2021-10-25_水分と生命

九月もだいぶ弱っていたが、ますます弱りが深まる十月であった。

ところで、先週の金曜日にあわや母親をなくすところだった。
(※また暗い話ではあるものの、すでに最悪の事態は避けられて多少元気になってきたので私は今これを書けており、後半に行くにつれポップになる予定です)

その朝母親から怪文書のようなLINEが届き、嫌な予感がするのでiPhoneが鳴らないように威嚇しながら仕事をしていたのだけれど、その努力も虚しく病院からの着信を示してiPhoneが震えた。案の定主治医からの電話で、血圧がとても下がっていて、血圧を上げる薬を投与したものの、これが効かなければそのまま心停止に至るかもしれない、と。そして面会謝絶ではあるものの事態が事態なので面会に来た方が良いと、できるならASAPで来て欲しいというようなことを匂わせるので、ついに来たかぁと思いながら、姉に合意をとってから主治医に伝える機会のなかった延命治療のお断りについて電話越しに伝える。すると主治医は明らかにホッとした様子を見せ、それならそこまで急いで来なくて良いと言い出し、要はその確認を取れていなかったから早く私に来て決断をして欲しかったようだった。気持ちはわかるが、親を亡くしそうな人間にする仕打ちなのかぁ それは。ともかく主治医の反応を見るに、無茶苦茶急いで行かなくてもどうやら大丈夫そうだと思い、もともと午後休で差し入れに行く予定だったので、予定通り午後に行きますと告げて電話を切った。

とはいえ電話を切って冷静になると、いやこの状態で仕事はできないだろうと気がつき、仕事を早退して母親の通帳から万が一に備えて当座のお金を下ろしに行った。人が死ぬと銀行の口座が凍結されてお金が下せなくなるので、死にそうになったらまずは金を下ろせとずっと母親に言われていたのだ。とはいえ「当座のお金」って何に使うんだろう、葬式か? 葬式っていくらかかるんだ? と調べたところ、200~300万円ぐらいかかるっぽく、ちょっと下ろしたところで別に大した足しにはならないじゃねぇかと遠くを見てしまう。なぜ死ぬのにもこんなにお金がかかるのか。資本主義が憎い。

そして父を亡くしたその日に、棺桶がどうの祭壇がどうの、葬儀屋との打ち合わせが夜遅く(いつもなら母がもう寝るぐらいの時間)まで続いたことを思い出し、あれをまたやるのしんどいなぁとげっそりした。本人はもう死んで、死人はこの先ずっと死んでるのになぜこんなに急いで葬る準備をしないといけないのか? と思うが、さっさとしないと死体が腐るのかもしれない。何せあのゾシマ長老ですら腐ったのだから…(カラマーゾフの兄弟を参照のこと)。中でも私が一番嫌だったのは、謎に葬儀に友人を呼ばなくてはいけないような雰囲気(どんな雰囲気?)になったことで、私の友人が父の葬儀に来るのはさも当然のような感じで何人来るのか人数の報告を迫られたので「ご、5人ぐらい…?」と適当に答えると、その人数を招集する義務がその瞬間私に生じてしまったのだった。これが世界で一番陰気なライブのチケットノルマですが、世界で一番陰気なライブのチケットノルマを捌くのを正直もう二度とやりたくないのだった。(でも実際のところ葬儀に友人が来てくれたのはとても助かって、世界で一番陰気なライブに来てくれた友人には本当に感謝しているし、もし今後誰かに葬儀に呼ばれるような機会があれば何がなんでも馳せ参じようと思ったのでした。)

しかし前回の陰気ライブ(父親の葬儀)の時は、お坊さんがお経を上げ終わって退出した後に参列してくださった人がエリック・クラプトンの「いとしのレイラ」をBGMにお焼香していたのが面白すぎて私は笑いを堪えるのに必死だったのだけれど、そう考えると意外と陰気ではなく比較的ポップな葬式だったのかな〜と思い返していたが「いとしのレイラ」でお焼香することになった参列者の人は笑える立場じゃないし本当に気の毒だったなと反省した。母親の陰気ライブのBGMを沢田研二にするかQUEENにするか確認をしておかないといけないな。

そんなことを考えながら私の精神安定剤こと『フラニーとズーイ』を鞄に詰めてタクシーで病院に向かい、道中パラパラとページを捲ると今まで全然気にしていなかった・愚鈍な母親であるベッシーの言動が無茶苦茶刺さってしまってボロボロ泣いてしまう。フラニーもズーイも、どうしてベッシーのことを馬鹿にするのか、ひどいじゃないか。まぁフラニーとズーイに同調していた私もまたベッシーのことを馬鹿にしていたわけだけれど。ここでベッシーのことを蔑視していた自分に気づき、ベッシーを蔑視…となってしまって、私はこういう時にどうしようもないふざけを発揮してしまってとにかく最悪なんだ、もう。

病院について、受付で主治医に呼ばれて入院患者の面会に来た旨を告げると、病棟に電話をして確認を取ってくれる。神妙な顔で確認する受付の人が、困惑しながら「コーラ ×2」とメモしているのが見え、その瞬間 あ、もう母親は元気になったんだなと察して笑ってしまう。さっきまで死にかけていた人間がいきなりコーラをパシらせようとするんじゃないよ。

受付の時点でもう安心はしていたのだけれど、病棟に行くと普通に血圧も安定して喋れるぐらいになっている母親がいて、あらためてホッとする。しばらく面会して、その後面会にやってきた姉曰く「見た感じママはまだ水分があるから、これはまだ死なないと思う、死ぬ直前のパパはもっとカラカラに乾燥していた」と考察していて、確かに死ぬ間際の父親は「剥製に向いてる」とか「すぐ即身仏になれる」とかカラカラに乾燥してるジョークを飛ばしていたし、一理あるような気もして水分って生命の基礎として大事だなと思ったのだった。