泥の子供たちは最近読んでとても面白かったのでおすすめ。

「新たな千年紀のための六つのメモ」とあるように、これからの1000年に遺すべき文学の6つの価値をあげて、厖大な書物へ言及・引用しながら軽やかに議論を進めていく、その教養に裏付けられた知性が眩いばかりで、博識な人間が大好きな私は読んでいてどうしようもなく嬉しくなってしまう。ギリシャ神話からルクレーティウスの『事物の本性について』、ダンテからカヴァルカンティを経由してエミリー・ディキンスンへ、シェイクスピアとホロスコープの秘教的哲学からシラノ・ド・ベルジュラックへ。スウィフトとニュートン、民話とデカメロン、シェヘラザード、メルクリウスとウルカーヌス。縦横無尽に枝分かれし、脱線し、時代も、国も、ジャンルも飛び越えて自由に伸びやかに広がる話題を追っていくのはこの上ない喜びで、本を読むことの純粋な楽しさを久しぶりに味わえた。イタリアの作家の小説など知らないものもたくさんあったけど、『なぜ古典を読むのか』 しかりカルヴィーノは本を紹介するのがすごく上手いのでどれも読みたくなりますね。実際に読むと(カルヴィーノの紹介文の方がずっと面白かったな…)となる場合もしばしばなんだけど。

エツィオ・マンズィーニ『日々の政治 ソーシャルイノベーションをもたらすデザイン文化』安西洋之・八重樫文訳,ビー・エヌ・エヌ新社

カルヴィーノの次に挙げたこの本ですが、今両方とも読み返していたらこの本とはジークムント・バウマンのリキッド・モダニティ(液状性)という共通点があった様子。全然意識してなかったしバウマンも読んでいないけど。

さて、カルヴィーノが講義草稿のなかで掲げている「軽さ」は、おそらくジークムント・バウマンのいうポストモダンの特性である(「固定性」にたいする)「液状性」に相当するといっても差し支えないでしょう。「分子構造が有する流動性」と言ったほうが、よりはっきりするかもしれません。マルクス思想の流れをくむ隠喩でもある「流動性」(=「液状性」)に《近代》と《近代後》の《いま》を分かつ特性をもとめる社会学者バウマンが、一九二三年生まれで二歳年長のカルヴィーノとほぼ同世代であるという事実も、そしてカルヴィーノ自身が戦中つまり一九四〇年代から、イタリア共産党入党、そして五六年のハンガリーでの出来事を契機としての(除名に等しい)離党を経て、一九八〇年代にいたるまで、一貫して《アンガージュマン》の方途を模索するなかで、《近代後》の二十一世紀にあっても、文学の可能性を称揚するために「軽さ」という価値を掲げるにいたったという経緯も、一見およそ交わるはずのないふたりの同世代人が思考の果てに収斂する不思議を解き明かす手がかりとなるのかもしれません。

カルヴィーノ『アメリカ講義 新たな千年紀のための六つのメモ』米川良夫・和田忠彦訳,岩波文庫,P271(和田忠彦「解説」)

ぼくとしては、バウマンの危惧、そして彼と同じように、今日見るような液状化した世界の悲劇を嘆く人たちの危惧に心を寄せている。だが、ぼくは今の現実にある液状的な特質と、その特質が引き起こす問題、これらの二つを区別したい。そして、液状の世界は今日われわれが生きている世界よりも好ましい–こう仮説を立ててみたい。それは、先の固定的な世界よりも望ましいかもさえしれない。煎じ詰めると、厳密にいえば昔日にあった固定的な世界、あるいはもっと突っ込んで表現すれば、ぼくたちが固定的とみなす文化が、今ある環境や社会の災難を導いてしまったのである。しかし液体の世界のメタファーを使うことによって、ぼくたちはどうすればここで生きられるかがきっとわかる。ある意味、ぼくたちを取り囲むすべての流動性に対し、さらに軽快に、より順応することで生きられる。

エツィオ・マンズィーニ『日々の政治 ソーシャルイノベーションをもたらすデザイン文化』安西洋之・八重樫文訳,ビー・エヌ・エヌ新社,P22

なんか普段の私なら読まなそうな本な気がするけど、春に京都に行った時に訪れた恵文社で目に止まってなんとなく手にとった。著者はサービスデザインとサステナブルデザインの世界的リーダーで、ソーシャルイノベーションと持続可能性のためのデザインの国際ネットワークの創始者とのことで、なんか最近のトレンド全部盛りか…?と肩書きだけ見るとなんとなくヒャっとなってしまうのだが、実際に読むと上にあげたバウマンしかり、ルクレティウス、ミシェル・セール、エドガール・モラン、アンソニー・ギデンズ、レヴィ=ストロース、ミシェル・フーコー、ハン・ビョンチョル、シャンタル・ムフ…と色んな思想家を参照しながら検討を進めていくスタイルが私好みで、なんとなくカルヴィーノの講義も彷彿とさせる…と思いながらパラパラ読み返してたら謎が解けたんだけど、そもそもこの本でカルヴィーノの『アメリカ講義』が引用されていたからカルヴィーノを読んだっぽいですね。前後が逆転してしまった。そりゃ繋がるものがあるわけだわ。

エツィオ・マンズィーニは「デザインは倫理的に選択をする行為だ」と定義していて、ここでも改めて現代に必要なのは倫理…という確信を深めた。公共財を破壊するネオリベラリズムとグローバリゼーション、反動的に力を増しているナショナリズムや人種差別主義のイデオロギーの圧力のなかで、われわれはどうやって生き延び、より良い社会を作っていけるのか? それにはまず個人が倫理的で政治的な選択を行うこと、そして同じ場所で生活する人たちと一緒に、毎日の生活のなかで抱える問題について取り組むこと。決して世界は統一されたロジックで動く巨大な機械ではなく、「液状化」した世界だからこそこれまでと違ったように考え、実践できる余地が常にあるのだと著者は説く。現代社会の抱える構造的な問題には絶望的な気持ちになるけれど、それでもまずは小さなことから、身の回りのことから始められるのだというポジティブな気持ちを抱かせてくれる良い本だった。

杉浦勉+鈴木慎一郎+東琢磨 編著『シンコペーション ラティーノ/カリビアンの文化実践』エディマン

これ、めっちゃくちゃ面白かった! 去年読んだ杉浦勉さんの『霊と女たち』が大変に良かったのでこの人の著作他にもっとないの…?と思って探してあてた15人の執筆者による雑誌形式の本。「シンコペーション」とは音楽用語で強弱を転換させるリズム上の技巧のことで、ここでは文化におけるリニアで進歩主義的な時間の流れに風穴を、異質なものへと通じていく裂け目を開けるような実践のメタファーとして用いられている。また、ポール・ギルロイの『ブラック・アトランティック』(私は読もうとして挫折しました)のなかで触れられている「シンコペートされた時間性 syncopated temporality」に直接的にインスパイアされているとのこと。ギルロイが黒人音楽によって繋がっていく解釈共同体をオルタナティブな公共圏として論じたように、「国民」という均質な共同体を可能にする時間感覚とは別の存在の方法。ラティーノ/カリビアンというカテゴリーも非常に多義的で、アメリカ在住のラテンアメリカ/スペイン語圏カリブ海地域の出身者という定義だけでは収まらず、(今までの私のその文化圏に対する解像度が低すぎたということもあったのだけれど)想像以上に複雑で多様な文化があって、眼から鱗は落ちっぱなしだし、激しく目を開かれる思いがした。

「ぼくにとってグラフィティは政府による抑圧(そしてそれに対する無関心)、社会的、人種的障壁、そして物質的所有を簡単に乗り越える方法なんだ。それはまた世界中の人びとを、決してそれ以外じゃできないようなやり方で —人びとがどんなに違おうとも— 結合させる運動に飛び込むことでもあるんだ」(Sound One, ICB, AS バークレーのライター)

酒井隆史「タギングの奇跡 都市をレイヤリングするグラフィティ」『シンコペーション ラティーノ/カリビアンの文化実践』エディマン,P54

ニューヨークのワシントンハイツにおけるドミニカンコミュニティとダンス、クラブカルチャー、カナダにおけるマルチカルチュラリズムの問題点とカリビアン・ディアスポラの実践、ロサンゼルスのチカーノ文化、都市に現れるグラフィティを巡る攻防、ラティーナフェミニストのパフォーマンス、カリブ海地域の女性による「語り」、物質化し讃えられるキューバの神々… とても紹介しきれないけどどれも面白くて超勉強になった。

そのなかでも「連結する路上 音楽/スタイルの脱場所とコミュニティの詩学」という東琢磨さんによる「サルサ」の拡散と多義性、具体的な実践に関する論考で触れられていた空間の戦術としての「小さな家(カシータ)」がなんとなく印象に残っている。低所得者向けの高層建築の谷間にカリブ風の小屋を作り、プエルトリコ音楽の演奏やパーティと連動させる、不法占拠によるサイト・スペシフィック・アートの試み。そこでは社交や料理、カードゲーム、小規模な菜園づくりなどが行われ、BBQのためのパティオや庭、ベンチ、壁画などがフェンスで守られていて、ぬいぐるみの動物や、石膏やプラスティックでできた聖母像、絵画、彫刻を施した飾り枝などが飾られている…。

また、リッパードは、このプロジェクトを「ヤード・アート Yard Art」の文脈につなげて論じている。リッパードが紹介しているヤード・アートはミシシッピなどの南部の地方や郊外での中庭を使ってのフォークロリックなインスタレーション。この場合の「ヤード」は、南部のアフリカン・アメリカンの文化伝統の空間としてある。音楽、キルト、アートがヤードにインストールされる。リッパードはそうしたアートの都市における類似性・連続性を「カシータ」に見ており、その舞台となる空間を「セミパブリック・スペース」という言い方をしているわけだ。

東琢磨「連結する路上 音楽/スタイルの脱場所とコミュニティの詩学」『シンコペーション ラティーノ/カリビアンの文化実践』エディマン,P242

なぜ私がこれに惹かれたかというと、秘密基地的な、文化的シェアスペースとしての小屋というイメージはもちろんなんだけど、ベル・フックスが語っていた南部のアフリカン・アメリカンの生活の中での美の実践につながっているから。

南部の黒人男性で、反権威的な美学の持ち主であれば、経済的には恵まれなくても精神の豊かさを持っていることはしばしばあった。白人至上主義と資本主義の力が意義ある仕事へのアクセスを彼らに禁じても、彼らは自らの魂を成長させ、自分自身を支える方法を編み出してきた。私の祖父、ダディ・ガスの場合には、創造しようとする意志こそが生命を支えた。彼にとって美は、拾ったもの、捨てられていたが彼の言葉によれば「そこには霊が宿っていた」ので、彼が救いだして修理したものの中に存在していた。彼の部屋 —私たち子供にとっては、贅沢で、歓迎されていると感じられる場所— は、「たからもの」でいっぱいだった。その貴重な「美しい」品々の聖域に入ると、私たちは、平和と静謐の雰囲気に包まれた。仏僧チョグャム・トルンパは『シャンバラ —勇者の道』で、私たちは自分のいる場所で優しさと正確さを表現することによって、そのような環境を作り出すと教えている。「あなたは土間で窓が一つしかない、泥でできた小屋に住んでいるかもしれないが、もしその場所を聖なる場所とみなせば、もし頭と心をつくして手入れをすれば、それは宮殿ともなるのです。」

ベル・フックス「ありのままの美 –ありふれたものの美学」『アート・オン・マイ・マインド アフリカ系アメリカ人芸術における人種・ジェンダー・階級』杉山直子訳,三元社,P164

でもこれも彼女の祖父・祖母たちの世代までのことで、彼女の母の世代からはアメリカの主流的な価値観:広告や映画やカタログの中で見るさまざまな商品に美を見出すようになってしまった、と書いている。祖母も母も、美しいものは人生を高めてくれ、状況がひどいほど気を取り直し希望を持つために必需品とは別の「贅沢な」「美しい」ものが魂には必要であるという点においては意見が一致しているのだが、その美的基準が今や異なってしまったのだと。快楽主義的な消費文化が、アフリカン・アメリカンの人々が持っていた過去の工芸品を捨てるか、破壊するか、売るように唆し、心を慰める効果を持つ美的感覚を喪失させた、と。もちろん偏執的な物質主義は批判されて然るべきなのだけれど、生活と魂を豊かにする美を、創造性を発揮する機会を、既存の支配構造を強化することなく情熱を満足させる方法を求めていくべきだとベル・フックスは説いている。本当にこの「美」や物質的な満足を求めることと、資本主義・物質主義批判を両立させるのってなかなかに難しいことだなぁと思うんだけど、一面的に批判するのではなく両立させる道をなんとかして選んでいこ!というベル・フックスには頭が下がるばかり。あとこの論考の中で引用されているアリス・ウォーカーのエッセイ「母の庭をさがして」も読みたいなぁと思って入手したけど絶賛積んでいま〜す!

久保明教『「家庭料理」という戦場 暮らしはデザインできるか?』コトニ社

この本は多分日記でも一度紹介したのだけれど、ブルーノ・ラトゥールのアクターネットワーク論の本なども書いている著者が、1960年代から現在に至る家庭料理をめぐる諸関係の変遷を、これまでに刊行された料理研究家によるレシピ本を収集して実際に作りながら、分析していくという実践✖️考察の本。カツ代(小林カツ代)とはるみ(栗原はるみ)のレシピ対決五番勝負つき。

読者たちのライフスタイルは実生活から乖離した幻想ではなく、耐えざる商品探索と創意工夫によって生活感を減らし、所帯じみた気分を解除し、生活にまみれた主婦であることを否定する努力によってかろうじて生みだされる、切実な「ままごと遊び」なのである。「家事だの子育てだの、面倒なことは遊びに変えちゃえ……しかし本当にそれでいいのだろうか」という阿古の問いかけには、「そうでもしないと、生活なんてやってられないでしょう?」という切迫した実感のこもった反撃を対置させることができるだろう。

久保明教『「家庭料理」という戦場 暮らしはデザインできるか?』コトニ社,P155

上記は雑誌『マート』の中心的な読者層である七〇年代生まれの主婦に対する阿古真里による批判へのカウンターだ。コストコやカルディで珍しい調味料や食材を購入し、目先の変わった料理を楽しむマートの読者を「ままごと遊び」と断じる阿古に対して、これもまた現代の主婦の創意工夫の成果の一つであると肯定しようとする。確かに阿古の家庭料理観 —何を食べたいか、何を食べさせたいかという欲求に能動的になること、自分と家族の欲求を知り、それらをすり合わせて我が家の「家庭料理」を作り上げることが「幸せ」なのだというのも分からないでもない。実際、自分で料理をするようになって、今まであまり関心を向けてこなかった「自分が何を食べたいのか」「恋人と何を食べたいのか」ということと向き合う機会が増え、その欲求を実現して美味しくご飯を食べれたときは確かに「幸せ」を感じた。とはいえ、「家庭料理」が近代社会の中で「家族」という共同体を担保するために期待されていた役割などについてもこの本で読んで理解したので、うるせ〜〜〜知らね〜〜〜!という気持ちになったね。しかし中華や洋食が家庭料理に取り入れられるようになったのは、出身が異なる男女が家族になったとき、和食の場合地方によってだしであったり味付けがかなり異なるので、逆にお互いのルーツに関わらない食事の方が違和感なく共有できるというのはなるほどなぁと思った。

食と共同体に関する本といえば、フランスにおける食事–主に豚を食べるということと共同性、差別について書かれたピエール・ビルンボームの『共和国と豚』も非常に面白かったです! 啓蒙主義の掲げるフラテルニテ(兄弟愛)は、同じ食卓を囲み、同じ食事を食べる者に与えられる資格で、宗教的な理由でそれを拒む者–ユダヤ教徒やイスラム教徒は共同体を破壊する不届き者だ!という理屈。極右の反移民、反イスラームデモなんかではわざとハムやソーセージなんかを食べたりするのを見せびらかしたりするらしい。ハムやソーセージを食べることに政治的な意味が生じるという意識がなかったのでびっくりしてしまったな。

ヴィトルト・シャブウォフスキ『踊る熊たち 冷戦後の体制転換にもがく人々』柴田文乃訳,白水社

ブルガリアには踊る熊の伝統があったという。熊たちは小さな頃から調教師のもとで踊るための訓練をさせられ、観光客向けに踊ったり、さまざまな芸を披露した。調教師は熊たちに鼻輪を通し、歯を全て抜き、熊が自分の強さを思い出したりしないように精神を打ち砕き、アルコールに依存させたらしい。しかし二〇〇七年にブルガリアが欧州連合に加盟すると、突然「踊る熊」は動物虐待ということで非合法になった。オーストリアの動物保護団体がソフィア近郊に踊る熊を保護する施設を作り、調教師から熊たちを解放し、そのセンターで熊たちに「自由」を与えた。そこで熊たちは自由を手に入れ、その代わりにすべてのことについて自分で対処しなくてはいけないということを学ばなくてはいけなかった。自由な熊はどのように動くのか? 自分の将来のためにどんな努力が必要なのか? どのように交尾をし、どのように冬眠するのか? これまで自由を知らなかった熊たちにとって、自由は複雑で、自分自身を気にかけなくてはいけない生活は困難を伴った。

引退したどの踊る熊にも自由であることがつらくなる瞬間があることを私は知った。そんなとき熊はどうするか? 後ろ足で立って…踊り出すのだ。園の職員がどうしてもやめさせたいと思っているまさにそのことを再現してしまう。奴隷の振る舞いを再現するのだ。戻ってきて、再び自分の生活の責任を取ってくれと調教師を呼ぶ。「鞭で打ってくれ、手ひどく扱ってくれ、でも自分の生活に対処しなくてはならないこの忌々しい必然性をどうか取り除いてくれ」 —熊たちはこう言っているように見える。
そしてまた私は思った。これは一見、熊たちの物語のように見える。だが私たちの話でもあるのだと。

ヴィトルト・シャブウォフスキ『踊る熊たち 冷戦後の体制転換にもがく人々』柴田文乃訳,白水社,P13

この本は踊る熊についてのルポルタージュであると同時に、ソ連崩壊後の旧共産主義諸国で生きる人々がどのように手に入れた「自由」に対処するのかというルポルタージュでもある。この本は大きく二部に分かれており、一部は「踊る熊」を奪われた調教師たちや保護施設で働くスタッフなどへの取材を中心に、二部はポーランド、ウクライナ、エストニア、セルビア、グルジアなどで旧共産主義国で体制崩壊後急速な変化の中で暮らす人々の声をレポートしている。私は調教師がいかに自分の熊を愛していたか、どのように熊と出会い、暮らしてきたか、外から来た者たちに突然自分の生業を否定され、取り上げられ、愛する熊と引き裂かれた哀しみについて語る声を聞くとどうしてもそちらに心を傾けてしまうのだけれど、著者は一方の立場に入れ込んだり/批判するでもなく、どの立場にある人の意見もフラットに取り上げていて、その眼差しの距離感と淡々とした筆致のなかにほのかに漂う寂しさ、悲哀、ノスタルジーが読み進めていくうちに心に堆積していくような本だった。一見堅そうな雰囲気の本だけど、想像以上に読みやすいし面白かったです。グルジアのスターリン博物館で働く人たちの話がよかった。

中島那奈子・外山紀久子編著『老いと踊り』勁草書房

踊りつながりというわけではないが、前から読みたいと思ってた本。タイトルの通り「踊り」と「老い」の問題について、二〇一四年に行われた国際シンポジウムでの議論からスタートし、若さ —強さや効率性を至上命題としない新しい主体の在り方を模索するための論考集になっている。

「老い」はすべての人間が避けられず経験する生の条件だけれども、「老い」もまたア社会や文化によってパフォーマティブに構築され影響を受けるものなのだなと思った。「踊り」も欧米文化圏では「理想の身体」を体現してきたものだからこそ「老い」を持ち込むことは元々タブーとされており、美学的・社会的パラダイムの変換となるようなものであるが、一方で日本舞踊では「老い」は熟達を意味し、欧米に比べればポジティブに捉えられいたというような比較が面白かった。能では老人の恋愛を主題にしたようなものもあるらしく、ずっと見に行きたいな〜と思いつつ未経験なので能も嗜むようになりたいな。

老いをめぐる言説について、生政治の話でフーコーやアガンベンが出てきたのでアガンベンも読みたいな〜と興味を持ったけど未着手です。しかし「ケア」「ソーシャルイノベーション」に続き、ここでもフーコーが盛んに出てきたので至る所でフーコーが出てくる一年だったな。2022年はフーコーをちゃんと読むか…。あと2022年にはピナ・バウシュの「春の祭典」の来日公演があるし、絶対見たいですね!!! 5月にあるので忘れないようにしないと。

イヴォンヌ、テキストを読むのを続けていいよ、でも踊ること、痛みを感じること、全てを続けなさい。「もう踊らない」と弱々しく訴えるのは終わり。踊って、いい子だから、踊って、そして私を観察する全ての人に挑戦する、「この私を憐まないで」。

イヴォンヌ・レイナー「ダンスにおける痛みの身体」外山紀久子訳,中島那菜子・外山紀久子編著『老いと踊り』勁草書房,P101

イヴォンヌ・レイナーの映画は以前見たことがあってとても良かったのだけれど、元々ダンサーであったということを知らなかったのでびっくりしたし彼女のエッセイを読めたのは思いがけず嬉しかったな。

アリス・ウォーカー『カラーパープル』柳澤由美子訳,集英社文庫,集英社

私のフェミニズムはほとんど全てベル・フックスから学んでいるし、藤本和子さんの『塩を食う女たち』も大好きな本だし、アフリカン・アメリカンの文化や歴史についてもっと学びたいなと思いつつ小説は全然読めていなかったので、ようやくアリス・ウォーカーを読みました。多分これもまたどこかで取り上げられていて読まなきゃ…と思って積んでいたものと思われる。トニ・モリスンの『ビラヴド』はまだ積んでいます!

今年はこのベスト10を見て分かる通り全然小説を読んでなかったので、久しぶりに小説を読んで面白かった〜!となって良かった。女が男にひどい扱いを受けるけど、女も負けじと男にひどいことをするし、女と女の友情、愛、支え合いの物語だった。ある魅惑の女を巡って、関係が終わってる夫婦(※夫も妻もその女のことを愛している)が通じあう瞬間があるのが妙なんだけど変わってて良かったな。途中ハラハラするしこんなの絶対絶望的じゃん…となるけどハッピーエンドなので安心して読んで欲しい。

ねえ、聞いて。神はあんたが好きなものならなんでも好き。あんたが嫌いなたくさんのものもね。だけど何よりも、神は賞めたたえられるのが好きなの。
あんた、神はお世辞が好きって言ってるのかい。
ううん、お世辞じゃなくて、いいものを分かち合うってことをしたいんじゃないの? あんたが野原を歩いていて、むらさきいろのそばを通りすぎて、それに気づきさえしなかったら、神は本気で腹を立てると思うよ。

アリス・ウォーカー『カラーパープル』柳澤由美子訳,集英社文庫,集英社, P234

ドストエフスキー『悪霊』江川卓訳,新潮文庫,新潮社

今年は最後の最後にドストエフスキーにハマり、挫折していた『悪霊』を読破した。前に読んだときはいまいち話の筋が掴めなくて、誰がメインのどういう話なんだ…?と訝っているうちにリタイアしてしまったが、スタヴローギンというカリスマ美丈夫の総受けBL小説なのだと思って読んだらスラスラ読めた。人間が人間に執着して頭がおかしくなっている様子を見ることほど嬉しいことはないですね。誰かを「崇拝する」というのは愛や理解とは程遠い感情であり行為なんだけど、それがない人生というのもなんだかわびしいな…と思ってしまう。なんかもうドストエフスキーはストーリーがどう面白いとかっていう以前に、すべての登場人物の言動が面白いし、みんな異常にエネルギッシュで破滅的な状況でも元気いっぱいだからこちらもとにかく元気が出ますね。

「人間がよくないのは、自分たちがいい人間であることを知らないからです」と彼はふいにまた話しだした。「それを知れば、女の子に暴行を加えたりはしない。人間は自分がいい人間であることを知る必要がある。そうすればすべての人が、一人残らず、即座にいい人間になる」
「きみはそれに気づいた、してみると、きみはいい人間ですね?」
「ぼくはいい人間です」
「もっとも、それには同感だな」スタヴローギンは眉をひそめてつぶやいた。

ドストエフスキー『悪霊』(上)江川卓訳,新潮文庫,P453

スタヴローギンは熱烈にいろんな男から崇拝されているけれど、なぜ彼がそんなに人を惹きつけるのかは正直あまりわからないな、、と思った。それよりキリーロフの振り切った個性が光っていますよね。「ドストエフスキーの愛し合う男たち」という記事でおすすめされていたカップリングはシャートフ×キリーロフでしたが、確かに味わいのある良いCPだと思います。

2021年は好きな男にうつつを抜かしていたのと、家事と母のケアに追われるようになったのもあって全然本を読めなかったな…というのが実感でしたが、こうして振り返ってみると意外と読んでたし一定の方向性というか、共通するテーマみたいなものがなんとなくあったように思えて面白かった。去年の反省を踏まえて早めに書き始めたのにやっぱり2021年も年内に収まらなかった! 2022年もしっかり本を読む&ちゃんと記録をつけて整理する&年内に振り返りを終わらせるを目標にやっていきたいです。