2023-12-11_シュレディンガーの人間

トイレットペーパーに滲んだ血を見て、今月も人間に引き戻される。

子どもを持つための取り組み始めてから、およそ4週間ごとに区切られるバイオリズムの中で、そのうちの半分はシンプルに一人の人間であり、残りの半分は「妊娠しているかもしれない/していないかもしれない」人間でいる。箱の中では猫が生きているかもしれないし、死んでいるかもしれない。私のお腹の中では新しい人間が生じようとしているかもしれないし、していないかもしれない。毎月自分の身体の中でシュレディンガーの人間の実験が行われており、それを内包している私自身は単なる箱であるかもしれないし、一人の人間であるかもしれない。

4週間ごとに繰り返される期待と失望に揺られながら、今年はついぞ1ヶ月以上先のことを考えられないまま終わった。もし妊娠すれば、その翌月ぐらいからつわりがやってくるかもしれない、つわりがくればおそらく何も手につかなくなるだろう。そう思えば数ヶ月先の旅行の予定も、数ヶ月先の目標も、数ヶ月後に自分がどうなっているかわからない以上立てられなかった。何も先の見通しが立たないまま、今月のカレンダーだけを呆然と見ている。

月の半分しか一人の人間ではないと書いたけれど、正確にはそうとも言えない気がしている。

1週:生理(怠く、体調が悪い)
2週:卵胞を育てる(栄養に気を使い、運動をする。時折卵巣が腫れるのか、下腹部が張る感じがすることがある)
3週:受精の試み、着床を願う(栄養を取る)
4週:生理が来ないことを祈る(少しの体調の変化に敏感になる。最近はなぜか泣きたくなるほど眠くなる)

というサイクルを繰り返していて、人間が腹の中に生じていないことが確実なタイミングであっても、結局バイオリズムと卵子が中心の生活でしかない。体調が微妙だったり・お酒が飲めなかったり・先の予定がわからなかったりして、人と会うのも何かをするのも、なんとなく主体的になれず、ぼんやりとしていることが多い。己の主体性を卵巣と子宮に明け渡してしまったのかも。

バイオリズムに従って定期的にクリニックに行き、診察台で持ち上げられる度に藤本和子さんの不妊治療について書いたエッセイを思い出す。通い始めた頃はあの診察台で持ち上げられること、子宮の中を覗かれることに対してナイーブに傷ついていたりもしたけれど、最近ではもう慣れてしまった。というか、慣れるより他になかった。藤本和子さんは、診察台に上がることを屈辱的だとか恥ずかしいとか思いたくない、と書いていたけれど、そう「思いたくない」ということは強くそのように意思しないと、そのように思わざるを得ないということなのかなとも思う。「わたしたちに屈辱とか恥とか思わすなんて、陰謀にちがいないと疑ってしまうからだ」、と彼女は言う。

それから、あれはどういうわけだろう。診察台のちょうど中央あたりに、天井から吊ったカーテンが下りていて、診察を受けるわたしたちは上半身をカーテンのこちら側に置き、下半身をカーテンのあちら側に置くのだ。下半身を見せる恥ずかしさに顔を赤らめている女性の顔を医師が見ないでおいてくれる、という親切心のあらわれとして受け取るべきなのだろうか。「恥ずかしい」だろうと推量して、このみじめなカーテンがそれを柔らげてくれると独断するのは誰?

わたしたちは文字どおり、上と下に引き裂かれ、すっかり混乱してしまう。なにをもって、この汚らしい布切れで切り裂かれた存在を再統合したらいいのか。

藤本和子「ヨセフの娘たち」『砂漠の教室』河出文庫,P98

藤本和子さんのこのエッセイは素晴らしくて、彼女がこの経験を文章にしてくれたことについて本当に感謝の念に堪えない。不妊治療をする前の、「子どもを持ったらきっと自分は終りだ」という、子どもを持つということに対する恐れ。それでも、ふと、子どもをうむんだ、と決めたこと。不妊治療を受ける中での屈辱的な体験。(でも、これを屈辱的であると私が書くべきではないのかもしれない)医師への疑念と不信感。やるせなさ。先の見えなさと静かな諦念。

そして、女はそれらの経験や、あるいは女について語るための言葉をそもそも持っていないということ。女について語るための言葉ってなんなんだろうな、といつもならリュス・イリガライでも読みたくなってしまうところだが、ひとまず今は「女について語る言語」について考えることよりも、実際に私について、私が「女」であるということについて語ることを試みたほうがいいのかもね、

と、書きかけていたのが昨年の12月の下書きにあった。そしてここから半年近くが経ってもちっとも状況は変わっておらず、相変わらず先の予定を立てづらいまま、また今月のカレンダーを見ている。

下腹痛がやはりその月も妊娠せずつぎの月経が接近していることを予兆すると、わたしはじぶんの身の丈よりも高い葦草の群落に踏み込み迷ってしまったような気持になる。子供をうまなくたって全然かまわないと思うし、それでイッカンの終りだなどとは微塵も考えてない。それでも混乱する。

藤本和子「ヨセフの娘たち」『砂漠の教室』河出文庫,P110

今月も同じように下腹痛を感じ、ああ、と蹲りながら、この本のこの一節のことを思い出した。そして、この書きかけだった文章のことも。私もいま同じ葦草の群落にいる。

私は文章(特に日記)について、できるだけ開始地点から遠く離れた予想外の地点に辿り着くことを良しとしているので、こんな全然どこにも行けない文章なんて嫌だなと思って公開できなかったのだよな。そして今回も全然どこにも辿り着けそうにもない。が、いったんこれは現在地点ということで公開して区切りをつけて、次の日記からまたどこかに行けばいいよ、そうだよ。踊るんだよ。