最近日記を書けば書くほど己の愚かさを目の当たりにして落ち込むのだが、書くことによってそれに気付けているのであれば、この営みを絶えず繰り返していくことでいつか叡智にたどり着けないだろうか? という無謀にポジティブな気持ちでやっていく。
今日は『テクノロジー的全体主義――AI・DNA・GAFA』というテーマのオンライン講演会を聞いた。コロナ禍における数少ない良いことは、こういう講演会とか講義とかがオンラインで催されることが増えて格段に参加しやすくなったことですね。去年の沼野充義先生の最終講義なんかもまさにそう。当時はまだ自粛生活が始まったばかりで、週末に人と会ったりせず、静かに家で本を読んだり映画を見たりすることが初めて全面的に肯定されたような気持ちで、堂々と一人で時間を使うことに満足できていた時期だった。今も再び在宅勤務・自粛生活には戻ったけれど、あの頃の静かで不思議と満たされた時間というのは二度と手にできないだろうなと思う。想像以上に無能だった政府に怒り狂わないといけないし。ありがたいことに沼野先生の講義は今もYoutubeで聴けるので今まさに聞いているけれど、少しだけあの時の嬉しい気持ちが蘇ってきて心がホカホカしますね。
今日の講義は去年読んだ『漂泊のアーレント 戦場のヨナス』の著者のお二人による対談だったので、「テクノロジー的全体主義」についてハンナ・アーレントとハンス・ヨナスの思想を紹介しながら、それぞれのテクノロジーや全体主義に対する捉え方、抵抗の戦略について対比しながら語っていて面白かった。『漂泊のアーレント 戦場のヨナス』を読んだ時にも思ったけど、やっぱりハンス・ヨナスはハンス・良ナスだしハンナ・アーレントはヨナスに比べるとどうもちょっとイマイチに思えてしまうんだよな。アーレント読んでないから言いにくいけど。あと学生だったアーレントに手を出したハイデガーが最悪です。個人的哲学者好感度ランキングでハイデガーはかなり下位にいますが、まあ好感度とかその人が果たした功績に比べたら別にどうでもいいよね。いや、「好感度」を持ち出したのがそもそも間違いだった、学生に手を出して不倫したハイデガーはシンプルに最悪。いや、しかし不倫とはいえそこにアーレントの側からも愛があったならいいのか…? 何もわからない…。
「テクノロジー的全体主義」というのは、まぁタイトルのとおり「ビッグデータ」とか「AI」とかでなんでもレコメンデーションされてしまう世界で、明らかにそれは「便利」ではあるし、自分に最適化されて提示された選択肢を選ぶことは意思決定のリソースも省けるわけだし、それに乗ってしまった方がいろんな意味で「得」なのかもしれない。間違う可能性が低くて、自力では見つけられなかった自分好みのものを効率的に発見できるかもしれない。そうした「効率」や「利便性」の高い選択肢の提示を受けること自体は悪いことではないし、別に悪意ある支配者が直接的に人間の行動を操ろうとしているわけでもない。だからこそ我々はその選択肢の提示を喜んで受けてしまうし、しばしばそれに従った選択をするだろう。でも実はその時、そこで失われている人間の「自由」「自主性」「複数性」があるのではないか? 20世紀の全体主義のように恐怖や暴力で直接的に人間の自由を抑圧するのではなく、21世紀の全体主義は違う形で人間の「自由」を抑圧していくのではないか? という、まぁそれは本当にそう…という。
今日の話を聞いていて、ちょうど読んでた『現代思想』の2021年1月号(現代思想の総展望2021)の藤原辰史+山内志朗の対談で取り上げられていたエマヌエーレ・コッチャの「浸り」の概念を思い浮かべていた。「浸り」というのは、ざっくり言えば我々人間はこの地球上で生きていくために必要な空気に浸っているという意味で、我々は普段意識しておらず・見えもしないけれど、我々の生命の条件がそこにはあると。コッチャはそこからその条件を用意している植物という存在を問い直していこうとするらしいのだが、この二人の対談で印象深かったのがこの「浸り」という概念が全体主義的な恐ろしさを持っていると批判していたところで、また私は安易に今日の議論に接続してしまったのであった。マジで全然違う話ではあるのだが、「普段意識もせず・見えもしない条件」上で、我々はあらゆるテクノロジーを利用しているがそこには全体主義の契機があるんではないでしょうかということだけ言いたい(みんな知ってるか)。
話を戻して、ハンス・ヨナスの何がいいかというと、「今まだ存在していない人間」に対する責任、はるか先の未来に対する倫理を考えようとしてるところなんですよ。いわゆる「世代間倫理」というものですね。テクノロジーの発展によって、人類の行為が及ぼす影響の地理的・時間的影響というのがとんでもないことになり(たとえば原発の放射性廃棄物が安全なレベルになるのに10万年かかるみたいな)、現代を生きる我々は将来世代への責任を過去にないレベルで負っているのだと。地球温暖化とかも、今すぐなんとかしないと100年後に地球がやばくなります!!!みたいな話、でもぶっちゃけ自分はもう死んでるしね、将来世代のみんながんばれ。みたいなので本当にいいのか??よくないよね???という。ハンス・ヨナス今めっちゃアクチュアルなのでは? 『責任という原理』手に入らないらしいが。
ヨナスは「あなたの行為の影響が、地上における本当に人間らしい生き方の永続と両立するように、行為せよ」というめちゃめちゃカントの定言命法のオマージュで語っておられます。未来への責任を果たすためにはテクノロジーがどのような影響を及ぼすのか知り、いくら現在に利益をもたらすものだとしても、それが「人間らしい生き方」を将来的に滅ぼす可能性があるのであれば許容しないという判断が必要だと。そしてそのためにはテクノロジーについての知識だけではなく想像力が必要なので、「SFを読め」という話らしいです。わたしが散々引用してるハクスリーの『すばらしい新世界』をハンス・ヨナスも引用してるらしくて、気があうね♡とニコニコした。ヨナスは『すばらしい新世界』について「そこでは不幸を眺める能力が人間から失われている」と評しているらしいのだけど、今の日本でも十分に失われていますからね、本当に怖い。その社会の中では当たり前だとみなされていて、だれも疑問には思ってはいないけれど、現実にはきつい思いをしている人がいる。その目の前の傷ついている人に手を伸ばすこと、それはある意味その社会における「規範」を超えていく配慮だが、それが「責任」というものであると…。現代社会、分断されすぎてその「傷ついている人」がもはや目につかないみたいな問題もあると思いますが、自分にいったい何ができるのか、考えていきたいところ。
とりあえずSFを読みましょう! では。