20-12-29_呪われた部分

今日はもともと全然違うことについて書こうと思っていたのに、突如膀胱炎と思われる下腹部の痛みに襲われ、おちおち読書もしていられない状態に陥ったので気を紛らわすための文章を書くことにする。

私は読んだ本の引用やら思いついたことのメモやらデートの議事録やらは全てevernoteにまとめているのですが、彼氏氏がNotionを推してくるので特にこだわりがあるわけでもないし乗り換えようかな〜と話したところセットでNotionの活用法noteを教えてくれた。https://note.com/shiratoriyurie/n/nb798567dc116

滅茶苦茶便利そうだな〜と思ったし、恋と仕事と東京とオタクと趣味を頑張るフルスタックエンジニアはやはりこれぐらいタスク管理をしっかりしないとダメだなと素直に思ったのですが、それと同時に下腹部の痛みが襲ってきたのでタスクを整理してこなしていきたい気持ちとは裏腹に、ただひたすらに痛みに苛まれ、唇を噛み、突っ伏し、身を捩り、この時が過ぎ去ることを神に祈ることしかできない。すみません、こういう「辛さを耐え忍ぶ」のもタスクとして処理できますか?????????

人間は…というと主語がデカくなりすぎるので普通に「私は」と言いますが、しばしば suffer するしかない時間というのがあると思うんですけど、そういう部分はどうやってやりすごしているんだ?? suffer ってタスク???どうやったら完了になるんだ??とりあえずGoogle カレンダーに “suffer” って入れておけばいい?? そもそもそういう事態に陥らないように、タスク管理以前に体調管理を完璧にこなすというのは言うまでもないことです〜という感じ?? みなさんは致死量ギリギリの毒をいつでも躊躇いなく飲める状態をキープしてるキルア=ゾルディックなんですか??

体調がやられると普通にメンタルも沈むので、タスケテ…タスケテ……と思いバタイユに手を伸ばす。こういうノリでバタイユに助けを求めるの久しぶりだけど、本来バタイユは私にとってそういう存在なんである。しかしマジで何? つっら。こんなの予定になかったんですけど。エリ・エリ・レマ・サバクタニじゃん、こんなのは。つらすぎて思わずジーザス・クライスト・スーパースターのサントラを聴き始めた。人生で初めて「イエスが十字架にかかって助かる」みたいな気持ちになってきたけど、冷静に考えてキリスト教って健全じゃないだろ、本当に何なの? まあ今私は冷静じゃないので普通に助かるけど…。

人間は、権利の主体であるだけではなく、生命の力としての発言し行動する権力を奪われるかもしれない人格でもある。弱さは、主体の能力いかんにかかわらず、理由なくのしかかる負担だ。「予知されることのない弱さの可能性を受容すること、そういった弱さに対して長期的な選択や戦略を見出すこと、それは、女性たちが、あらゆる時代において経験してきた問題だ。弱さを生み出す暴力にさらされるという事実は、列強の植民地支配において、最もあからさまになった。」フェミニストの倫理とは、ジュディス・バトラーによれば、女性史をみれば明らかなのだが、人びとの弱さを引き受け、生きる保証をあたえ、その人びとの責任を引き受けることだ。

ファビエンヌ・ブルジェール『ケアの倫理 ––ネオリベラリズムへの反論』原山哲・山下りえ子 訳,文庫クセジュ,白水社

ちょうど「倫理」が目下のテーマで『ケアの倫理』を読んでいたので、あーーーほんとうにそういうことだよね、と勝手に腑に落ちた。イケイケIT業界びと、大変合理的だしキラキラしており有益な情報をどんどんシェアしており本当に素晴らしいと思うけど、個人的には時々ちょっと「ウッ」ときたりするのだが、ポイントがなんとなくわかった気がする。現代社会をサバイブしていくためには、自分自身の目的を追求する・自律したリベラルな「個人」であることが求められるし、普通に前提とされているわけで、それが「できない」のは基本的に「個人の能力の問題」とされる。そのへんがね……まぁこれは別にIT業界に限った話じゃなく現代社会の問題点なんですけど。本来人間は、理由なく突然「弱さ」がふりかかってくる可能性がある脆弱な存在なのに、割と忘却されがち。まだ読んでる途中だけどたぶんこれ滅茶苦茶良い本ですね。

自分が辛くて何もままならないのと・合理的で有能な人間を目の当たりにしたせいで(有用性の限界…)という気持ちになってバタイユの『呪われた部分』を読もうと思って探したけど、まぁ見つからないよね。本棚もう一個導入しないともう本が片付かなくてだめだ。代わりにバタイユが突然恐怖に襲われて抽斗の取っ手につかまってやり過ごすやつ読んで元気だそう。

20-12-23_占星術はスピじゃない

土星はおよそ30年周期で公転しており、占星術では自分が生まれた時に土星がいた場所(出生ホロスコープの位置)に土星が戻ってくるのを「サターンリターン」と言います。土星の帰還であり、人生の転機になると言われている。私個人としては、毎月女という性にやってくる煩わしい事象、血祭り、月次のバッチ処理のことを「リトル土星」などと心の中で呼んで呪っている。ちなみに土星は占星術における最大の凶星ですが、イメージとしては「我が子を食らうサトゥルヌス」がいるでしょ、あれが土星の守護神です。禍々しいだろ、人によってはチャーミングだと思うかもしれないが。

本当は昨日書こうと思っていたのだが、月次の土星が私にのしかかってきており泥のように眠ってしまった 。何はともあれ昨日は占星術的ビッグ・イベント「グレート・コンジャンクション」の日でしたね。Twitterのトレンドにも「風の時代」が入ってて、バリバリのスピ用語がトレンドに入っとる…と困惑している人がおり、私は占星術はスピじゃないもん〜〜〜と唇を噛んだ(※一般的にはまぎれもなく「スピ」だとは思う)

:「およそ20年に一度訪れる木星と土星が大接近する現象のことをいいます。次のグレート・コンジャンクションはもうすぐ、2020年12月22日です。ただし、今回のコンジャンクションは特別。というのは、この200年あまりグレート・コンジャンクションはほぼ『地の星座(牡牛座、乙女座、山羊座)』で起きていましたが、2020年のグレート・コンジャンクションは『風の星座(双子座、天秤座、水瓶座)』である水瓶座で起こるからなんです。このようにコンジャンクションの星座のエレメントが変わることを『ミューテーション』と専門的には呼んでいるんですね。そう、今はまさに200年単位での時代の転換点、というわけです」

鏡リュウジ × スカパラ 谷中敦 対談「200年に一度の転換期“グレート・コンジャンクション”とは?」(前編) Numero Tokyo

「地」のエレメントは物質的・社会的な価値を象徴していて、ここ200年間は所有すること・物・財産・地位・名誉に重きが置かれていたけれど、「風」のエレメントは理性・知的な価値を象徴しているので、これからの風の時代においては情報・体験・コミュニケーション・ネットワーク・移動が重要になりますね〜というような話。割と今に始まったことじゃない気もするが、これからより一層そうなりますよという感じ。
しかしグレート・コンジャンクションについて鏡リュウジとスカパラの人が対談してて笑った。私は鏡リュウジのことは結構信用しているのですが、スカパラの人もウィリアム・ブレイクとかオルダス・ハクスリーとかの話してて喜んでしまった。西洋哲学専攻してたんだって、フーンおもしれー男……。しかし占星術の話題でその辺の話が出てくるのってマジでわかってて、西洋近代、ロマン主義はヘルメス思想とオカルティズムと密に結びついていますからね。そしてさらにその後を継いだシュルレアリスムのアンドレ・ブルトンもまた占星術を始めとしたオカルティズムの伝統に惹かれていたわけで。西洋思想・文化を語るときにやはり占星術は外せない。

17・18世紀のオカルティズムの伝統は、絶対の自由と放縦とを同時に標榜する、革命的社会批判の様々な運動と接続している。普遍的アナロジーへの信仰は、エロティシズムに染まっている。肉体や魂は、天体や物質の離合集散を統御しているのと同じ引力と斥力の法則に従って、つきつ離れつするのだ。ゆえに、このエロティシズムは占星術と錬金術に関わる。が、また反体制的でもある。エロスの引力は社会の掟を破り、身分や階級の違いを無視して、肉体を結び合わせるのだから。エロスに彩られた占星術は、特権や武力や権威の秩序とは対立する、宇宙の調和に基づく社会秩序のモデルを提供する。

オクタビオ・パス『泥の子供たち―ロマン主義からアヴァンギャルドへ』竹村 文彦 訳, 水声社

オクタビオ・パスもアンドレ・ブルトン大好きマンでいいよね。何冊か読んだけど、『泥の子供たち』が一番面白かったな。翻訳で読んでもよくわからないという理由で詩には全く疎いのだけれど、西洋近代と近代詩の歴史を一望していて圧巻だった。来年は詩も読みたいが、ほんとうに詩集は絶対原文も並べて載せてくれよなの気持ち。岩波文庫は対訳にしてくれててありがとうな。

それにしても鏡リュウジの『占星術の文化誌』は占星術の文化的・歴史的な理解の入門編としてとても良い本だと思うんですよね。近代占星術のはじまりから、占星術と文学、美術、音楽、医術、心理学との関係を眺めていて、(ユングが占星術にハマってフロイトにドン引きされたりしててキュート)占星術の知識があるとまた一段と西洋文化への理解が深まるというか、純粋に楽しい。

「お母さん、神様が人を永遠の拷問で罰するなんてことがあるのなら、そもそもなぜ人間をお創りになったの? 僕が天国に行けたとして、ほかの人が地獄で苦しんでいるなんてことを知っていたとしたら、天国で幸せでいられると思う?」

鏡リュウジ『占星術の文化誌』原書房

これは近代占星術の父と呼ばれるアラン・レオの言葉として紹介されているのだけれど、私が「異議申し立てとしてのスピリチュアル」だ、と思ったきっかけ。硬直化して人を救わなくなった既存の宗教に対するオルタナティブな選択肢としてのオカルト。もちろんオカルト/スピリチュアルの危険性というのも破茶滅茶にあるのでそんな単純にはいかないのだが、(アラン・レオが影響を受けたブラヴァツキー夫人の神智学協会は、いろいろあってナチスのオカルト的な人種論につながってしまったりもしている)その危険性から身を守るという意味でも「スピ」とか大きくくくって蔑視するより、面白がって色々勉強して・スピに関する解像度を高めておく方がずっと良いよねと個人的には思っています。

20-12-21_エシカルに生きられない

「何も忘れたくない」と常々主張しているにもかかわらず全てを忘れてしまうので、今年もまた冬の寒さに新鮮に驚いている。これからまだ寒くなるんでしょう?どうなってんだ…。あまりにも寒いので外に出られず、週末に2回もUber Eats的なものを頼んでしまった。Uber Eats的なものはなるべく使わずに生きていこうと思っていたのに、人間はこれほどまでに意志が弱い。

私がUber Eats的なものをあまり宜しくないな〜と思っているのは奴隷労働をソフィスティケートさせたもん勝ちみたいなプラットフォーマービジネスに反感を抱いているからなんですけど、使ってしまうと無茶苦茶便利でだめですねこれは。特に私は根が怠惰だから余計だめ、便利さに抗って生きていかないといけない。倫理大事にしていこう。(反省して改めて調べたけど日本のUber Eatsの配達員は労働組合を立ち上げてて偉い。Uber Eatsの問題点はこのインタビューが分かりやすかった)

たとえば本を買うにしても、私は書店を応援したいのでできるだけ書店に行って買い物をしてるんだけど、最近はステイホームの日々再びなので仕方なく通販を利用している。それでもせめてもの償いとして物理的な本はAmazonではなくhontoで買うようにしているんだけど、hontoのアプリマジでイケてなくて書籍をカートにブチ込んでも、その瞬間に買わないと(一度カートの画面から離脱すると)再度カートに行く導線がなくて詰む。もう一度カートに行くためにはまた何か他の本をカートにブチ込まないといけない。なんで?もっと本を買えってこと? わかったよ、買うけど…。あと普通に届くのが割と遅いし、いつ届くのか教えてくれない。サプライズプレゼントとか好きなタイプ? プレゼントっていうか自分で買ってるけど、まあ忘れた頃にくればある種のサプライズプレゼント感が生じて嬉しいみたいなところはあるかもしれないけど…。Amazon Prime会員としては「えっ何???」ってなってしまう。でもこれもAmazonがお急ぎ便というスピード感に人類を慣れさせてしまったのが悪いんだと思うんだよ。本来そんな急がなくてもいいんだよ。急がなくていいよゆっくり支度してよ便があってもいい。

現代社会では普通に生きてるだけでサプライチェーン上の搾取に加担してしまうので誰も天国に行けないというのはNetflixの『グッド・プレイス』でも取り上げられてましたが、マジで本当そうだよね。『グッド・プレイス』本当に面白いドラマだと思うけど誰も見てくれないの、シクシク。しかしこれ何が面白いのか説明することが面白さを減ずることに繋がってしまうタイプの物語なのであんまり説明できないし。。。私は倫理学者が出てきて酷い目にあったり(“倫理エクスプレス”と言う名の列車に乗せられてトロッコ問題を実際に繰り返し判断させられる)、イマヌエル・カントの悪口が言われていたりするだけで面白いのですが、こういうのはおそらくあまり一般的におすすめポイントにはならないんだろうな。どうせ誰も見てくれないし書くけど、われわれが生きてる間すべての行いについてポイントが計算される巨大システムが動いていて、それによって死後天国に行くか地獄に行くかが決められているんですが、あまりにも人間が天国に行かないのでアルゴリズムが悪魔にハッキングされてるか何かでおかしいんじゃね????って調べたら、現代社会の構造が複雑化しすぎたせいで悪事を為そうと思わなくても無意識に悪事を犯しまくる状態になっているので全員地獄に落ちるシステムになってたというね。システム自体は問題なく稼働してたけど判定基準の見直しが必要でした。しかし人類が全員地獄に落ちてる時点で運用担当はなんかおかしいなって思えよ。監視してなかったのか? と思ったけど別に一定の割合の人を天国に行かせなきゃいけない決まりがあるわけでもないんだから、地獄行き相当の行いをしている人間しか存在しないのであれば全員地獄行きで問題はないのか。問題があるのは世界の方だった。

ともかく今後も寒いと意志が挫け続けてUber Eats的なもので悪事ポイントを荒稼ぎしてしまいそうなので久しぶりに調理と言うものに取り組みますか。買って積んだままだったみんな大好きオライリーの『Cooking for Geeks』がちょうど手元にありますしね。「はじめに」のページにGeekの定義が図で示されていて、Geekとは「賢く、好奇心の強い人」らしい。オライリーによると「賢く、人付き合いが苦手」がNerdで、ど真ん中は空白になってたけどググったところど真ん中がNerdという図が見たところ多かったですね。とりあえずGeekとNerdの差がわかってよかった。

GeekでもNerdでもどちらでもいいが、「賢い」枠に入れるように日々精進していこうね…。

20-12-18_あのことを思い出そう

ラドヴァン・イヴシックの『あの日々のすべてを想い起こせ アンドレ・ブルトン最後の夏』を読んだ。件のアンドレ・ブルトンに粘着してた男性の本ですけど、正直そこまで粘着質にストーキングしたりしていたわけではなかったです。でもこの男も初めてブルトンに自分の書いた戯曲を見せる時「これは命に関わる」って言ってて、『プレゼント・ラフター』に出てきたオタサーの姫の男・ギャリーの大ファンのモール君みたいだった。『プレゼント・ラフター』まじであと100回見たい。

男はそ〜〜うやってすぐ命に関わる…(BL)

残念ながら『プレゼント・ラフター』はやらないのですが、池袋でNTLのアンコール特集やるようなのでどうぞ。『リーマン・トリロジー』もマジで傑作だったのでもう一度見たいが、私はステイホームしているのでな……。

『あの日々のすべてを想い起こせ』は、タイトルの通りアンドレ・ブルトンの晩年をすぐ近くで過ごした著者が、アンドレ・ブルトンを看取ることになる最後の夏のことを追想するエッセイ。詩人・劇作家・翻訳家であるラドヴァン・イヴシックは、当時共産主義政権の圧政下にあったユーゴスラヴィアで、著作はいわゆる「退廃的芸術」だとされて発禁にされ、フランスや他国の出版にも触れられず、パスポートを得ることも難しいような「鉄のカーテン」の東側で暮らしていた。あるとき不思議な縁からパリに逃れることができ、さらに様々な「偶然」から憧れのアンドレ・ブルトンと知り合うことになり、当時すでにほとんど「過去のもの」になっていたシュルレアリスムの会合にも頻繁に顔を出すようなる…。しかし1920年代は輝かしいばかりだったブルトンの威光が弱まり、まさに太陽が沈んでいくかのような晩年の様子を読んで切なくなってしまった。

20〜30年代は激しくぶつかり合っていたバタイユとブルトンは、晩年には争うこともなくなり、むしろお互いを理解し・認め合う仲になっていたんだけど、この本には全然バタイユのバの字も出てこないので(そうか〜〜)と寂しく思っていたら訳者の後書きに少しだけ出てきた。(またバタイユの話をする人)

私は深く納得するとともに、ブルトンとバタイユが互いに深く理解しあっていたことを引き合いに出した。

すると彼女はこう切り出した。「もちろん互いに尊敬しあっていました。しかし六〇年代は、バタイユ人気が絶頂を極めていました。これはバタイユの思想がマルセル・モースとの関連でアカデミズムに高く評価され、コレージュ・ド・フランスの社会人類学で大きく喧伝・称揚されたせいなのです。一方、アカデミズムとはまったく無縁のブルトンは、すでに過去のものという扱いを受けていました」。

松本完治「屈せざる孤独の森 –ブルトンとイヴシック」
ラドヴァン・イヴシック『あの日々のすべてを想い起こせ』松本完治 訳,エディション・イレーヌ

なんかもうめちゃくちゃ寂しいですよね。出会った頃はブルトンにほとんど話しかけることすらできなかったバタイユが一躍大人気になって、シュルレアリスムの「法王」として君臨していたブルトンがすっかり「過去の人」になってしまっていて、、、。
この本の中で、シュルレアリストの一人がフーコーの当時出たばかりだった『言葉と物』をもてはやしているのをブルトンとイヴシックは凄く否定的に見ていて、その時点でもブルトンはヘーゲルにある種の忠誠を誓っているからなんだけど、なんかその辺もまた妙に切なくさせるものがあるよな。しかしフーコーまったく読んでないけど、『言葉と物』でボルヘスの例の「中国のある百科事典」を引用してるし、バタイユのことを「今世紀の最も重要な書き手の一人」と言っているし、意外と私はフーコーと気が合う可能性があるのではないか。(気が合う?)

「あのことを思い出そう、すべてをよく思い出すんだ」、彼が繰り返すこの言葉が、私の脳裏からまったく離れなかった。

ラドヴァン・イヴシック『あの日々のすべてを想い起こせ』

そもそもこの本はタイトルが最高じゃんと思って買ったんですけど、これは病気の症状が進んで、自分の頭脳に、記憶にダメージが及んでいるのではないかと不安に怯えるブルトンの言葉から取られてるんですね。私はいったい誰なのか? 私は確かにアンドレ・ブルトンだった。「あのことを思い出そう、すべてをよく思い出すんだ」。
そしてイヴシックも、ブルトンとの間にあった強い友情と信頼が「あの日々のすべてを思い出そう、出来事を一つも忘却することがあってはならない」という要請になってこの本を書いたわけで、ひどい「思い出したがり」の私としてはジーンとしてしまった。

この間まだ謎の多い恋人に「君はどんな人間なの」と聞いてみたところ、「過剰に所有したくない人間です」と返ってきて、とりあえず彼のことを1つ知れてよかったんですけど、私もどんな人間なのか聞かれたので「何も忘れたくない人間だ」と答えた。(「なんでも記録したい」と言ったかもしれないけど、記録したいとはつまり「忘れたくない」ということなので)
私が「何も」って言ったら、それは本当に「何も忘れたくない」んだよ。どんな瞬間がうれしかったとか、自分がなんて言った後に笑ったとか、そういうふとした瞬間、空気、感触、全部覚えていたいのに全部忘れてしまうの、本当に悲しいから。こないだ引用したバタイユ言語は行動をめざす。行動の目的は失われた幸福をもう一度見出すことだ。の通りで、その瞬間を取っておきたいがために書く、という側面は結構大きいのだけれど、言葉にした時点で失われてしまうものがありますのでね、これがエクリチュールの暴力だとデリダが言ってるやつ。

やっぱあれですね、恋愛モードになるとデリダとかレヴィナスとか急に張り切って出てくる感じがしますね。

20-12-17_What doesn’t kill you

一昨日の続き。一昨日はタイトルに「唯物論」とつけたぐらいだからバタイユの「低い唯物論」の話とか、シュルレアリストやバタイユ達のイメージの政治学的な話をしたかったのに、それに至る前段の部分で力尽きてしまった。じゃあその続きを書くかというと、続きではあるけど違うことを書きます。今日は一昨日ではないので。

BRUTUSとバタイユの件を知らせてくれた友人に感想の代わりに中途半端な日記を送りつけたところ、自分も社会運動としてのシュルレアリスムはギィ・ドゥボールとシチュアシオニストの前史として気にしてると教えてくれたのでまた勉強したいことが増えましたね。ギィ・ドゥボールは名前はなんかチラチラ聞いたことがあるが立ち位置が全然わかってなかったし、クソバカなのでシチュアシオニストってシオニストの親戚かと思ってたよ。急にパレスチナの話かと。アンリ・ルフェーブルの『日常生活批判』もこの流れなのか。『日常生活批判』読みたいです。

シチュアシオニストの知的基盤は主にダダを初めとする前衛芸術運動から派生しているとのことで、そういえばバタイユも「自分はシュルレアリストというよりはどちらかというとダダイスト的だった」ってどこかで言ってたよなというのがあり、ここは私もダダイストを目指すか??と思いながら自分のTwitterのいいね欄整理してたら「ダダイストでも作れる大人数の食事」というnoteを過去にいいねしていていつものことながら先見の明があった。

自分はダダイストを名乗っている。一般的にダダイストに期待される料理とは青いご飯とかピンクのカレーとかだろうが、その手の期待にわかりやすく応えてはならない。自分は合宿の学生諸氏が出会う生まれて初めての生きたダダイストであるかもしれず、自分の振る舞いが今後の彼らのダダ理解に影響を及ぼす可能性が高いため、青いご飯を炊きたいなどという私的な欲求はこれを禁欲せねばならない。ダダは、広く信じられているように、私的な内面の欲望の爆発ではない。歴史の必然だった。ダダイストは必然に従って行動する。

山本桜子 「(2019年)ダダイストでも作れる大人数の食事」

「ダダイストは必然に従って行動する」、かっこいいですね。
よしトリスタン・ツァラでも読んでみるか…って思いながらもとりあえず例のアンドレ・ブルトンに粘着してた男性の本を読んでたらタイムリーに糾弾されてたのでウケちゃった。ツァラはスターリニストだったの? バンジャマン・ペレはスターリニストになったこの元ダダイストを追いかけ回してサン・ジェルマン・デ・プレの満員のカフェテラスの前で罵倒したいそうです。そうですか…。ツァラのこと何も知らんからいったん保留にしますが、ペンネームの意味が「故郷で悲しむ者」なのはいいよね。

あとBRUTUS読んでて、これも前に聞いていたのだが千葉雅也が「今こそニーチェ、マルクス、フロイトを読もう!」というコンセプトで選書していて、私もちょうど今こそニーチェ、マルクス、フロイトだなと思っていたのでバイブスが合うね〜と思った。
まあ今年読んでたバタイユも(ついでにブルトンも)その辺から直に影響受けてるというか・引き継いでるようなところがあるわけだから読まなきゃなとなるのは当然なのだが、しかしニーチェを薦めるのってかなり危うい行為でもあると思うんですけどどうなのかな。お前はニーチェの何を知ってるんだと言われると知らんけど、なんかニーチェって右翼からも大人気みたいなところあるし(実際ファシズムはニーチェを利用しようとしていたわけで)そしてバタイユはそれにブチ切れまくっていたんですけど、ニーチェを薦めるならバタイユみたいに激怒しながら説明する必要があると思うんですよね。安易な「超熟・ニーチェの言葉」(超熟ではない)的な受容ならすべきじゃないような気がするんですけど、まぁ私もニーチェの入門系の本とか読んだことないしついでに読んでみようかしら。ハローキティちゃんのニーチェもあるよね、私は昔『マイメロディの論語』を買ったけどクソすぎて本当に面白かった。超訳すぎる。

ニーチェといえば前にTwitterで見かけた「80年代末から90年代にかけて、アメリカ・ミステリに出てくる連続殺人鬼はどいつもこいつも「ニーチェの超人思想の信奉者だった」」という話が面白くて印象に残っている。

「What doesn’t kill you makes you stronger」、マジでこんなんまさに某G冬社のカリスマ編集者(?)とか好きそうだもんね。「死ぬこと以外かすり傷」的価値観。
ニーチェの引用元は明確にはわからないが『偶像の黄昏』っぽいです。

この話もたぶんあって、私はアメリカにおけるニーチェ受容に地味にずっと興味があって、読みたいなーという本は目星をつけているのだが全く読めてないよね。なんかもう忘れたけど「暗黒啓蒙」とかもその系譜じゃないですか?なんかニーチェが〜みたいな話があった気がする。「暗黒啓蒙」は全然興味ないです、純粋に厨二病っぽい。

ニーチェの教えがつくりあげる信仰は、そのセクトあるいは「教団」の支配的な意志が、人間の運命を、生産による理性的な隷属からも過去への非理性的な隷属からも解き放ち、自由にするようなものになるだろう。転倒された諸価値が有用性の価値に縮小されてはならないこと、それは決定的に重要な、焼けつくほどに重要な原則であって、その原則は、生がもたらす勝利への猛々しい意志のすべてを一緒にかきたてずにはいないだろう。こうした明白な決意がなければ、ニーチェの教えは、それを尊重すると主張する人間達の軽率な行動や裏切りのかずかずを生み出すだけにおわるだろう。奴隷化は人間の実存全体を包み込もうとしており、賭けられているのは、その自由な実存の運命なのである。

ジョルジュ・バタイユ「ニーチェとファシストたち」『無頭人』兼子正勝 中沢信一 鈴木創士 訳 ,現代思潮新社

なんか毎日バタイユの話してるから日記の名前「まいにちバタイユ」とか「バタイユといっしょ」とかにしようかな。

20-12-15_雑貨屋と唯物論

今日は仕事中に友人から今月号のBRUTUSをよかったらチェックしてみてくれと連絡があり、労働意欲がマイナスで・高鼾でよく眠る猫を恨めしげに眺めるばかりだった今日は、これ幸いとSlackで業務上の応答責任は果たしつつも雑誌を捲った。

私がバタイユにご執心なのを知っているので、「雑貨屋の人がバタイユを取り上げていた」という親切なサジェストもセットでくれたことに感謝しつつ、該当のページを突き止める。思った通り『雑貨の終わり』の著者の方だった。まあ雑貨屋といえばこの人ぐらいしか思いつかないだけなのだが。(『雑貨の終わり』は読みたいなあと思いつつ読めてない)紹介されていたのはバタイユの『ドキュマン』で、「雑貨をめでるような表層的な悦び」が「バタイユの難文によって事前にふさがれて」おり、「視覚の愉楽に流されず、わかりにくいものを、そのまま、わかりにくいものとして受け取る強固な言葉の体験」が今必要なのかもしれないと書かれていた。

『ドキュマン』は本当によくて、1929年にバタイユが編集を任された雑誌で、当初は考古学・美術・文化人類学などについて扱う真面目な学術的雑誌が想定されていたのだが、バタイユは大真面目に訳のわからないことを書くし(「アカデミックな馬」の話とか)、アンドレ・ブルトンの元を去って合流してきたシュルレアリストたちも当然好き放題する訳で、結果的にかなりカオスな雑誌になってしまい出資者はおかんむりであった。そしてアンドレ・ブルトンもまたシュルレアリストたちが自分を裏切るような形でバタイユの元へ行ってしまったことも相まってのブチギレで、「ドキュマン」に寄せているバタイユの論考を「シュルレアリスム第二宣言」でネチネチ引用して嫌味を言っていて本当に最高。本当にBL。この二人は滅茶苦茶対照的で、性質が正反対で相手のことが本当に気に食わないんだけど・それでいて自分の望むことを相手はできているという嫉妬もあり、お互いに大っ嫌いなのに決して無視できないという関係性…。こういうのって良いよね。普通に仲が良いより良い。いずれこの二人については日記とかじゃなくてちゃんと文章を書きたいと思っていて、全然手がついていませ〜〜ん!

『ドキュマン』はテキストだけでなく多くの図版を載せているビジュアル雑誌であり、その写真や配置の仕方もユニークで強い視覚的効果も生み出している。たしかにバタイユの文章は錯乱してて最高に大好きなのだが、決して「強固な言葉の体験」だけの雑誌ではないんですよね。この時期のバタイユ(本格的に自著を執筆する以前の最初期)はシュルレアリスムとの関係性を抜きにはおそらく語れなくて、そしてシュルレアリスムを語るには政治的な背景を抜きには語れないんですよね。当時の彼らが目指していたものは、「西欧近代文明」への反省・否定・超越であり、そして何より「革命」だった。第一次世界大戦という惨禍を引き起こしてしまった社会への疑念であり、戦後も本質的には何も変わらない社会への怒りに満ちていた。

『シュルレアリスム革命』誌創刊号が発行されたとき––すなわち一九二四年末––寄稿者たちは全員次の点で意見の一致をみていました。すなわち、自分たちをとりまくいわゆるデカルト的世界は、容認できない欺瞞的世界であり、それに対する反乱形態はすべて正当化される、という点です

アンドレ・ブルトン『ブルトン、シュルレアリスムを語る』稲田三吉・佐山一訳
(※ 酒井健『シュルレアリスム 終わりなき革命』中公新書 から孫引き)

「デカルト的世界」とは、「片寄った理性主義者」からなる社会のことで、「自分を理性的な存在だとみなし、非理性的なものの前で自分の優越を信じ、これを思うように支配していって構わないと考えている人々からなる社会のことである」(『シュルレアリスム 終わりなき革命』)科学的で合理的な理性を疑い、否定され抑圧された情念や非理性の再評価をしようとし、とにかく彼らは既存の秩序をなんとかしてぶち壊そうと思っていた。第一次世界大戦中に起きたロシア革命の影響も受け、彼らは真剣に「革命」を考えていた。のちにシュルレアリスムの主導者たちは共産党に入党したし、(結局うまくいかなかったが)バタイユはバタイユでボリス・スヴァーリンが主宰する「民主共産主義サークル」に加わって活動することになる。彼らは滅茶苦茶に政治的だった。

私は元々「シュルレアリスム」には全然興味がなくて、今でもシュルレアリスムの作品を見てもそこまで心惹かれないのだが、なぜ彼らがそんな活動をしていたのかを知って感動してしまった。彼らは結局革命は起こせず、社会は大きく変わることなく、ファシズムが台頭し、第二次世界大戦という次の破滅的な事態を迎えることになるけれど、知識人・芸術家たちがこれだけ政治にコミットしていたんだなというのが不勉強な私には新鮮に思えた。

共産主義を支持していた彼らは、当然のことながら唯物論者でもあった。(実際のところブルトンが唯物論者であったとは言い難く、バタイユに言わせれば「小うるさい観念論者」であったけれど)特にバタイユは既存のマルクス主義、共産党、ソ連のスターリン主義を早くから批判していて、独自の「低い唯物論」を展開していた。こないだ注文してた『異質学の試み バタイユ・マテリアリストⅠ』がやーっと今日届いたので、これから読むのが楽しみ。チラッとだけ読んだけど、「ブルトンに自分の訳出した古い詩を褒められたけど褒められるのとか逆に悲しかった」みたいなこと言っててやっぱり最高だった。ついでにアンドレ・ブルトンの追っかけしてた男の本も届いたので、これも絶対BLだと思うし読むのが楽しみ。

雑貨屋さんがバタイユを取り上げてたので「あ〜唯物論」とか勝手に思って読んだら全然違ったので、なんか残念な気持ちになって謎な日記を書いてしまった。シュルレアリスムやバタイユが語られるとき、彼らの政治的な問題意識とかがすっぽり無視されて単純に「訳わかんないけどいいよね!」とされているとなんか悲しいなと思ってこんなことになった。バタイユは錯乱してて訳わかんなくて最高なのはそうなのだが、ある意味ではその錯乱は理性に対する非理性の称揚であって、彼らは大真面目に訳わかんないことをやっているのだ。(雑なまとめ)

20-12-13_たくさんの強さと愛

シャンタル・アケルマンによるピナ・バウシュのドキュメンタリー『ある日、ピナが…』(ONE DAY PINA ASKED…)をみた。

「ある日、ピナが…、リハーサルにやってきて、私たちに”LOVE”という言葉から何を連想するか聞いたんです。」という紹介文に惹かれて見たけれど、正直ダンサーからはそこまで独創的な答えは出なかったので、その部分についてはやや肩透かし。まあ私が「愛という言葉から何を連想する?」と聞かれたところでパッと答えられないし、仮に答えられたとしてもおそらく己の凡庸さに恥じ入るばかりになるだろうし、「答えない」という選択をする卑怯な女が私。そういうのよくないと思うよ。

「愛は来ては去る しかもいつだっていま起きている」
「ほとんどの場合、愛は失敗する でも自分はまた必ず挑戦する 幸い愛だけが人生のすべてじゃない」
「愛なんて夢物語だ 他に聞くことはないの?」
「愛は来て 去って それから幸運にも戻ってくる そして愛は悲しくも去っていく」

一昔前はやたらと「愛」について考えたり書いたりしていた気がするが、(She is のプロフィールにも「人生のテーマがどうやら愛」とか書いててビビる。過去の自分はほぼ他人だ)最近はめっきり「愛」について考える機会(必要)がなかったので「愛」と言われてもパッと何も出てこない。しばらくアクセスしていなかったのでキャッシュが残っておらず読み込みに時間がかかる感じ。

Some day he’ll come along
The man I love
And he’ll be big and strong
The man I love
And when he comes my way
I’ll do my best to make him stay

He’ll look at me and smile
I’ll understand
And in a little while
He’ll take my hand
And though it seems absurd
I know we both won’t say a word

George Gershwin “The Man I Love”

ジョージ・ガーシュウィンの「私の彼氏」の曲に合わせた手話のシーンが良くて、手話について学びたくなってしまった。もちろん「手話」も語彙と文法を持つ「言語」の一形態ではあるんだけど、われわれが普段用いている「言語」とは違う身体的な親しみのようなものを感じて、シュタイナー教育に取り組んでる知人が学んでいた「オイリュトミー」のことを思い出した。

意識身体のギャップを埋め、言葉または音楽を全身の動きに変換し、内臓ミクロコスモス)を動かすエネルギー惑星マクロコスモス)を動かすエネルギーを関連付ける。 また、言葉または音楽の持つエネルギーを身体表現によって具象化する。 子音母音には、一つずつ動きが定められており、子音の動きと母音の動きを組み合わせることで、言語を立体的に表現することを可能としている。

Wikipedia オイリュトミー

大体常に意識と身体にギャップのある人間、生活が精神や言語表現に偏りがちな私であるけれど、恋愛の場になると突然「身体」の比重が大きくなるので戸惑ってしまう。私はよく「IQが下がる」と表現するけど、ある意味では普段精神的な活動/思考に偏っているエネルギーが身体の方に取り戻されているとも言えるのかもしれない。言葉を交わさなくてもただ人と「居る」のが嬉しい、触れるのが心地よい、という感覚を久しぶりに思い出した。というか、ここまで心地が良い感じは割と初めてかもしれないので、これもまたホロスコープの正しさを裏付ける証拠になってしまうな(確証バイアス)

端的に言えば「幸福」だなと思うけれど、少し前に友人の言っていた「別に幸せになるために生きているわけではない」に死ぬほど同意していた癖に、いざ自分のもとに舞い込んできたらしっかりそれに浸るというのはどうなんだよという気もしないでもないが、「幸福」は紛れもなく「幸運」なので、あるときにはちゃんと味わうべきなんじゃないか。そしてそれは、「別に幸せになるために生きているわけではない」と矛盾することではない。

バタイユの自伝で、バタイユとコレット・ペニョの関係性についての箇所で「バタイユがこの愛を考えるとき、幸福というものは度外視されていたと言っても過言ではない(幸福という概念は彼の関心を引くにはあまりにも薄弱な概念だった)。」(ミシェル・シュリヤ『G・バタイユ伝』)という記述があったのも思い出して、愛において幸福を度外視できるバタイユまじすごいなと改めてちょっと尊敬してしまったのだが、「幸福という概念は彼の関心を引くにはあまりにも薄弱な概念だった」と書かれている割にバタイユって『純然たる幸福』という著書があるよねと思った。

私は、私の幸福について語りたいし、語らねばならない。だがそれが原因で、なんとも理解しがたい不幸が私を訪れる。この言語、私が語っている言語は、未来を求めている。この言語は苦痛––どんなにささやかなものであっても––と闘っているのだ。今の私においては、幸福について語りたいとする欲求が苦痛になっている。言語はけっして純然たる幸福をめざさない。言語は行動をめざす。行動の目的は失われた幸福をもう一度見出すことだ。しかし行動そのものはこの幸福に到達することができない。というのも幸福であったら私はもはや行動しないであろうからだ。

ジョルジュ・バタイユ『純然たる幸福』酒井健 編訳 ちくま学芸文庫

これに続いて「純然たる幸福は言語の否定である」とバタイユは言い切っているのだが、最近「言語」について疑惑を持っている私としては吟味するのにちょうど良い機会だなと思った。(恋愛をしろ)「幸福」は望んで得られるものではないし、ほんとうにありがたい。

タイトルの「たくさんの強さと愛」は、未来への展望を聞かれたピナの答え。

「わからない 世界には大きな問題があるから
自分の未来に何を求めるか聞くのをためらうような
でもきっと私が願うのは強さ たくさんの強さと愛
どうだろう たくさんの強さ だと思う」

『ある日、ピナが…』

彼氏は「自由」と答えていたけれど、自由を得るにも力がいるし、私もまずは「たくさんの強さ」そしてその後、「愛」ですかね…

20-12-11_i don’t wanna be your personal Jesus

在宅勤務の良いところはなんと言っても堂々と音楽を流しながら・歌を口ずさみながら働けるところである。とはいえあまり音楽に聞き入っても仕事が捗らないので適当にapple music のプレイリストをかけていたところ、「I don’t wanna be your personal Jesus」というリリックが流れてきたのが引っ掛かり、元々予定にはなかったジーザスのことについて考える必要が出てきてしまった。いや必要なんていうものはないのだが、魂が求めるのなら与えないわけにはいかない。求めなさい、そうすれば与えられる。

I don’t wanna be your personal Jesus.
パーソナル・ジーザス。あなたの個人的なジーザス。personal と private ってどう違うんだろうと思ったけど、まぁ私用の・個人のという意味では近しい意味なのだろうか。通常のジーザス(通常のジーザス?)はすると必然的に public Jesus だったのだなと思い至った。そうなのか? いったん今日は公的イエスのことは考えず、パーソナル・ジーザスのことを考えたい。

そんな感じで仕事中パーソナル・ジーザスのことをぼんやり考えながら勤務していたところ、お昼を食べに居間に行ったら今月号の『福音と世界』が届いていたので、まさに求めなさい、そうすれば与えられるのがキリスト教だなと感心した。『福音と世界』、個人的には最近一番面白い雑誌だと思ってるけどどうですか? 人に薦めるとこれは普通に伝道活動みたいになってしまうので薦めづらいのだが。取り扱ってる書店にわざわざ行くのが面倒なので年間購読しています。雑誌の年間購読ってとっても便利ですね。今度『ヒップホップ・レザレクション』の続編が出るようなので非常に楽しみ。(リンクしたele-king のレビュー、冒頭から「ラッパーというペルソナ」という語が繰り出されており笑ってしまった。ラッパーというペルソナを想定したことがなかった)

しかしそれにしても「パーソナル・ジーザス」とはなんなのか。私の代わりに贖罪をしてくれるのだろうか。単純に個人に最適化されたメシア=救済ということなんだろうか。『フラニーとズーイ』でフラニーがズーイにこっぴどく怒られてたやつかな、と思って久しぶりに読もうと思ったら見当たらないので『フラニーとゾーイー』を仕方なしに読む。

「お願いだから、フラニー」と、彼は言った「もしも『イエスの祈り』を唱えるのなら、それは少なくともイエスに向かって唱えることだ。聖フランシスとシーモアとハイジのおじさんを、みんなひとまとめにまるめたものに向かって唱えたってだめだ。唱えるのなら、イエスを念頭に置いて唱えるんだ。イエスだけを、ありのままのイエスを、きみがこうあって欲しかったと思うイエスではなくだ。きみは事実にまっこうから立ち向かうということをしない。最初にきみを混乱に陥れたのもやはり、事実にまっこうから立ち向かわないという、この態度だったんだ。そんな態度では、そこから抜け出すこともおそらくできない相談だぜ」

J.D.サリンジャー『フラニーとゾーイー』野崎孝訳 新潮文庫

『イエスの祈り』の目的は一つあって、ただ一つに限るんだ。それを唱える人にキリストの意識を与えることさ。きみを両腕に掻き抱いて、きみの義務をすべて解除し、きみの薄汚い憂鬱病とタッパー教授を追い出して二度と戻ってこなくしてくれるような、べとついた、ほれぼれするような、神々しい人物と密会する、居心地のよい、いかにも清浄めかした場所を設定するためじゃないんだ。きみにもしそれを見る明があるのならば–『ならば』じゃない、きみにはあるんだが––しかもそれを見ることを拒むとすれば、これはきみがその祈りの使い方を誤ってることになる。お人形と聖者とがいっぱいいて、タッパー教授が一人もいない世界、それを求めるために祈ってることになってしまうじゃないか」

J.D.サリンジャー『フラニーとゾーイー』野崎孝訳 新潮文庫

やっぱり村上春樹訳をやたらと読んでいたせいか、野崎訳のゾーイーは若干良い子ちゃんに思えてしまうな。もっと嫌味ったらしいズーイが個人的には好きである。

しかし私は「祈り」についてはかなり好きというか、物心ついた時から毎夜祈って生きてきたタイプの人間なのだが、人間がなぜ祈るのかについては全然わかっていない。私の「祈り」はなんの祈りなのか。何を求めているのか、祈りは何かを求めるものなのか。「何か」とは何か、救済か。

フォークナーの『八月の光』でも、ある女が「祈り」を躊躇っていたのが印象深かった。
「この女は祈りたいんだ、だけどどうしたら祈れるか知らねえんだ」
「神様、まだあたしがお祈りせねばならぬようにはしないでください。神様、もう少しだけあたしを地獄においてください。ほんのもう少しだけ」

祈るという行為は、一般に「救済」を求める行為なんだろうか。救済を求めずに祈ることはできないのだろうか。私も無意識に救済を求めて祈っているんだろうか? まぁそのタイプの祈りを『フラニーとズーイ』は否定しているとは思うのだが。そもそも私は「救済」が全然ピンときていないのだ。バタイユも滅茶苦茶「救済」を否定しているというか、馬鹿にしているというか、笑い飛ばしているというか、とにかくそんなものは求めるもんじゃないと言っている気がするので、引き続きもう少しバタイユを読むことにする。

もーーー本当にさあ、私は比較的時間をたっぷり自由に使える環境にいる幸運な人間だけれども、それにしたって時間が足りなくて嫌になりますね。読みたい本が死ぬほどあるし、読むだけじゃなくて適度に書くことにも取り組みたいし。謎に「ヒップホップの福音」特集を読んでいたら今日は終わってしまった。ギャングスタとしてのイエスについても触れたかったのだが、日記にしては長くなりすぎるし収集がつかなくなるので本日のところはここで終了とする。

20-12-09_同じ地球に生まれたの

日記書くぞ!とか言ってるうちに気付いたら12月だし今年も残すところ22日になっていた。果たして22日間のうち何日分の日記が書かれるのであろうか。

2020年は人生で稀に見る「失われた年」であったけれど、(結局『失われた時を求めて』は1ページも捗っておらず、第3巻「花咲く乙女たちのかげに」がちくま文庫の井上究一郎 訳、集英社文庫ヘリテージの鈴木道彦 訳、岩波文庫の吉川一義 訳が無駄に揃い踏みという状態を保っている)最近一つ得たものとして、恋人ができた。急に。

まぁ考えてみれば今までの人生で恋人が「急に」できなかったことがなくて、デートを複数回重ねて徐々に距離を縮め、めでたくお付き合いに至る…というパターンを辿ったことが一度もない。今までの恋人も全員突然できた。私の意思が介在し始める前に、気付いたらできている。恋とは概してそういうものなのかもしれないが、この年齢になっても相変わらずそんな調子で良いのかかなりの疑問を抱きつつ、でもできてしまったものは仕方がないので、とりあえず出来立ての恋人をしばらく眺めてみることにする。

それにしても「付き合う」ということになる前は完全に無意識で対応していたので、正直自分が何を話していたのかも全然覚えていない。怖。美術館が好きだというのでアプリでのやり取りもそこそこに原美術館に行くことになって、(原美術館に来るのはきっとこれが最後になるのに、私は一度会っただけでその後名前を思い出すこともないであろうマッチングアプリの男性と原美術館との最後の時を過ごすのか…)という謎の感慨を抱きながら原美術館を見て回った。が、結果として付き合うことになったので原美術館を最後に一緒に見た人が「名もなきマッチングアプリの男性」になることは避けられ、少なくとも私の人生に彼の名が残ることになった。

私は「付き合ってください」と言われるとびっくりして付き合ってしまう習性があるので、今回も「付き合ってください」と言われてびっくりして思わず付き合ったのだが、歳を取るほど「好きだよ」とか好意を伝えるだけでなく、「付き合ってください」とちゃんと要求できる人間というのはとにかく偉いな〜と思うので、それだけで君は偉人だと思った。歴史に名を残した。そしてふと告白という行為が偉いのは、柄谷行人がよく引き合いに出す「命がけの飛躍」または「暗闇の中での跳躍」ってやつなんじゃないかと思って、久しぶりに柄谷を読もうと思ってちくま文庫の何かを捲ったけど全く気分ではなく読めなかった。今ググったら『探究』の方っぽいからそっちを読もうかな。

色恋沙汰になるとIQが死ぬほど下がるので、いつも友人が監視してくれてありがたいのだが、今のところ「そこまで下がってなく、冷静さを保てている様子なのでうまくいきそう」とのこと。というかまだ相手のことをほとんど何も知らないのだから、それでIQが下がっていたらどうしようもない。ちなみに監視といえば、彼氏の家に行ったら前から読みたかったオライーの入門 監視』があったので意気揚々と借りてきたところ、「謎の女だ…」と言っていた。謎の女に交際を申し込んだのはお前だよ。

本当に付き合っているのか半信半疑だったのであまり人に報告していなかったが、付き合っているらしいので友人に報告すると、まあ「どんな人なのか」と聞かれる訳なのだがどんな人なのか全然わからない。今のところ私が彼について知っていることは彼が生まれた日の惑星の配置ぐらいなもので、「彼の火星が私の金星にコンジャンクションしてる」というようなことしかいえない。しかし「彼の火星が私の金星にコンジャンクションしてる」って滅茶苦茶エッチな感じしないか? 実際にこれは非常にエッチな配置です。正直ホロスコープについてはあと1万字ぐらい書けそうだが、何も伝わらない(いや伝わると思うが)(いや伝わらない)ので要約すると、とにかく彼のあらゆる惑星と私の惑星の角度がすこぶる良くて、滅茶苦茶星に祝福されている。太陽も月も金星も木星も我々を喜んでいる。

星座の瞬き数え 占う恋の行方 同じ地球に生まれたの ミラクル・ロマンス
ってわけですね。気を失ったりIQを失ったり記憶を失ったりしないようになるべく日記を書いていくぞ。