21-01-20_Well-Architected World

書きたいことはここ数日いろいろあったはずなのだが、考えても考えてもその場でふっと蒸発してしまうような状態が続いていて、寝る前にパソコンの前に向かう頃には何を書こうと思っていたのかまるで覚えておらず呆然とするばかり。この思考の揮発性はいったい何なのか、と絶望しつつ、仕方がないので久しぶりに毎晩小説を読んでいる。

今読んでいるのは1916年にイギリスで出版されたローズ・マコーリーの『その他もろもろ』というディストピア小説で、国民を知力で階級分けをして・一定レベルに達していない人間の結婚や生殖を禁止したり・税金の負担割合を変えたりする、言ってみれば「低知能差別」の世界の話なのだが、オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』に比べればディストピアとしての完成度は低いし途中からふつうに「人間が恋してIQが下がる話」になってきてウケると同時に身につまされています。

『すばらしい新世界』といえば、こないだツイッターの人が「子供は国が専用の施設で培養しながら育てることにして家族制度は解体してこう」みたいなこと言ってて、それはもろに『すばらしい新世界』だね…!となった。『すばらしい新世界』はほんとよく設計された「すばらしい新世界」なんだよな。Well-Architected って感じだし、そのうちAmazonが作ってくれそう。

「すばらしい新世界」ではすべての子供は工場の瓶で培養されて、生まれる前から階級に分けられた上でそれぞれの階級に必要な数だけ生産される。最上級の階級はアルファで次点がベータ、どちらも容姿は美しく、知的な教育を受けており政府省庁の職員、大学教授などの職についている。そして労働者階級のガンマ、デルタ、エプシロン。彼らは1つの受精卵から大量に子供を作る技術によって大量に生産されており、下の階級に生まれるほど容姿も醜くなり、着る服も決まっているのですぐに見分けられるようになっている。さらにこの世界の人間たちはどの階級であろうと例外なく、工場で叩き込まれた教育によって生理的に下層階級を嫌悪するように条件づけられている。ただ、それぞれの人間は自分の境遇にすっかり満足するようにこれもまた条件づけられているため、自分の階級や仕事に不満を抱くこともなく、漏れなく全員幸福に生きている。もし少しでも不安な気持ちや悲しい気持ちを感じれば、政府から支給されている「ソーマ」を飲めばすぐに気分は晴れやかになり、夢のような心地になることができる。「家族」というものはないので全員が独立した個人であり、「万人は万人のもの」というスローガンのもとフリーセックスが奨励され、恋人ができずにセックスにあぶれてしまうような人間もいない。一人の人間と長く付き合うことはおかしいとされ、いろんな人間と楽しいだけの付き合いをする。「恋人」も「家族」も、強い執着は激情を呼び、不幸のもとなので不健全なのだ。平和で安定したすばらしい新世界には、つらいことも悲しいことも何もない。死ぬまで若く、病気もせず、適度で満足できる仕事をし、誰でも好きな人間とセックスし、すこしでも気持ちに影がさせばソーマを飲み、とにかく楽しく死ぬ日までを過ごす。なんてすばらしい新世界!

「ねえ、君」とムスタファ・モンドは言った。「文明は崇高や悲壮を全然必要としないんだよ。そういうものは政治の貧困の徴候なんだ。わが国のように正しく組織された国では、だれも崇高だったり悲壮だったりする機会をもつことはないのだ。そういう機会が生じ得るには、その前に事態が徹底的に不安定でなくちゃならない。(中略)しかし、今では戦争などというものはない。人がだれかをあまり愛しすぎないように最大の注意が払われている。いずれに忠誠を尽くすべきかなどということは起らない。人は為さねばならぬことをせずにはいられないように条件づけられている。そして為さねばならぬことは概してとても楽しいことであり、たいていの自然の衝動を自由に発揮することが許されているので、じっさい抵抗すべき誘惑など少しもない。そしてまたもし何か不幸な偶然からたまたま不愉快なことでも起ったところで、そのときには、いつもちゃんとソーマというものがあって人に事実から逃避させてくれる。怒りを静め、敵と和解させ、我慢づよく辛抱させてくれるソーマがいつも控えている。昔は、大変な努力をし、長年苦しい修養をして、やっとそういうことがやれたのだ。ところが今じゃ、半グラム錠二つ三つ吞み込めば、それで万事めでたしだ。今ではだれだって徳高く振舞えるのだ。人は少なくともおのれの道徳の半分だけは瓶に入れて持ち歩きできるのだ。涙を交えぬキリスト教––ソーマはまさにそれなんだよ」

ハックスリー『すばらしい新世界』村松達雄 訳,講談社文庫

世界総統の一人であるムスタファ・モンドと、「文明国」の外で育ち、たまたまシェイクスピアを読んで育った野蛮人との議論の箇所が見所ですが、野蛮人がいかにこの世界の欺瞞を破ろうとしても、すべては「世界の安定」「人間の幸福」のため、それより優先されるものが他にあるだろうか? 野蛮人は正直まったく歯が立たない。文学?詩?神?真理?愛? それが世界を安定させ、人々を幸福にさせることにどれだけ寄与する?このうまく設計され、稼働している文明を犠牲にしてでも必要なものだろうか? 世界国家の標語は「共有・均等・安定」、結構じゃないか。今の世界よりよっぽど良い。女が完全に妊娠・出産から解放されているのも素晴らしい。今の世界だってこれほどハッキリしていないとはいえ「階級」はあるし、死ぬほど不平等なくせに表面上は個人の努力でなんとかされることになっており、もし何かしら厳しい状況に陥ってしまってもそれは本人の努力不足で「自己責任」ということにされるのだから。世界総統に野蛮人はすっかり言い負かされたような形になり、最終的に「不幸になる権利」を要求して去っていくのだった…。まぁわたしも野蛮人と同じく個人としては「不幸になる権利」を求めたいところだけど、ではそれをこの「文明国」で、まったく心から満足して生きている人間たちの幸福を犠牲にしてでも必要だと主張できるか?と言ったら難しいんだよな。なんかソ連でスターリン体制が崩壊し、ペレストロイカが始まって発禁になってたパステルナークとかが読めるようになって知識人たちは喜んだけど、ソーセージもまともに食べられなくなった…みたいなのを思い出しますね。まぁ今の日本はあらゆるディストピアの悪いところだけ集めてみました!みたいな有様で(というか本来「ディストピア」は「一見ユートピアに見えるけど実は違う世界」だったはず)言論の自由も怪しいし、この飽食の時代に餓死する人間だって出ているし、マジでどうなってしまうんだこの国。と私は怯えて生きているが、大多数の人間は依然として政治にまったく興味もないし、「愉しみながら死んでいく」んでしょう、もちろん、「愉しみながら」死ねるのはごく一部の特権的な立場の人間だけでしょうが。

『愉しみながら死んでいく』でポストマンは、オルダス・ハクスリーが『すばらしい新世界』で描いたディストピア図(薬物と軽薄なエンタテインメントで麻痺した人々が催眠性の人生を送る)と、ジョージ・オーウェルが『一九八四年』で創作した世界(人々はビッグブラザーの抑圧的な専制支配の下で暮らす)とを比較した。(中略)

ポストマンが言うには、ハクスリーのディストピアは二〇世紀後半にすでに実現しつつあった。全体主義国家に対するオーウェルの懸念がソ連に当てはまる一方で、西側のリベラル民主主義国家への脅威(これが一九八五年のことだったと覚えておいてほしい)は「あからさまにつまらない事柄」によって麻痺するあまりに、責任ある市民として関与できない人々をめぐるハクスリーの悪夢によって象徴されているとポストマンは主張した。

ミチコ・カクタニ『真実の終わり』岡崎玲子 訳,集英社

『真実の終わり』は「トランプのもたらしたもの」についての解説と考察としてすごい面白い本ではあるんだけど、なぜかデリダを筆頭にするポストモダニズムが諸悪の根源とされていて最悪なので人に薦められない。というかそもそも、ここまでデリダについておかしなこと言われるとその他の部分の信憑性も疑わしくなるわ。もし皆さんも読むならその前にデリダに入門して、理解を深めた後にこれを読んでブチ切れるようにしてくださいね。

ねえ、今日ぜんぜんこんなに『すばらしい新世界』について書く予定じゃなかったのに間違えて書いちゃった。おかしいな〜〜 これもIQが下がってるせいなのか? さくっと文章のリハビリかねて軽い日記書いて『その他もろもろ』を読み終えようと思ってたのに。リハビリ継続していこうね。

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