2021-09-15_生活という薄鈍

一度失った習慣を取り戻すというのは、新たな習慣を身につけるより難しいような気がする。私は習慣化できたかに見えた「日記をつけること」「早朝にウォーキングすること」を早々に手放してここ数ヶ月一体何をしていたのか。前回日記を書いたのが4月末…5月の誕生日にはまた抱負でも書き出そうと思っていたのに気づけば初夏を通り過ぎ、夏も終え、虫の声が涼やかに響く秋の夜である。

最近うちのめされるような出来事が続き、落ち込んでいたのだが過去の自分の日記を読み返すと思いの外愉しくて元気がもらえ、え〜〜自分の新作の日記が読みたい! なんと自分が書きさえすればすぐに読める!と思ったので久しぶりに日記を書くことにした。贈与日記、誰に対する贈与かというと結局のところ未来の自分に対する贈与の様子。地産地消で環境にも優しい!

私はなんだかんだ家庭の事情やら人生のタイミングやらで家を出るタイミングを逃し続け、母と猫とW2C2(女が2人・猫が2匹)で暮らしていたのだが、最近になり母の入院する期間が延びていくにつれ、W1C2の構成で過ごすことが増えた。前はW-Cの2ペアで安定していた分子構造が、CがWを取り合う形になり若干の不安定さがある。猫たちに取り合われるのは満更でもないのだが。
※この人間と猫の分子式は、『女ふたり、暮らしています』で見たやつ。これマジで良い本で、なぜ私はこれができないんだろう(できないのか?)と震えた。

実家暮らしという環境に甘えに甘え、今の今までほとんど料理というものをしてこなかったけれど、やむにやまれず毎日料理をしている。

私はもともと「食べること」を考えるのがすごく苦手で、なんなら毎食ぬか漬けと納豆ご飯で良いという人間である。「食べたいもの」があまり思い浮かばないし、食事について考えることに時間や労力を使いたくない。「料理を作る」といっても、食べたいものがないのだから作りたいものも当然浮かばない。食材や調理法の組み合わせなんて無限大だし、選択肢が多すぎる。さらにそれを献立として組み立てないといけない。これはとても仕事終わりで疲れてる時にできることではない。1日3食を7日間、それを永遠に考え続けるなんて拷問だ、辛すぎる。と思っていたが、やらなきゃいけないので自分でもやれる形を考えてやることにした(聡明な女は料理ができる!)。

そもそもの始まりは2021年、完全在宅勤務のおかげか人生最重量級のウェイトになってしまい、流石に危機感を覚えたので年始の抱負に「5kg減」を掲げ、パートナーにあすけんの女を迎えて食事をちゃんとすることにした。これは食べたものを入力していくと摂取した栄養をグラフにしてくれるので、たんぱく質・脂質・炭水化物のバランスと、ビタミン・ミネラルなどの栄養素が足りてるかどうかがパッとわかる。なので純粋にPFCのバランスをうまくとって、できるだけすべての栄養素の基準値をクリアすることを目標に食事を組み立てていくことにした。買い出しの回数を最低限にしたいという要請と・食べたいものがあまり浮かばないことを逆手にとって、週末時点で1週間分の献立をまとめて大体作ってしまい、月曜の早朝の空いているスーパーで1週間分の食料を買い込む。週後半まで持たせるために適宜冷凍を活用しつつ、粛々と食材を使い切る…。スタート直後はレシピ本・料理本を何冊も読んだりして、かなり時間と労力を使ったけれど、だいぶ運用がこなれてきたので日記を書くような余裕も生まれてきました…!!素晴らしい、偉人なのか?

まあこんなこと一人暮らしの人は今まで当たり前にやってきたのかもしれないけれど、食に興味が薄く/料理赤ちゃんの私はこんなことが自分にできるなんて…とここ最近はかなり全能感が湧いてきたところ。意外と楽しいしうまくできると嬉しいので、日々食事を作り、猫の世話をし、仕事と家事を滞りなく済ませるだけで割と満足してしまう。これは(私にとって)かなり悪い状況です。

睡眠をとり、食事をして、体を休める。起きていれば眠くなり、時間が経てば腹が減り、毎日何度かはトイレにいき、他人が煩わしくなれば自分のスペースにひきこもる。全て受動的だ。避けがたい必要性を充足することができてはじめて私たちは受動性を退け、「分析する私」となる。難民になっても学問は続けられると断言する学者を、私は容易に信用しない。学問は主に暮らしへの埋没を回避できる人々によって営まれてきたし、そうであるからこそ、学問的な知は暮らしを言語化するのに向いていない。

久保明教『「家庭料理」という戦場 暮らしはデザインできるか?』コトニ社

この本がかなり面白くて、1960年代から現在に至る家庭料理をめぐる諸関係の変遷を、これまでに刊行された料理研究家によるレシピ本を収集して実際に作りながら、分析していくという…内容も面白いし、そして小林カツ代と栗原はるみをそれぞれ「カツ代」「はるみ」となぜか終始親しげなファーストネーム呼びで真面目な議論を展開していくところがとても良かった。この人の本は初めて読んだけれど、もともとブルーノ・ラトゥールのアクターネットワーク論の本なども書いている人で、アクターネットワーク論の本を読んだ後でまた読み返すと、確かにそういうアティチュードで取り組んでいるのだなというのがわかる。アクターネットワーク論については、前に聡明な友人が「アクターネットワーク論がわからないんだよね…」とこぼしていたが私はそもそもアクターネットワーク論を知らなくて、ハハァ、そうなのかと思っていたものですが、ここで満を辞して登場してきたのだった。

それはともかく、生活に埋没してしまうとと生活とおよそ関係のない抽象的なこととかに思いを馳せたり思考を巡らせたりしてる余裕ないよね、というシンプルな話でした。とはいえ生活は、生きる活動は思考の土台なのでやらねばならず、とにかく家事の熟練度を上げて効率化し・家事に割くリソースを削減していくしかない。と割り切ってやってけば多分良いんだけど、前よりは薄まったかもしれないが(?)「丁寧な暮らし」を営まなければいけない圧、というか、衣食住ちゃんとしなきゃ的圧みたいなのもあるわけで。しばらく前に流行ってた『クィア・アイ』も、何話か見たけど「部屋をきれいにして・身嗜みにも気を使って・美味しい料理も作れるようにならないとハッピーじゃない!」みたいな感じが厳しかった。それらにリソースを割かないという選択肢のハッピーさも認めて欲しい。

という気持ちで(環境に恵まれていたのもあって)食事や料理にリソースを割かないという選択をしてきたのに、ダイエットというこれもまた「身嗜み/ルックスを良くしなくては」という要請に応えるために、結果的に料理にも真面目に取り組むようになってしまい、無視したいはずのものに結局引きずられる形で普通にちゃんとした感じになってきてしまって罪悪感を抱いている。

この状況は、公益を私益に優先し、健康を国民の義務としたナチスにとって都合がよかった。健康な兵士と、それを産む母を量産するためには、食を通じて国民の健康を管理しなくてはならない。それは、あいまいな言葉でしか語れない食の感覚を頼りにするよりは、数値化された栄養素と濃縮されたブイヨンによって台所を満たしたほうが、はるかに至便である。

藤原辰史『[決定版]ナチスのキッチン 「食べること」の環境史』株式会社共和国 p300

料理本関連で読んだ『ナチスのキッチン 「食べること」の環境史』(料理本関連?)も面白くて、ドイツにおける台所の変遷を軸に、家政学やレシピ、そしてナチスがどう家庭・食事に介入してきたか、、というのを知れて良かったのだけれど、今私がやっていることってまさに「数値化された栄養素」で料理をやってるので、これはこれで面白くないのだよな。やっぱり人間として不合理で無茶苦茶な食生活をする権利が認められるべきだし、それを主張するために私もそれを実践すべきである気がしてくる。しかし、そうすると太ったり、醜くなったり、健康を害したりする…というジレンマ。けして「太っている=醜い」とは思っていない、と思っているけれど、結局のところそこから抜け出せてないのかもしれない。

あーあ! 美しくなりたいけど美を追い求めたくないし、健康を維持したいけど健康になりたくないし、変なものを食べたくないけど変なものしか食べたくないし、素敵な暮らしをしたいけどしたくなんかないし、全てを効率化したくなんかないけど無駄な時間や労力を使いたくないよ。ソイレントだけ摂取して生きたい気もするけど、そんなのも絶対に御免なんだよ。

「祝福された摂取を!」と『魔の山』のサナトリウムの院長がよく言ってるらしいので、今こそ『魔の山』をちゃんと読み終えようかな。