2021-03-22_必要になったら電話をかけて

いつも三日坊主のわたしにしては継続できていた日記だが、ちょっと油断したら1ヶ月ほど余裕で書いておらず魂消た。これはほんとうに魂が削れた感じがするので、たまげたを漢字で書くのが相応しい事態であると思う。Time flies.

どんなにくだらないことでも何かしらを書いていないと、後から振り返った時にひどく空虚な日々を過ごしてしまったような気がしてしまう。その時の真っ只中にいるときはとても幸せで、満ち足りているからこそ「何かを書かなければいけない」というようなある種強迫的な必要性にも駆られず生きていられたのだろうけれど、やっぱり私は苦しくても・痛くても・不十分でも・偏っていても・意味がなくても、この世に爪を立てて生きたいし、せめて日記ぐらいは書きたいと思う。

この世に生きたすべての人の、言語化も記録もされない、本人すら忘れてしまっているような些細な記憶。そういうものが、その人の退場とともに失われてしまうということが、私には苦しくて仕方がない。どこかの誰かがさっき食べたフライドポテトが美味しかったことも、道端で見た花をきれいだと思ったことも、ぜんぶ宇宙のどこかに保存されていてほしい。

岸本佐知子『死ぬまでに行きたい海』スイッチ・パブリッシング

『死ぬまでに行きたい海』の単行本は買ってまだ読めていないのだけど、この文章は『MONKEY』の連載で読んだ時からずっと心に残っていて、わたしがこうして日記を書くのもささやかな保存の試みの一つなのだ。しかし紙に書かれた日記なら物理的に損傷しなければ数十年ぐらいは保存できるだろうけれど、数多あるブログサービスが数十年後続いていることは考えにくい。実際すでに多くのサービスが終了して・そのまま失われてしまった個人サイトや個人ブログが大量にあるわけで、わたしはそれもとても悲しい。サービスが終了しても本人が健在でやる気があれば、ごそっとデータを持って引っ越せばいい話だが、そのまま打ち捨てられるものがほとんどだろう。そして本人が死んだ後なんてなおさらどうしようもない。自分が死んだら全部削除してほしいという人もいるだろうし、そこは当人の意思を尊重すべきだろうけれど、それにしたってわたしは誰かが生きた痕跡が消えて無くなるということが耐えがたく悲しい。デリダも彼にとって慰めようのない喪失とは「記憶の喪失」であり、最も深い欲望は「記憶を保持すること」だと言っていて、(高橋哲哉『デリダ 脱構築と正義』)わたしがデリダを好きな大きな理由であると思う。

痕跡の抹消の経験から欲望されるエクリチュールは、しかしそれ自身、純粋な固有性、唯一性、特異性を抹消する働きである。記憶は忘却の犠牲のうえにしか生き延びることはできない。記憶の約束は、エクリチュールの書きこみによる特異性の焼却(incinération)の灰の上ににのみ、残ることなくして残る。アポリアとしての記憶、エクリチュールのダブル・バインド、あるいは「名のパラドクス」。こうしたアポリア、ダブル・バインド、パラドクスこそ、記憶、伝承、約束、反復、歴史といったものの可能性の条件である。

高橋哲哉『デリダ 脱構築と正義』講談社学術文庫

今日は久しぶりに仕事で電話をする予定があったのだけれど、わたしは電話をするのが本当に嫌いで、電話がかかってくるはずの時間の少し前から動悸がして無駄に部屋をウロウロしてしまい、こんなに電話が嫌いなのによく営業ができてたな…と過去の自分を尊敬と憐憫と(そんなに向いてないことをするなよ)という呆れの気持ちで眺めてしまった。どうして私はこんなに電話が苦手なのだろうと悩んでいたのだが、先日、昨年の誕生日に友人がくれた『カタストロフ前夜』をようやく読んで、その中の「声は現れる」というテキストを読んで腑に落ちるものがあった。

生きている限り別の人にじかに触れることができる肌を除いては、ただ声のみが、音の波として発され、じかにわたしたちの鼓膜に触れ、耳を温めることができる

関口涼子「声は現れる」『カタストロフ前夜』明石書店)

「電話が嫌い」といっても、長電話をする夜は幾度もあったわけでその表現は正確ではなく、「親密でない相手とする電話が嫌い」というのが正しい。私は電話を大変エッチな行為だと思っている節があり、貞淑なわたしが電話をする相手は必然的にほぼ恋人に限られる。無意識だったけど、電話をすること:声を耳元で聞くことは、その人によって「触れられる」ことなのだと思えばわたしの感覚もあながち間違っていなかったんだな、と納得してしまった。以前マッチングアプリでマッチした比較的気があって話が盛り上がった人から「電話しませんか」と提案を受けた時も、(会ったこともないのに電話…??セクシャルすぎる…)と思い丁重にお断りした。肉体関係もない人間と電話なんてちょっと…ねえ。そう思いません? 

わたしはデリダ・ファンだしパロール(声)よりエクリチュール(書き言葉)を、現前より痕跡を擁護したい人間なのだけど、「声は現れる」の「大切な人の声を録音してください」というメッセージはすごくグッときたし、すべてを保存したい欲望を持つわたしがなぜそれを今までしてこなかったのか、とショックを受けた。声はいつでも「現在」に現れる、その人が今いなくとも・その声は「今」わたしの鼓膜を撫でることができる。現前ってすごい。パロール中心主義者になっちゃおっかな、と思ったけど、声を聞きたい人は限られすぎるし/性的に奔放になれないわたしはこれからも基本的にエクリチュールを辿って生きていきますね。

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