失恋の痛手がボディーブローのように効いてきたというか、精神的にはむしろ淀みから抜け出たようなある種爽やかな軽快さがあったりするのだけれど、フィジカルの方にダメージがダイレクトに来ていてライフポイントがジワジワと削られているのが今。お願い!死なないで城之内! と思いながらゴールデンカムイを読むことで辛うじて人間の形を保っているが、しかしその一方で、本当は気を紛らわせている場合ではなく、できるだけこの強烈な痛みや感情が去ってしまう前に、薄まってしまう前に、それを直視して味わい尽くしておかなければとは思っている。
以前のわたしは、生理痛やその他頭痛や何か痛みがあるときに、すぐ鎮痛剤を飲むことに妙な抵抗があって・なるべく痛みを痛みのままにさせておきたいようなところがあった。いつの間にかすっかりそんな気力が衰えたのか、仕事を優先するためのプラクティカルな理由からか、躊躇いなく痛み止めを飲むようになった。なんとなくこれは、今の私の精神的な痛みに対する態度と通ずるものがあるような気がしている。
これはまたお馴染みの脱線なんだけど、人間は鎮痛剤を飲むと他者の痛みへの共感も薄まるらしい。ついでに他者への共感性が高い人間はその分ストレスを感じやすく、結果的に不親切になりやすいらしいので、そういう人は鎮痛剤を飲むと共感が薄まっていい感じになるかもしれないよねと思った。会社に一見人当たりがよくていつもニコニコしてるんだけどその実めちゃくちゃ失礼で仕事のできないおじさんがいるんだけど、あの人ももしかしたら周囲に気を遣いすぎてストレスを感じて結果的に不親切&仕事ができない状態になっているのだとしたら、鎮痛剤を投与することで共感性が薄まって仕事ができるようになるのではなかろうか…とまぁまぁ真剣に考えたりしていた。でも鎮痛剤はあくまで「他者の痛み」に対する共感を薄めるものだから、あまり意味はないのだろうか?
「痛み」と向き合うということを考える時、いつもわたしは『ハチミツとクローバー』のはぐちゃんが、大怪我を負った後に鎮痛剤を使わず全身の痛みに耐えながら自分の手の先の感覚があるか探り当てようとする場面を思い出す。鎮痛剤を使えば耐え難い痛みを抑えることはできるけれど、同時に感覚も麻痺してしまうから、己の感覚の微かな印を、一筋の希望もまた紛れて見失ってしまうことを彼女は恐れて、必死に痛みに向き合っていたんだよね。
気を紛らすためにインスタントな慰めを求めても却ってゲンナリしたり神経をすり減らすことになるから良くないな〜と思っていたけど、それよりももっと悪いのは、むしろ本当に「慰め」がすぐに手に入ってしまって、何の反省もなく手元にあったはずの痛みを忘れてしまうことだろうなと思う。
わたしはすぐに空元気を出して動き回る人間だけど、少し落ち着いて男を殺す小説を書く準備をしようね。