2021-03-29_嫉妬と夢女子

金曜日に有休を取っていたので、彼氏とどこか近場で日帰りか/車で行ける範囲で1泊の旅行に行こうと話していたのが直前になって突然京都になった。桜が満開であろうタイミングだし、どうせ新幹線も宿も埋まっているだろうと思いきや意外と空いてそうだったので思い切って足を伸ばす。あらゆる寺の入り口に「満開」と貼り出されているぐらい本当に桜が満開だったのだが、その割ぜんぜん空いていたのでかなり奇跡的な京都だった。

彼氏は大学時代を京都で過ごしたせいで京都を我がものだと思っている節があり、日頃からことあるごとに京都マウントを取ってきて不快である。しかし実際に一緒に京都に行ってみると、いつもはあまり話してくれない/ややわざとらしく響く関西弁も自然に聞こえるし、いつもより落ち着いていて街に馴染んでいるように見えた。やはりルーツがこちらにある人間なのだなと思った。そのせいなのか、旅行中何度も妙な寂しさが私を捕らえた。

もし、きみが、幸運にも、青年時代にパリに住んだとすれば、きみが残りの人生をどこで過ごそうとも、それはきみについてまわる。なぜなら、パリは移動祝祭日だからだ」というのはかの有名なヘミングウェイの『移動祝祭日』の一節ですが、おそらく京都で学生時代を過ごした人間にも同じようなことが言えるのだろうなと思う。京都ってパン屋は全部 boulangerie だし、本当にパリぶってるよね。両方好きだけど。

自分は嫉妬をするのが意外と好きなのだと最近気がついたけれど、京都に関して言えばいちいち過去に対して嫉妬をするには対象が膨大で、途方もなく、圧倒的な移動祝祭日を相手にするのはいささか分が悪いので、私のやきもち焼きははなから撤退戦の様相を呈していた。しかしそれはそれで当然寂しいもので、彼の通っていた大学や昔住んでいた付近を散策しても、そこにある物語がわからなければ私にとっては味気なく、同じ場所にいながらお互い全く違う風景が見えているだろうことだけが感じられて、隔たりが現れ、なんとなく虚しい気持ちになった。

「嫉妬」について前に書いたとき、「妬み(Envy)は誰かが持っているものへの欲望であり、嫉妬(Jealousy)は自分が持っているものを失うことへの恐怖である」というのを読んで、私は「妬み」の方は感じないなぁなんて呑気に書いていたけれど、過去に対する嫉妬というのはまさに「相手が持っているものへの羨み」であって滅茶苦茶ストレートに妬みじゃんな。これだから自分の目の中に丸太があるのは困るんですよね。。認知〜! しっかりして〜!

しかし「嫉妬が好き」ということがどういうことなのかもう少し掘り下げてみると、これはおそらく私の「夢女子」精神から由来しているものなんですね。腐女子というのはキャラクター同士をカップリングして関係性を楽しむものですが、夢女子というのは自分とキャラクターをカップリングして楽しむ嗜好のことです。「自分」とのカップリングと言っても、より正確に言えば「自分が感情移入をして楽しむオリジナルのキャラクター」と好きなキャラクターのカップリングであり、夢小説(※登場人物の名前を変換して読む小説)を読み漁るという行為は、好きなキャラクターが様々なタイプの人間と・様々なシチュエーションで・様々な関係性をもつのを楽しむということなんですよね。そこにあるのは無限の可能性…。
で、これがどう「嫉妬が好き」と結びつくかというと、要は自分の好きな男が様々なタイプの人間と・様々なシチュエーションで・様々な関係性をもつのを見たいという欲望から来ていると考えられるんですよね。自分と好きな男の関係性は基本的に1つのパターンしかないけれど(※謎の設定の上で茶番劇をやるのは、その固定的になりがちな関係性をずらしたり・ひっくり返したりできるのが楽しい)、私ではない違う人間に対して、この男はどんな顔を見せるのだろうか? というのを知りたいのだよな。嫉妬深いくせに好きな男の過去の恋愛話を聞きたがるのは、こういう悪趣味な楽しみがあるからなのだとこれも最近気づいた。さらに私の悪さを白状すると、過去の話を聞いた後・そのまま「もし、それが私だったら」というifの物語を展開して登場人物を挿げ替えて再上演しようとするところ。これは本当に悪い趣味だと思います。

京都旅行中に感じた妙な寂しさについてずっと考えていて、帰ってきてからもバルトの『恋愛のディスクール・断章』のページを久しぶりに捲っている。今日ももっと「寂しさ」について書こうと思ったのに嫉妬と夢小説と私の悪い趣味の話になってしまった。でも「欲望」というのは往々にして不都合なものだし、自分が何を求めているのか知らないままでいるよりはずっといいと思う。知らなければ折り合いをつけることもままならないので。

性欲が私について教えてくれることは、必ずしも私の気に入るわけではなく、私がそうありたいと願うあり方と常に一致するわけでもない。それでも私は、私の性欲について知りたい。安全な社会的イメージを保つために目を背け、自分について知っていることを否定する代わりに。

ヴィルジニー・デパント『キングコング・セオリー』相川千尋訳,柏書房

2021-03-22_必要になったら電話をかけて

いつも三日坊主のわたしにしては継続できていた日記だが、ちょっと油断したら1ヶ月ほど余裕で書いておらず魂消た。これはほんとうに魂が削れた感じがするので、たまげたを漢字で書くのが相応しい事態であると思う。Time flies.

どんなにくだらないことでも何かしらを書いていないと、後から振り返った時にひどく空虚な日々を過ごしてしまったような気がしてしまう。その時の真っ只中にいるときはとても幸せで、満ち足りているからこそ「何かを書かなければいけない」というようなある種強迫的な必要性にも駆られず生きていられたのだろうけれど、やっぱり私は苦しくても・痛くても・不十分でも・偏っていても・意味がなくても、この世に爪を立てて生きたいし、せめて日記ぐらいは書きたいと思う。

この世に生きたすべての人の、言語化も記録もされない、本人すら忘れてしまっているような些細な記憶。そういうものが、その人の退場とともに失われてしまうということが、私には苦しくて仕方がない。どこかの誰かがさっき食べたフライドポテトが美味しかったことも、道端で見た花をきれいだと思ったことも、ぜんぶ宇宙のどこかに保存されていてほしい。

岸本佐知子『死ぬまでに行きたい海』スイッチ・パブリッシング

『死ぬまでに行きたい海』の単行本は買ってまだ読めていないのだけど、この文章は『MONKEY』の連載で読んだ時からずっと心に残っていて、わたしがこうして日記を書くのもささやかな保存の試みの一つなのだ。しかし紙に書かれた日記なら物理的に損傷しなければ数十年ぐらいは保存できるだろうけれど、数多あるブログサービスが数十年後続いていることは考えにくい。実際すでに多くのサービスが終了して・そのまま失われてしまった個人サイトや個人ブログが大量にあるわけで、わたしはそれもとても悲しい。サービスが終了しても本人が健在でやる気があれば、ごそっとデータを持って引っ越せばいい話だが、そのまま打ち捨てられるものがほとんどだろう。そして本人が死んだ後なんてなおさらどうしようもない。自分が死んだら全部削除してほしいという人もいるだろうし、そこは当人の意思を尊重すべきだろうけれど、それにしたってわたしは誰かが生きた痕跡が消えて無くなるということが耐えがたく悲しい。デリダも彼にとって慰めようのない喪失とは「記憶の喪失」であり、最も深い欲望は「記憶を保持すること」だと言っていて、(高橋哲哉『デリダ 脱構築と正義』)わたしがデリダを好きな大きな理由であると思う。

痕跡の抹消の経験から欲望されるエクリチュールは、しかしそれ自身、純粋な固有性、唯一性、特異性を抹消する働きである。記憶は忘却の犠牲のうえにしか生き延びることはできない。記憶の約束は、エクリチュールの書きこみによる特異性の焼却(incinération)の灰の上ににのみ、残ることなくして残る。アポリアとしての記憶、エクリチュールのダブル・バインド、あるいは「名のパラドクス」。こうしたアポリア、ダブル・バインド、パラドクスこそ、記憶、伝承、約束、反復、歴史といったものの可能性の条件である。

高橋哲哉『デリダ 脱構築と正義』講談社学術文庫

今日は久しぶりに仕事で電話をする予定があったのだけれど、わたしは電話をするのが本当に嫌いで、電話がかかってくるはずの時間の少し前から動悸がして無駄に部屋をウロウロしてしまい、こんなに電話が嫌いなのによく営業ができてたな…と過去の自分を尊敬と憐憫と(そんなに向いてないことをするなよ)という呆れの気持ちで眺めてしまった。どうして私はこんなに電話が苦手なのだろうと悩んでいたのだが、先日、昨年の誕生日に友人がくれた『カタストロフ前夜』をようやく読んで、その中の「声は現れる」というテキストを読んで腑に落ちるものがあった。

生きている限り別の人にじかに触れることができる肌を除いては、ただ声のみが、音の波として発され、じかにわたしたちの鼓膜に触れ、耳を温めることができる

関口涼子「声は現れる」『カタストロフ前夜』明石書店)

「電話が嫌い」といっても、長電話をする夜は幾度もあったわけでその表現は正確ではなく、「親密でない相手とする電話が嫌い」というのが正しい。私は電話を大変エッチな行為だと思っている節があり、貞淑なわたしが電話をする相手は必然的にほぼ恋人に限られる。無意識だったけど、電話をすること:声を耳元で聞くことは、その人によって「触れられる」ことなのだと思えばわたしの感覚もあながち間違っていなかったんだな、と納得してしまった。以前マッチングアプリでマッチした比較的気があって話が盛り上がった人から「電話しませんか」と提案を受けた時も、(会ったこともないのに電話…??セクシャルすぎる…)と思い丁重にお断りした。肉体関係もない人間と電話なんてちょっと…ねえ。そう思いません? 

わたしはデリダ・ファンだしパロール(声)よりエクリチュール(書き言葉)を、現前より痕跡を擁護したい人間なのだけど、「声は現れる」の「大切な人の声を録音してください」というメッセージはすごくグッときたし、すべてを保存したい欲望を持つわたしがなぜそれを今までしてこなかったのか、とショックを受けた。声はいつでも「現在」に現れる、その人が今いなくとも・その声は「今」わたしの鼓膜を撫でることができる。現前ってすごい。パロール中心主義者になっちゃおっかな、と思ったけど、声を聞きたい人は限られすぎるし/性的に奔放になれないわたしはこれからも基本的にエクリチュールを辿って生きていきますね。