2021-11-22(12-2)_手を焼く

恋人とデートで都美術館のゴッホ展を見に行った。
基本的に都美術館のことは信用しているけれど、前のゴッホとゴーギャン展に比べてしまうと内容は少し見劣りがするように感じた、特にヘレーネとゴッホの魂が響き合っているようには思えなかったし…。とはいえやはりゴッホは生で見るのに限るのであって、展示を見終えた後に図録やポストカードや複製画を目にした時の落差でそれを実感する。それにしても、わざわざ展覧会にまで来て絵をろくに見ずにただ絵の前に行列している人たちは何をしに来ているんだろうなといつも思う。自分もきちんと絵を「見て」いるかといったら自信はないが、私程度の熱心さで絵を見ている人すらほとんどいないのだから本当に不思議だ。目の前にあるゴッホの絵も見ずに、一体何のために生きているんだ?

ゴッホ展を見に行ったら、ゴッホに関連してきっと自分は何かを考えるだろうし、それについて書こうと思っていたのに全然何も思考が湧いてこなかったので拍子抜けした。まぁ妙な関係になってしまっている恋人と一緒に行ったから、そちらの方が気がかりだったのかもしれない。セルフサービスレストランみたいに律儀に並んでいる行列を無視して、空いている絵や見たい絵の方へ人混みの合間を縫って歩き回りながら 彼氏ともくっついたり/離れたりして、このくっついたり・離れたりする距離感が心地いいなと思いながら、こんなふうに一緒に美術館に来たりするのももうこれが最後になったりするんだろうか?と、もたれた左肩から伝わる温かさと安心感とは裏腹に悲しい気持ちでゴッホを眺めていた。

事実上の別れ話をしてから、私はすべての瞬間を(これが最後かもしれない…)という気持ちで過ごしていて、というか仮に別れなくても人生においてその瞬間は常に最後なので・毎回最後の気持ちで過ごすのはある意味人間として正しい姿勢なのかもしれないけれど、とにかくそういう気持ちでいることが必要以上に私を怯えさせていて、この本来必要ないはずの怯えが、二人の関係性を台無しにしそうで嫌になっている。私の凶暴な猜疑心や寂しさが、今にも彼の喉笛を食いちぎってしまいそうだ。理性ある知的な人間としてそれらを必死に押さえつけて、せいぜい手を噛むぐらいに留めているつもりだけれど、それにしたって頻繁に噛みつかれるのも/凶暴な感情を押さえつけるのもどっちもしんどいよな。こんな風になる必要なんて全然なかったのに、なんでわざわざ関係性を損なうような真似をしているんだろうな私たちは。

これが最後かもしれないと思えば、「おやすみ」と言った後も眠るのが惜しくて、瞼を閉じた彼の顔を眺めていたら無性に寂しくなって、彼の肩に滅茶苦茶に顔を擦り付けて「別れたら寂しいよ」と言ってしまう。その話はできるだけせずに、ただいつも通り“おもしれー女”として楽しく過ごすことで(フゥン やっぱ おもしれー女…)と思わせて手離せなくさせる作戦だったというのに、私の理性というのはかくも弱いのであった。口に出してしまってから、はたしてどういう反応を返されるのかとひやひやしていたら、少し寝ぼけたようなとろりとした声で「別れるの?」と言って私を腕の中に埋めてくれる。ワァ、めちゃくちゃ悪い男か…?と思いながらも、安心してその夜は眠った。

ところで、ヴァン・ゴッホは片方の手を焼かれたのであるが、生きるための、すなわち生存するという観念から生きるという事実を奪い取るための戦いをけっして恐れたりはしなかった、
そしてすべては、あえて苦労して存在せずにもちろん生存することができるし、
そしてすべては、狂人ヴァン・ゴッホのように、あえて苦労して輝いたり、きらめいたりせずに存在することができるのである。

A・アルトー「ヴァン・ゴッホ 社会による自殺者」鈴木創士訳『神の裁きと訣別するため』河出文庫,P159

ゴッホを見にいくにあたってアルトーを読んでいて、あれと思ったんだけど、ゴッホって耳を切る以外に手も焼いてたんだっけ? 「ゴッホ 手 焼く」とかで検索しても、周りの人間がゴッホに「手を焼いていた」という文脈しか出てこなくてそうじゃないんだよ、、となる。ゴッホはなぜ手を焼いたんだ? いつ? 自らの意思で?

『百年の孤独』のアマランタがピエトロ・クレスピの求婚を拒み、彼が命を絶ったあとで心の悔いを癒すために自らの手を竃の火で焼いたのと同じように、ゴッホもまた手を焼くことで、耐えがたい心の悲しみを癒そうとしたのだろうか? 『紙の民』でも、悲しみを癒すために手を焼く人物が出てくるけれど、悲しみは火によって治癒されるのだろうか。私もいざとなれば、自らの手を焼くことで心を癒すことができるだろうか?

と、感傷的に思ったりもしてみたけれど、最近の自分はかなり変に前向きなので、自分の人生がもはやどうでもよいのであれば、自分の人生をなげうって何か世界を少しでも良くするような、そんな「何か」をすべきなのではないか? という気持ちでいる。人間はあえて苦労して存在せずに生存することができるけれど、生存そのものが耐えがたいのであれば、あえて苦労することで輝いたり・きらめいたりして存在するべきなのではないか? メソメソ手を焼いたりしないぞ、と思ったけれど、「手を焼く」ことが「生存」するのではなく「生きる」ということなのであれば、手を焼くということは全く正しいことなんだな。私もその時には、躊躇いなく竃に手を差し伸べられますように。