2021-10-25_水分と生命

九月もだいぶ弱っていたが、ますます弱りが深まる十月であった。

ところで、先週の金曜日にあわや母親をなくすところだった。
(※また暗い話ではあるものの、すでに最悪の事態は避けられて多少元気になってきたので私は今これを書けており、後半に行くにつれポップになる予定です)

その朝母親から怪文書のようなLINEが届き、嫌な予感がするのでiPhoneが鳴らないように威嚇しながら仕事をしていたのだけれど、その努力も虚しく病院からの着信を示してiPhoneが震えた。案の定主治医からの電話で、血圧がとても下がっていて、血圧を上げる薬を投与したものの、これが効かなければそのまま心停止に至るかもしれない、と。そして面会謝絶ではあるものの事態が事態なので面会に来た方が良いと、できるならASAPで来て欲しいというようなことを匂わせるので、ついに来たかぁと思いながら、姉に合意をとってから主治医に伝える機会のなかった延命治療のお断りについて電話越しに伝える。すると主治医は明らかにホッとした様子を見せ、それならそこまで急いで来なくて良いと言い出し、要はその確認を取れていなかったから早く私に来て決断をして欲しかったようだった。気持ちはわかるが、親を亡くしそうな人間にする仕打ちなのかぁ それは。ともかく主治医の反応を見るに、無茶苦茶急いで行かなくてもどうやら大丈夫そうだと思い、もともと午後休で差し入れに行く予定だったので、予定通り午後に行きますと告げて電話を切った。

とはいえ電話を切って冷静になると、いやこの状態で仕事はできないだろうと気がつき、仕事を早退して母親の通帳から万が一に備えて当座のお金を下ろしに行った。人が死ぬと銀行の口座が凍結されてお金が下せなくなるので、死にそうになったらまずは金を下ろせとずっと母親に言われていたのだ。とはいえ「当座のお金」って何に使うんだろう、葬式か? 葬式っていくらかかるんだ? と調べたところ、200~300万円ぐらいかかるっぽく、ちょっと下ろしたところで別に大した足しにはならないじゃねぇかと遠くを見てしまう。なぜ死ぬのにもこんなにお金がかかるのか。資本主義が憎い。

そして父を亡くしたその日に、棺桶がどうの祭壇がどうの、葬儀屋との打ち合わせが夜遅く(いつもなら母がもう寝るぐらいの時間)まで続いたことを思い出し、あれをまたやるのしんどいなぁとげっそりした。本人はもう死んで、死人はこの先ずっと死んでるのになぜこんなに急いで葬る準備をしないといけないのか? と思うが、さっさとしないと死体が腐るのかもしれない。何せあのゾシマ長老ですら腐ったのだから…(カラマーゾフの兄弟を参照のこと)。中でも私が一番嫌だったのは、謎に葬儀に友人を呼ばなくてはいけないような雰囲気(どんな雰囲気?)になったことで、私の友人が父の葬儀に来るのはさも当然のような感じで何人来るのか人数の報告を迫られたので「ご、5人ぐらい…?」と適当に答えると、その人数を招集する義務がその瞬間私に生じてしまったのだった。これが世界で一番陰気なライブのチケットノルマですが、世界で一番陰気なライブのチケットノルマを捌くのを正直もう二度とやりたくないのだった。(でも実際のところ葬儀に友人が来てくれたのはとても助かって、世界で一番陰気なライブに来てくれた友人には本当に感謝しているし、もし今後誰かに葬儀に呼ばれるような機会があれば何がなんでも馳せ参じようと思ったのでした。)

しかし前回の陰気ライブ(父親の葬儀)の時は、お坊さんがお経を上げ終わって退出した後に参列してくださった人がエリック・クラプトンの「いとしのレイラ」をBGMにお焼香していたのが面白すぎて私は笑いを堪えるのに必死だったのだけれど、そう考えると意外と陰気ではなく比較的ポップな葬式だったのかな〜と思い返していたが「いとしのレイラ」でお焼香することになった参列者の人は笑える立場じゃないし本当に気の毒だったなと反省した。母親の陰気ライブのBGMを沢田研二にするかQUEENにするか確認をしておかないといけないな。

そんなことを考えながら私の精神安定剤こと『フラニーとズーイ』を鞄に詰めてタクシーで病院に向かい、道中パラパラとページを捲ると今まで全然気にしていなかった・愚鈍な母親であるベッシーの言動が無茶苦茶刺さってしまってボロボロ泣いてしまう。フラニーもズーイも、どうしてベッシーのことを馬鹿にするのか、ひどいじゃないか。まぁフラニーとズーイに同調していた私もまたベッシーのことを馬鹿にしていたわけだけれど。ここでベッシーのことを蔑視していた自分に気づき、ベッシーを蔑視…となってしまって、私はこういう時にどうしようもないふざけを発揮してしまってとにかく最悪なんだ、もう。

病院について、受付で主治医に呼ばれて入院患者の面会に来た旨を告げると、病棟に電話をして確認を取ってくれる。神妙な顔で確認する受付の人が、困惑しながら「コーラ ×2」とメモしているのが見え、その瞬間 あ、もう母親は元気になったんだなと察して笑ってしまう。さっきまで死にかけていた人間がいきなりコーラをパシらせようとするんじゃないよ。

受付の時点でもう安心はしていたのだけれど、病棟に行くと普通に血圧も安定して喋れるぐらいになっている母親がいて、あらためてホッとする。しばらく面会して、その後面会にやってきた姉曰く「見た感じママはまだ水分があるから、これはまだ死なないと思う、死ぬ直前のパパはもっとカラカラに乾燥していた」と考察していて、確かに死ぬ間際の父親は「剥製に向いてる」とか「すぐ即身仏になれる」とかカラカラに乾燥してるジョークを飛ばしていたし、一理あるような気もして水分って生命の基礎として大事だなと思ったのだった。

2021-09-16_二度めのチャンス

重い腰を上げてなんとか日記を一つ書き上げると、また自分にも日記が書けるような気がしてきたので・この調子を失わないために今日も日記を書く。(すぐに調子に乗る人間)

#いいねの数だけ自分の本棚にある本を記載する やつをやるために自分の本棚(各所にそびえる山を含め)を見て回ったら、あーこの本好きだなぁというものが色々出てきてよかった。リディア・デイヴィスの短編集は他のやつも買いたいと思いつつなんだかんだ『ほとんど記憶のない女』しか持っていないけど、久しぶりにパラパラ捲るとやっぱり良いな。

もし母親を亡くすチャンスが二度あれば、相部屋の誰かがテレビを観ている横で母親が死んでいくようなことがないよう、次は喧嘩してでも個室を確保するべきだと学習する。だが、たとえ喧嘩してでも個室を確保するべきだと学習し、その通りにしたとしても、母親と最後のお別れをしようと病室に入っていったら母親が妙なニタニタ笑いを浮かべていたなどということのないよう、部屋に入る前に入れ歯を正しい向きに入れ直してくれるよう看護婦に頼むことを学習するためにはもう一度母親を失わなければならず、母親の遺骨が、北の墓地に空輸されたときに入っていた素っ気無い段ボールごと埋葬されることのないよう念を押すためには、さらにもう一度母親を失わなければならない。

リディア・デイヴィス「二度目のチャンス」『ほとんど記憶のない女』岸本佐知子訳,白水uブックス,白水社

※ここからは急に暗い話をするので、気分じゃない人は読まない方が良いです。

—————————————-

つい先日、Web会議中に突然母親の入院している病院から着信があって、病院から電話があるなんて急変でもしたのか、少なくとも良いニュースではないだろうと思って血の気が一気に引いた。想像通り良いニュースではなく、昨晩からあまり良くない兆候が出ていて、どうなるかわからないけれど危ないかもしれないというような報告で、そして、万が一心臓が止まった場合、延命措置はどこまでしますか?という確認だった

選択肢としては
 ① 特に何もしない(②③以外でできることはする)
 ② 呼吸補助(人工呼吸器)
 ③ 電気ショックや心臓マッサージなど全部やる
の3つで、私の一存では決められないので姉にも相談して、じゃあ②かなあということで合意を取り(姉も泣いている)、主治医にその旨を電話して伝える。
すると、今はコロナの影響で入院患者は基本面会謝絶になっているのだが、今日はたまたま2人部屋に1人で入っているので特別にこっそり面会できますよ、と言うので仕事を早退してお見舞いに行き、5分だけの面会をさせてもらった。すっかり重症患者みたいになっていたので泣きそうになるが、5分だけだったのでギリギリ泣かないで済んだ(病室を出てから涙が溢れた)。

その後主治医が今後の見込みや治療について説明する時間を設けてくれたのだが、ついさっき②で頼むといった延命措置について、それとなく①がおすすめだよ〜〜〜僕だったら①を選ぶな〜〜〜ってことを、わかりやすく懇切丁寧に教えてくれる。まぁもう末期で、悪いサイクルに入っていて、どれだけ治療を重ねたとしても良くなる見込みはなくて、その状態で②をして仮に一時延命できたとしても根本的な原因となっている病気がどうしようもないんだったらどうしようもない、というのは素人だって理解できる。ましてやこのコロナ禍で、貴重な医療資源をそんな見込みのない患者に使うわけにもいかないよね、とも思う。そんなことが理解できないぐらいこちらが馬鹿だと思っているのか?と思いながら、「じゃあ何もしないでいいです、その時はその時で、死ぬままにさせてください」ということをこちらからお願いしなきゃいけない状況に置かれたことが苦しい。まぁ医者側も勝手にやるわけにはいかないから親族に選んでもらうしかないし、その結果誰にとっても望ましくない選択肢が選ばれてしまった場合には、こうして丁寧に説明して思い直してもらうしかないんだろうね。それももちろんわかるけれど、それにしたってしんどい判断である。

その日私がお見舞いに行く前に、一足早く姉もお見舞いに行っていたので、姉にはこの話したんですか?と聞くと、一応したけど「②でいいんですよね」という説明の仕方をしちゃったから特に姉の方は意見変わってないんですよとのことで、つまり主治医の望むところとしては、私が姉を説得して①に納得してもらい・延命の方針を変更するようにしてほしいということで、ただでさえしんどい判断なのに、そのうえ姉に説明して母親の延命を諦めさせるという謎の任務を背負わされてしまったのだった。マジで一体何なんだ。

後はモルヒネで強制的に”寝かせる”という”緩和ケア”もできますとのことで、そんな安楽死に近いようなことができるんだなぁとびっくりしてしまった(※この先生は延命措置の最初の説明も誤解させるようなものだったので、もしかしたらこれも誤解なのかもしれない)。母親はずっとスイスに行って安楽死したいとか言っている人間なので、本人の意志を尊重したらそれが1番なのかもしれないなと思ったけれど、これこそこちらが「じゃあそれでお願いします」と言ったら積極的に母親を亡くすことになるわけで、そんな殺してくださいに限りなく近いようなこと絶対に言えないだろと思う。本人の意志だけじゃできず、家族の了承がいるというような話だったけど、これ本人が望んでも家族は拒否せざるを得ないだろうし、難しい仕組みだなと思った。というか何で本人の意志だけでできないんだよ。勝手に死なれても悲しいけど、家族の了承が必要な意味がわからない気もする。家族がいない人・家族と疎遠な人はどうするんだ。

というかこの話を聞いて、父親も最後はモルヒネの持続皮下注射をしていたのを思い出し、もしかしてこれと同じことだったんだろうか??と思った。そしてその時母はそれをOKしたということなんだろうか。当時私はその意味がわかっていなくて、父親がモルヒネの皮下注射をする場にちょうどお見舞いで居合わせていたのだけれど、それが父親と言葉を交わす最後の機会になると理解していなかったんだよね。いつもと変わらない、普通の感じでじゃあまたね〜と病室を後にして、確かそれが最後になった。そういう意味で、あぁこれは親を亡くす「二度目のチャンス」じゃん、と思った。

なんか重い話をこんなWeb上に公開する日記で書くなよ〜という気もしたけれど、親を亡くすチャンスは人生に基本2回しかないと思うので、こうして起き得る一つのパターンを公開しておくことで、これを読んだ誰かが似たような形で親を亡くしそうな時に、ぶっつけ本番で戸惑ったり後で後悔するようなことにならないように、少しでも学びになるようなことがあればいいんじゃないかと思ったのでここで書いてしまう。そして未来の自分のために。

とは言ったものの、私が前回の父親を亡くした時の反省を生かせているかというと非常に怪しく、パターンも異なるので結局「二度め」として「うまくやる」ことは不可能だ。きっとまた判断を間違えて、後悔しそう。とりあえず母親は持ち直していったん今は元気そうにしているけれど、今後の治療の話をチラッとしたら感情的なつらいLINEが来てしまったのでどう返したら良いか困り果てていて、早速間違えてしまったなぁと頭を抱えている。人生に「二度めのチャンス」は二度とない。

2021-09-15_生活という薄鈍

一度失った習慣を取り戻すというのは、新たな習慣を身につけるより難しいような気がする。私は習慣化できたかに見えた「日記をつけること」「早朝にウォーキングすること」を早々に手放してここ数ヶ月一体何をしていたのか。前回日記を書いたのが4月末…5月の誕生日にはまた抱負でも書き出そうと思っていたのに気づけば初夏を通り過ぎ、夏も終え、虫の声が涼やかに響く秋の夜である。

最近うちのめされるような出来事が続き、落ち込んでいたのだが過去の自分の日記を読み返すと思いの外愉しくて元気がもらえ、え〜〜自分の新作の日記が読みたい! なんと自分が書きさえすればすぐに読める!と思ったので久しぶりに日記を書くことにした。贈与日記、誰に対する贈与かというと結局のところ未来の自分に対する贈与の様子。地産地消で環境にも優しい!

私はなんだかんだ家庭の事情やら人生のタイミングやらで家を出るタイミングを逃し続け、母と猫とW2C2(女が2人・猫が2匹)で暮らしていたのだが、最近になり母の入院する期間が延びていくにつれ、W1C2の構成で過ごすことが増えた。前はW-Cの2ペアで安定していた分子構造が、CがWを取り合う形になり若干の不安定さがある。猫たちに取り合われるのは満更でもないのだが。
※この人間と猫の分子式は、『女ふたり、暮らしています』で見たやつ。これマジで良い本で、なぜ私はこれができないんだろう(できないのか?)と震えた。

実家暮らしという環境に甘えに甘え、今の今までほとんど料理というものをしてこなかったけれど、やむにやまれず毎日料理をしている。

私はもともと「食べること」を考えるのがすごく苦手で、なんなら毎食ぬか漬けと納豆ご飯で良いという人間である。「食べたいもの」があまり思い浮かばないし、食事について考えることに時間や労力を使いたくない。「料理を作る」といっても、食べたいものがないのだから作りたいものも当然浮かばない。食材や調理法の組み合わせなんて無限大だし、選択肢が多すぎる。さらにそれを献立として組み立てないといけない。これはとても仕事終わりで疲れてる時にできることではない。1日3食を7日間、それを永遠に考え続けるなんて拷問だ、辛すぎる。と思っていたが、やらなきゃいけないので自分でもやれる形を考えてやることにした(聡明な女は料理ができる!)。

そもそもの始まりは2021年、完全在宅勤務のおかげか人生最重量級のウェイトになってしまい、流石に危機感を覚えたので年始の抱負に「5kg減」を掲げ、パートナーにあすけんの女を迎えて食事をちゃんとすることにした。これは食べたものを入力していくと摂取した栄養をグラフにしてくれるので、たんぱく質・脂質・炭水化物のバランスと、ビタミン・ミネラルなどの栄養素が足りてるかどうかがパッとわかる。なので純粋にPFCのバランスをうまくとって、できるだけすべての栄養素の基準値をクリアすることを目標に食事を組み立てていくことにした。買い出しの回数を最低限にしたいという要請と・食べたいものがあまり浮かばないことを逆手にとって、週末時点で1週間分の献立をまとめて大体作ってしまい、月曜の早朝の空いているスーパーで1週間分の食料を買い込む。週後半まで持たせるために適宜冷凍を活用しつつ、粛々と食材を使い切る…。スタート直後はレシピ本・料理本を何冊も読んだりして、かなり時間と労力を使ったけれど、だいぶ運用がこなれてきたので日記を書くような余裕も生まれてきました…!!素晴らしい、偉人なのか?

まあこんなこと一人暮らしの人は今まで当たり前にやってきたのかもしれないけれど、食に興味が薄く/料理赤ちゃんの私はこんなことが自分にできるなんて…とここ最近はかなり全能感が湧いてきたところ。意外と楽しいしうまくできると嬉しいので、日々食事を作り、猫の世話をし、仕事と家事を滞りなく済ませるだけで割と満足してしまう。これは(私にとって)かなり悪い状況です。

睡眠をとり、食事をして、体を休める。起きていれば眠くなり、時間が経てば腹が減り、毎日何度かはトイレにいき、他人が煩わしくなれば自分のスペースにひきこもる。全て受動的だ。避けがたい必要性を充足することができてはじめて私たちは受動性を退け、「分析する私」となる。難民になっても学問は続けられると断言する学者を、私は容易に信用しない。学問は主に暮らしへの埋没を回避できる人々によって営まれてきたし、そうであるからこそ、学問的な知は暮らしを言語化するのに向いていない。

久保明教『「家庭料理」という戦場 暮らしはデザインできるか?』コトニ社

この本がかなり面白くて、1960年代から現在に至る家庭料理をめぐる諸関係の変遷を、これまでに刊行された料理研究家によるレシピ本を収集して実際に作りながら、分析していくという…内容も面白いし、そして小林カツ代と栗原はるみをそれぞれ「カツ代」「はるみ」となぜか終始親しげなファーストネーム呼びで真面目な議論を展開していくところがとても良かった。この人の本は初めて読んだけれど、もともとブルーノ・ラトゥールのアクターネットワーク論の本なども書いている人で、アクターネットワーク論の本を読んだ後でまた読み返すと、確かにそういうアティチュードで取り組んでいるのだなというのがわかる。アクターネットワーク論については、前に聡明な友人が「アクターネットワーク論がわからないんだよね…」とこぼしていたが私はそもそもアクターネットワーク論を知らなくて、ハハァ、そうなのかと思っていたものですが、ここで満を辞して登場してきたのだった。

それはともかく、生活に埋没してしまうとと生活とおよそ関係のない抽象的なこととかに思いを馳せたり思考を巡らせたりしてる余裕ないよね、というシンプルな話でした。とはいえ生活は、生きる活動は思考の土台なのでやらねばならず、とにかく家事の熟練度を上げて効率化し・家事に割くリソースを削減していくしかない。と割り切ってやってけば多分良いんだけど、前よりは薄まったかもしれないが(?)「丁寧な暮らし」を営まなければいけない圧、というか、衣食住ちゃんとしなきゃ的圧みたいなのもあるわけで。しばらく前に流行ってた『クィア・アイ』も、何話か見たけど「部屋をきれいにして・身嗜みにも気を使って・美味しい料理も作れるようにならないとハッピーじゃない!」みたいな感じが厳しかった。それらにリソースを割かないという選択肢のハッピーさも認めて欲しい。

という気持ちで(環境に恵まれていたのもあって)食事や料理にリソースを割かないという選択をしてきたのに、ダイエットというこれもまた「身嗜み/ルックスを良くしなくては」という要請に応えるために、結果的に料理にも真面目に取り組むようになってしまい、無視したいはずのものに結局引きずられる形で普通にちゃんとした感じになってきてしまって罪悪感を抱いている。

この状況は、公益を私益に優先し、健康を国民の義務としたナチスにとって都合がよかった。健康な兵士と、それを産む母を量産するためには、食を通じて国民の健康を管理しなくてはならない。それは、あいまいな言葉でしか語れない食の感覚を頼りにするよりは、数値化された栄養素と濃縮されたブイヨンによって台所を満たしたほうが、はるかに至便である。

藤原辰史『[決定版]ナチスのキッチン 「食べること」の環境史』株式会社共和国 p300

料理本関連で読んだ『ナチスのキッチン 「食べること」の環境史』(料理本関連?)も面白くて、ドイツにおける台所の変遷を軸に、家政学やレシピ、そしてナチスがどう家庭・食事に介入してきたか、、というのを知れて良かったのだけれど、今私がやっていることってまさに「数値化された栄養素」で料理をやってるので、これはこれで面白くないのだよな。やっぱり人間として不合理で無茶苦茶な食生活をする権利が認められるべきだし、それを主張するために私もそれを実践すべきである気がしてくる。しかし、そうすると太ったり、醜くなったり、健康を害したりする…というジレンマ。けして「太っている=醜い」とは思っていない、と思っているけれど、結局のところそこから抜け出せてないのかもしれない。

あーあ! 美しくなりたいけど美を追い求めたくないし、健康を維持したいけど健康になりたくないし、変なものを食べたくないけど変なものしか食べたくないし、素敵な暮らしをしたいけどしたくなんかないし、全てを効率化したくなんかないけど無駄な時間や労力を使いたくないよ。ソイレントだけ摂取して生きたい気もするけど、そんなのも絶対に御免なんだよ。

「祝福された摂取を!」と『魔の山』のサナトリウムの院長がよく言ってるらしいので、今こそ『魔の山』をちゃんと読み終えようかな。

2021-04-28_いちばん赤い薔薇

ここ数ヶ月私を苦しめていた英会話レッスンをようやく今日で終わらせることができた。記念すべき最後のレッスンには勿論、私が去年バカみたいに熱をあげていた彼を指名した。最後のレッスンだから今更テキストをやるというのもバカらしくフリートークにしたけれど、特にこれといって話したいこともなかったので謎に列車についてあれこれ話していたら時間が終わった。「See you soon!」だってさ。

しかし今になって私はとても寂しくて、それはこれから先おそらく彼にはもう会うことはないだろうということではなくて、あんなに好きだった人が好きな人でなくなってしまったこと、目の前で机に突っ伏して泣きたくなるぐらい好きだったのに彼の顔を見てももう何とも思わないこと、嵐のようだった感情が去ってしまったこと、そしてこの先彼のこと/彼に関する思い出をどんどん忘れてしまうだろうこと、そんなことは分かりきったことで・覚める前から知っていたことだけれど、それでも寂しく、とても悲しい。

恋愛というものは常に一時の幻影で、必ず亡び、さめるものだ、ということを知っている大人の心は不幸なものだ。
若い人たちは同じことを知っていても、情熱の現実の生命力がそれを知らないが、大人はそうではない、情熱自体が知っている、恋は幻だということを。

坂口安吾「恋愛論」

お前はまたすぐにそうやって坂口安吾の恋愛論だな??という感じだが、分別のある大人なので恋が始まるや否や/いやむしろ始まる前から/というか常にこのことを考えてしまう。こんなことはわかっているから、情熱的な恋愛感情を抜きにして良い関係を築けるような人と長く安定した付き合いをしたいものだと思っていたのだが、私はまた馬鹿みたいに恋愛に夢中になっているという有様です。はは、馬鹿は死ななきゃ治らないので仕方がない。

去年恋愛に思い悩んで『パイドロス』を読んだ時、始まりの論調は「恋している人間は狂人だから、むしろ恋していないまともな人間と付き合うべきである」という内容だったので本当にそうですね〜〜と反省を促されてよかったのだが、ソクラテスが突然それを全否定して「神から授けられる狂気は、人間から生まれる分別よりも立派」と主張し始めるので当時は頭を抱えてしまったのだが、神由来のものの方が愚かな人間の限界ある理性を働かせて捻り出したものより良いものであるというのはまぁ確かにそうなのかもしれない。『パイドロス』適当に読み返してたら肉体のことを「身につけて持ちまわっている汚れた墓」呼ばわりしてて笑ってしまった。私は墓に滅法弱くて、レトリックに墓を持ち込まれると本当に笑ってしまうんですよね。(ティーンエイジ墓場パーティー、墓のようなコーヒーなど)

スウェーデンの漫画家リーヴ・ストロームクヴィストの『21世紀の恋愛』を昨晩読んで、なぜ現代において恋愛をすることが難しくなってしまっているのかフェミニズム的な視点から考察されていて非常に面白かったんだけど、これでも要は「恋愛とはそもそも狂気なので、条件に合う人を探すというマッチングアプリのような合理的な方法では難しいですよね」という話をしていて、やはり紀元前からそれを見抜いていたソクラテスの慧眼ぶりには目を見張るものがありますね。ところでルー・ザロメが「ニーチェを狂わせたという功績でこの本の導師となっている)と紹介されていて、前に読もうかな〜と思っていたこの本でも読もうかなという気になった。

19世紀の男らしい振る舞いは、強い感情を感じてそれを表現できること、誓いを立てて身を固めることを躊躇わないこととあって、例としてマンの『ブッデンブローク家の人々』の間抜けで情熱的なプロポーズシーンが紹介されてておかしかったのでこれも読みたいが、その前にお前は『魔の山』を読破しましょうね。
それにしても日記をつけるというのも19世紀の男の典型らしいので、かなり私は19世紀の男らしさを体現しているのではないかという気がしてきたのだった。

2021-04-03_刺青女

「ときどきここにごろりと寝ころんで、そのまま静かに死んでしまいたくなる」

J.D.サリンジャー『フラニーとズーイ』村上春樹訳,新潮文庫,新潮社

気分が落ち込むと大体『フラニーとズーイ』を読むのだが、今回についてはそもそも気分が落ち込んでいたのか、メンタルの不調とは関係なく別の用事でフラニーとズーイに手を伸ばしたのかよく覚えておらず、あまりにも今までフラニーとズーイに助けを求めてきたので・パブロフの犬ライクにフラニーとズーイを読むと反射的にメンタルが落ち込むような気もしてきた。因果関係が逆転しているのではないか。きっかけがなんだったのかはすでに思い出せないが、ともかく私はまたフラニーとズーイを読んでいて、ただごろりと寝ころんで、そのまま静かに死んでしまいたいと言うズーイに同調していた。

感情というのはいつも新鮮で、今まで何度も死にたいような気持ちにはなってきたはずなのだが、それが訪れる度に不思議な気持ちになる。感情が新鮮というより、ただ単に私の記憶力があまりにも当てにならないだけでは?と思ったけれど、感情というのはそもそも記憶に残りづらいものなんじゃないだろうか。最近感情史(感情史って何?)が流行ってる(流行ってるの?)みたいな話もあるし、感情史も勉強したいなーーあーーーあ、時間がない。

しかし最近はメンタルの多少の乱れや落ち込みがあっても「死にたい」と思うことや、ましてや言うことは少なくなったよなと思い、自分のTwitterに言質を取りに言ったがやはり2017年ぐらいを最後に「死にたい」とは言っていない様子だった。「死にたい気持ち」はあったが、それは「死にたい」ではないのでノーカウントです。2017年以前もそもそも数えるほどしか死にたいと言ってなかったので意外と健康じゃんと思ったけど、おそらく父親が死んでから意識的にこの言葉を口にしなくなったんだろうなと思う。実際にじわじわと死に近づいていく人間をずっと側で見ていて、死ぬことはこんなにも険しく惨めなことなのだというのを目の当たりにしてから。

まぁそれはそれなりにそれっぽい理由だが、私がこの世に存在していることについてどう感じるか・どうしたいかは本来私の問題であって、いくら父親が死んだからと言ってそれによって自分がある感情を抱くこと・それを言葉にすることを禁じるというのもそれはそれで妙だとも思う。でもそれを禁じたのもまた私なのだから、数年間喪に服す意味で禁じていたけれど、三回忌もすぎたしそろそろ解禁してもいいかというノリだろうか。それが解禁されたからと言って特に華々しくパァッと何かできるわけでもなく、せいぜいが「ときどきここにごろりと寝ころんで、そのまま静かに死んでしまいたくなる」という文章を堂々と引用することができるようになる程度である。

こうして日記を書くようにしていることもあってか、最近は自分の加害性をすごく反省している。これはまた別の時に書きたいと思うけれど、思うところあってケイト・ザンブレノの『ヒロインズ』を少し読み返していて、「書く」人間の加害性というか、書くことによって人を傷つけるということを考えていた。まぁそもそもデリダが言うには「書く」と言う行為自体が暴力なので、何について書こうと根源的な暴力からは免れえないので「自分が言説として暴力的であることを自覚した言説、『最小の暴力として選び取られた』言語を持って戦わなければならない」(高橋哲哉『デリダ 脱構築と正義』)のは当たり前体操だったのだわ(やっぱりデリダ、100人乗っても大丈夫!)

加害性の話に戻すと、先日の京都旅行で感じた「寂しさ」の原因を検討していて、端的に言い表すと「恋人が私と同じでないのが寂しい」ということだった。

1. 恋人がわたしと同じものに興味を持たないのが寂しい
2. 恋人が「恋人の好みに合うもの」にしか興味を持たない様子なのが寂しい
3. 私はたまたまあなたの「好みに合う」人間だったからあなたは興味を持ったが、あくまであなたは自分の好みに合う部分の私にしか興味がないのではないか(仮説)
4. 「言いたいことは理解したが、そんなことはない」と否定される
5. (あなたの行動を見ている限りそのように見えるし、自分が興味を持っていない部分があるということ自体を認識できていないのではないか?)と思う
6. 寂しく思い、そしてこのような非難をした己を反省する

言いがかりも甚だしいが、自分が何に寂しさを感じているのかについて言語化はできて満足した。けどこれってかなり暴力的な話だよなと思ったのだった。

「僕らはフリークだ。まさに畸形人間なんだよ。あのろくでもない二人組が早いうちから僕らを取り込み、フリーク的な規範をせっせと詰め込み、僕らをフリークに変えてしまった。それだけのことなんだ。僕らはいわば見世物の刺青女(タトゥー・レディー)であり、それこそ死ぬまで、一瞬の平穏を楽しむこともできないんだ。他の全員が同じように刺青を入れるまではね。」

J.D.サリンジャー『フラニーとズーイ』村上春樹訳,新潮文庫,新潮社

フラニーやズーイに共感するのは色んな意味で恥ずかしさもあるのだが、自分の「相手に自分と同じようになって欲しい」という欲望とそしてそれが叶わないと感じた時の寂しさはまさにこれだよなと思った。それこそ死ぬまで、一瞬の平穏を楽しむこともできないんだ! 私の「死にたい」を穏便に言い換えると、つまりは「平穏が欲しい」ということなのかもしれないな。これは『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のホールデンが求めていたものにも近いような気がしますね。(この世には平穏を楽しめる場所などはなく、いつも誰かがやってきて「Fuck」とか壁に書いて台無しにしてしまう)

ちっぽけな自我! 知っているさ、あいつは親しみ深く、忠実で、鼻息が荒い。まさにそれがあいつだ。だが、この老いぼれ犬は、もう真面目に扱われたいとは思っていない。せいぜいあいつは、自分のいたずら心を満足させるように、むしろ物語の犬のような多少とっぴな姿になりたいと思っていて、まさに不幸な日々には、犬の亡霊の姿になる方がましだと思っているのだ。

ジョルジュ・バタイユ『有罪者』江澤健一郎訳,河出文庫,河出書房新社

あと自分の「死」に関するツイートをdigっていたら当然バタイユが出てきたので、バタイユぱらぱら捲ってたら目当ての文章以外もすべての文章が良くて全く関係ない文章を引用します。しかしバタイユは好きな文章が多すぎていつも微妙にズレた文章を引用してしまっている気がするな。「死にたい」の穏当な言い換え、あるいはより正確な表現として「犬の亡霊の姿になりたい」も良いなと思ったのだった。

2021-03-29_嫉妬と夢女子

金曜日に有休を取っていたので、彼氏とどこか近場で日帰りか/車で行ける範囲で1泊の旅行に行こうと話していたのが直前になって突然京都になった。桜が満開であろうタイミングだし、どうせ新幹線も宿も埋まっているだろうと思いきや意外と空いてそうだったので思い切って足を伸ばす。あらゆる寺の入り口に「満開」と貼り出されているぐらい本当に桜が満開だったのだが、その割ぜんぜん空いていたのでかなり奇跡的な京都だった。

彼氏は大学時代を京都で過ごしたせいで京都を我がものだと思っている節があり、日頃からことあるごとに京都マウントを取ってきて不快である。しかし実際に一緒に京都に行ってみると、いつもはあまり話してくれない/ややわざとらしく響く関西弁も自然に聞こえるし、いつもより落ち着いていて街に馴染んでいるように見えた。やはりルーツがこちらにある人間なのだなと思った。そのせいなのか、旅行中何度も妙な寂しさが私を捕らえた。

もし、きみが、幸運にも、青年時代にパリに住んだとすれば、きみが残りの人生をどこで過ごそうとも、それはきみについてまわる。なぜなら、パリは移動祝祭日だからだ」というのはかの有名なヘミングウェイの『移動祝祭日』の一節ですが、おそらく京都で学生時代を過ごした人間にも同じようなことが言えるのだろうなと思う。京都ってパン屋は全部 boulangerie だし、本当にパリぶってるよね。両方好きだけど。

自分は嫉妬をするのが意外と好きなのだと最近気がついたけれど、京都に関して言えばいちいち過去に対して嫉妬をするには対象が膨大で、途方もなく、圧倒的な移動祝祭日を相手にするのはいささか分が悪いので、私のやきもち焼きははなから撤退戦の様相を呈していた。しかしそれはそれで当然寂しいもので、彼の通っていた大学や昔住んでいた付近を散策しても、そこにある物語がわからなければ私にとっては味気なく、同じ場所にいながらお互い全く違う風景が見えているだろうことだけが感じられて、隔たりが現れ、なんとなく虚しい気持ちになった。

「嫉妬」について前に書いたとき、「妬み(Envy)は誰かが持っているものへの欲望であり、嫉妬(Jealousy)は自分が持っているものを失うことへの恐怖である」というのを読んで、私は「妬み」の方は感じないなぁなんて呑気に書いていたけれど、過去に対する嫉妬というのはまさに「相手が持っているものへの羨み」であって滅茶苦茶ストレートに妬みじゃんな。これだから自分の目の中に丸太があるのは困るんですよね。。認知〜! しっかりして〜!

しかし「嫉妬が好き」ということがどういうことなのかもう少し掘り下げてみると、これはおそらく私の「夢女子」精神から由来しているものなんですね。腐女子というのはキャラクター同士をカップリングして関係性を楽しむものですが、夢女子というのは自分とキャラクターをカップリングして楽しむ嗜好のことです。「自分」とのカップリングと言っても、より正確に言えば「自分が感情移入をして楽しむオリジナルのキャラクター」と好きなキャラクターのカップリングであり、夢小説(※登場人物の名前を変換して読む小説)を読み漁るという行為は、好きなキャラクターが様々なタイプの人間と・様々なシチュエーションで・様々な関係性をもつのを楽しむということなんですよね。そこにあるのは無限の可能性…。
で、これがどう「嫉妬が好き」と結びつくかというと、要は自分の好きな男が様々なタイプの人間と・様々なシチュエーションで・様々な関係性をもつのを見たいという欲望から来ていると考えられるんですよね。自分と好きな男の関係性は基本的に1つのパターンしかないけれど(※謎の設定の上で茶番劇をやるのは、その固定的になりがちな関係性をずらしたり・ひっくり返したりできるのが楽しい)、私ではない違う人間に対して、この男はどんな顔を見せるのだろうか? というのを知りたいのだよな。嫉妬深いくせに好きな男の過去の恋愛話を聞きたがるのは、こういう悪趣味な楽しみがあるからなのだとこれも最近気づいた。さらに私の悪さを白状すると、過去の話を聞いた後・そのまま「もし、それが私だったら」というifの物語を展開して登場人物を挿げ替えて再上演しようとするところ。これは本当に悪い趣味だと思います。

京都旅行中に感じた妙な寂しさについてずっと考えていて、帰ってきてからもバルトの『恋愛のディスクール・断章』のページを久しぶりに捲っている。今日ももっと「寂しさ」について書こうと思ったのに嫉妬と夢小説と私の悪い趣味の話になってしまった。でも「欲望」というのは往々にして不都合なものだし、自分が何を求めているのか知らないままでいるよりはずっといいと思う。知らなければ折り合いをつけることもままならないので。

性欲が私について教えてくれることは、必ずしも私の気に入るわけではなく、私がそうありたいと願うあり方と常に一致するわけでもない。それでも私は、私の性欲について知りたい。安全な社会的イメージを保つために目を背け、自分について知っていることを否定する代わりに。

ヴィルジニー・デパント『キングコング・セオリー』相川千尋訳,柏書房

2021-03-22_必要になったら電話をかけて

いつも三日坊主のわたしにしては継続できていた日記だが、ちょっと油断したら1ヶ月ほど余裕で書いておらず魂消た。これはほんとうに魂が削れた感じがするので、たまげたを漢字で書くのが相応しい事態であると思う。Time flies.

どんなにくだらないことでも何かしらを書いていないと、後から振り返った時にひどく空虚な日々を過ごしてしまったような気がしてしまう。その時の真っ只中にいるときはとても幸せで、満ち足りているからこそ「何かを書かなければいけない」というようなある種強迫的な必要性にも駆られず生きていられたのだろうけれど、やっぱり私は苦しくても・痛くても・不十分でも・偏っていても・意味がなくても、この世に爪を立てて生きたいし、せめて日記ぐらいは書きたいと思う。

この世に生きたすべての人の、言語化も記録もされない、本人すら忘れてしまっているような些細な記憶。そういうものが、その人の退場とともに失われてしまうということが、私には苦しくて仕方がない。どこかの誰かがさっき食べたフライドポテトが美味しかったことも、道端で見た花をきれいだと思ったことも、ぜんぶ宇宙のどこかに保存されていてほしい。

岸本佐知子『死ぬまでに行きたい海』スイッチ・パブリッシング

『死ぬまでに行きたい海』の単行本は買ってまだ読めていないのだけど、この文章は『MONKEY』の連載で読んだ時からずっと心に残っていて、わたしがこうして日記を書くのもささやかな保存の試みの一つなのだ。しかし紙に書かれた日記なら物理的に損傷しなければ数十年ぐらいは保存できるだろうけれど、数多あるブログサービスが数十年後続いていることは考えにくい。実際すでに多くのサービスが終了して・そのまま失われてしまった個人サイトや個人ブログが大量にあるわけで、わたしはそれもとても悲しい。サービスが終了しても本人が健在でやる気があれば、ごそっとデータを持って引っ越せばいい話だが、そのまま打ち捨てられるものがほとんどだろう。そして本人が死んだ後なんてなおさらどうしようもない。自分が死んだら全部削除してほしいという人もいるだろうし、そこは当人の意思を尊重すべきだろうけれど、それにしたってわたしは誰かが生きた痕跡が消えて無くなるということが耐えがたく悲しい。デリダも彼にとって慰めようのない喪失とは「記憶の喪失」であり、最も深い欲望は「記憶を保持すること」だと言っていて、(高橋哲哉『デリダ 脱構築と正義』)わたしがデリダを好きな大きな理由であると思う。

痕跡の抹消の経験から欲望されるエクリチュールは、しかしそれ自身、純粋な固有性、唯一性、特異性を抹消する働きである。記憶は忘却の犠牲のうえにしか生き延びることはできない。記憶の約束は、エクリチュールの書きこみによる特異性の焼却(incinération)の灰の上ににのみ、残ることなくして残る。アポリアとしての記憶、エクリチュールのダブル・バインド、あるいは「名のパラドクス」。こうしたアポリア、ダブル・バインド、パラドクスこそ、記憶、伝承、約束、反復、歴史といったものの可能性の条件である。

高橋哲哉『デリダ 脱構築と正義』講談社学術文庫

今日は久しぶりに仕事で電話をする予定があったのだけれど、わたしは電話をするのが本当に嫌いで、電話がかかってくるはずの時間の少し前から動悸がして無駄に部屋をウロウロしてしまい、こんなに電話が嫌いなのによく営業ができてたな…と過去の自分を尊敬と憐憫と(そんなに向いてないことをするなよ)という呆れの気持ちで眺めてしまった。どうして私はこんなに電話が苦手なのだろうと悩んでいたのだが、先日、昨年の誕生日に友人がくれた『カタストロフ前夜』をようやく読んで、その中の「声は現れる」というテキストを読んで腑に落ちるものがあった。

生きている限り別の人にじかに触れることができる肌を除いては、ただ声のみが、音の波として発され、じかにわたしたちの鼓膜に触れ、耳を温めることができる

関口涼子「声は現れる」『カタストロフ前夜』明石書店)

「電話が嫌い」といっても、長電話をする夜は幾度もあったわけでその表現は正確ではなく、「親密でない相手とする電話が嫌い」というのが正しい。私は電話を大変エッチな行為だと思っている節があり、貞淑なわたしが電話をする相手は必然的にほぼ恋人に限られる。無意識だったけど、電話をすること:声を耳元で聞くことは、その人によって「触れられる」ことなのだと思えばわたしの感覚もあながち間違っていなかったんだな、と納得してしまった。以前マッチングアプリでマッチした比較的気があって話が盛り上がった人から「電話しませんか」と提案を受けた時も、(会ったこともないのに電話…??セクシャルすぎる…)と思い丁重にお断りした。肉体関係もない人間と電話なんてちょっと…ねえ。そう思いません? 

わたしはデリダ・ファンだしパロール(声)よりエクリチュール(書き言葉)を、現前より痕跡を擁護したい人間なのだけど、「声は現れる」の「大切な人の声を録音してください」というメッセージはすごくグッときたし、すべてを保存したい欲望を持つわたしがなぜそれを今までしてこなかったのか、とショックを受けた。声はいつでも「現在」に現れる、その人が今いなくとも・その声は「今」わたしの鼓膜を撫でることができる。現前ってすごい。パロール中心主義者になっちゃおっかな、と思ったけど、声を聞きたい人は限られすぎるし/性的に奔放になれないわたしはこれからも基本的にエクリチュールを辿って生きていきますね。

2021-02-08_手探りで愛す

しばらく日記を書いていなかったので久しぶりにwordpressにログインしたところ、このタイトルだけが埋められた真っ白な投稿画面が開かれており面食らってしまった。2月8日にわたしは何を書こうとしていたんだ? まったく記憶にございませんね、、と言いたいところだが私は不誠実な政治家ではないので、思い出せる限りのことを書いてみる。

秋の終わりに恋人が突然できてから、どうせ自粛生活で出かける当てもない私は毎週末を恋人と過ごしており、人間の三大欲求を順繰りに満たしていくようなことを繰り返している。どこかに出かけるとか/何かをするとか、特筆すべきようなことは基本的にないので(最近は公共交通機関を使わず/外食はせず/短時間でサクッと帰るという条件で多少出かけたりはしているものの)こうして後から振り返るとその週末に何をしていたのか全然思い出せなくてなんとなく寂しくなる。そういう記憶からこぼれおちやすいちょっとした会話の内容とか、怠惰な午前中の光とか、何で笑ったのかとか、未明に一人起き出して残されたときの悲しさとか、そういうものこそ覚えていたいのに、書き留めていないと全てがあっという間に遠ざかっていってしまうし、書いた時点でどうも何か違ってしまうということもまた確か。でもお前が私に桃鉄でしたひどい仕打ちのことは絶対忘れないからな、覚えてろよ。

人と交際するのがかなり久しぶりなのと、人と出会う➡︎(仲をつめる)➡︎交際する➡︎(いろいろある)➡︎別れる というプロセスを繰り返すのにほとほとうんざりしているので、この恋愛をだめにしたくない一心で(※今までだって毎回だめにしたくない気持ちで私なりに真剣に取り組んできてはいたのだが)過去の失敗やら自分の行動やら気持ちの動きやらを分析しつつ、相手を観察したり考えを聞き出そうと適宜インタビューしたりしている 。その一環で、「愛したいタイプか、愛されたいタイプか。あるいは今まで(相手に愛されるより)愛してきたか、(相手を愛するより)愛されてきたか」という話をした時、己の傲慢さを恥じながらも割と堂々と「愛されてきた」と豪語するので笑ってしまい、わたしもまた傲慢なので「私も愛されてきたし、相手の好意にずっと胡座をかいてきたので正直なところ人の愛し方がわからない」と即座に乗っかったところ「僕は最近わかってきた」と言うので(最近わかってきたのか…)と思いつつ「私はかなりいま手探りで愛している、愛そうとしている」と白状した。愛し方がわからないので手探りで愛する というの、我ながらかなり良くないですか? 実際にそれが成功しているかはさておき…。

こんな風に時折、わたしは自分がすごく根本的な部分で(世間一般の通念と比較して)間違えていることを発見してビックリするし納得するのだが、最近気づいたこととしては私は「嫉妬する」のが割と好きなんですよね。それゆえ、相手にも嫉妬してもらおうと思ってわざと嫉妬させるようなことを(親切心で)言ったりしていたようで、行動の原理はきわめてキリスト教的な「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」(マタイによる福音書7:12 新共同訳)に則っていて善意と言っても過言ではないのだが、一般的には嫉妬は好んでするものではないので普通に迷惑である。恋人にも「※一方僕は嫉妬が趣味ではないです」と注意書きを入れられたので笑ったし、普通に申し訳なく思いました。

今日たまたま本棚にあった GATHER JOURNALの”SIN”特集の号 が目に入って、パラパラと読んでいたんだけど、(七つの大罪って英語で “Seven Deadly Sin” って言うんですね、すごい致命的じゃん。)”Envy”の項で Envy と Jealousy は違うものなんですよと書いてあって へぇ〜と思ったので引用。

While used interchangeably in our modern vernacular, envy and jealousy are not in fact one and the same: Envy is the desire for something someone else has, while jealousy is the fear of losing something you have.

GATHER JOURNAL VOL 6, ISSUE10: Winter 2017 , P83

「妬み(Envy)は誰かが持っているものへの欲望であり、嫉妬(Jealousy)は自分が持っているものを失うことへの恐怖である」
日本語の「嫉妬」はEnvy の意味でも使われるけれど、わたしはあまりEnvy は抱かないので(少なくとも抱かないと思っている)私が趣味と言っている嫉妬はひとえに Jealousy のことなんですね。とわかってなんとなくすっきりした。

Gather Journal は一応料理雑誌なので、特集のテーマが “Sin” でもそれにあわせたレシピを用意してくれていて、Envyのところでは Green with Envy cake with mocha buttercream というケーキが載っていて、シェイクスピアが嫉妬を緑色と結びつけていたのは知っていたけど Envy も緑なのか? それともシェイクスピアの時代には Jealousy とEnvy はもっと互換性があったのか? と思ったらちゃんと解説が付いていた。シェイクスピアよりもっと先に、なんとサッフォーの時代にも嫉妬は緑色だったらしい。(※正確に言うと、妬みは過剰な胆汁を発生させ、肌に緑がかった色を与えるとされていた)

Turning green with envy can be traced to the poet Sappho who used the color to describe the complexion of a forlorn lover (ancient medicine theorized that envy produced excess bile, giving skin a greenish cast). Years later, Shakespeare would tie the color to the vice in three of his works (Merchant of VeniceAntony and Cleopatra, and Othello), cementing its envious association.

GATHER JOURNAL VOL 6, ISSUE10: Winter 2017 , P93

『オセロー』というと、私の朧げな記憶によるとオセローが嫉妬に狂って妻を絞殺するきっかけになったのが確かいちご柄のハンカチで、いや流石にいちご柄のハンカチってファンシーすぎるし絶対私が『いちご100%』とごっちゃにしてるだろ、本当は何かの刺繍が入ってるぐらいのハンカチだったんだろ? なんだったんだ? と思って今日久しぶりに読み返したら本当にいちご柄のハンカチーフだったので『オセロー』は正真正銘17世紀の『いちご100%』でしたね。シェイクスピア天才すぎるだろ。

2021-02-05_路上

先週の金曜日も「ヨーシもうこの続きは来週気合い入れてしっかり働こ!今日はもう週末を始める!!」といって早々と終業した気がするのだが、全然週が明けて月曜日になっても気合いが入ることはなく、同じように「ヨーシ来週がんばろ!」と言って今週も終業した。やる気が行方不明だからいい加減ブルシット・ジョブでも読もうかな。デヴィッド・グレーバーといえば、私の大好きなベル・フックスからも影響を受けていると聞いて意外だったんだけど、どの著作ならその影響を窺い知れるんだろうか。

今週は、今一番面白い雑誌こと『福音と世界』の2月号「惑星の蜂起」特集を読んだ。政治を「語る」ことは、統治する者と同じ言語を使うことは、支配する側と同じ視点を内面化することにつながっていないだろうか。ある目的達成のために手続きを踏み、合理的に物事を進めていくことは、新たな別の「体制」を作るだけなのではないか? …おやおや、これもまた滅茶苦茶バタイユが唱えていたことっぽいですねえ。(いつでもバタイユのことを想う人間)

秩序立った言葉や図像は、気づかぬうちに少しずつ自然全体を有益性に従属させている一体系の、われわれの内面における継承者であるのに、その言葉や図像にまで不服従の姿勢が及ばないのだったら、その不服従は、単に外的な諸形態(政府とか警察のような)への拒否ぐらいに留まってしまう。現実の世界への信頼、というよりむしろ隷属は、これに一点の疑いも持たないのだったら、いっさいの隷属の基底になってしまう。自分のなかで言語の絆を断ち切るという欲望を持っていない人を、私は、自由な人だとみなすことはできない。ただしもちろん、われわれ自身の存在を何ものにも従属させないという配慮をできるだけ遠くへ推し進めるためには、一瞬のあいだ言葉の帝国から逃れるというだけでは不十分なのだ。

ジョルジュ・バタイユ「半睡状態について」『ランスの大聖堂』酒井健訳,ちくま文庫

今年の私のテーマは「言語・法・暴力」ですが、わたしが言語について勉強しよ〜と思ってるのはこのバタイユの影響が大きいですね。去年のよかった本リストに入れた『ウェブスター辞書 あるいは英語をめぐる冒険』とかを読んで言語の帝国主義的な側面を考えたこととかも勿論あるんだけど。あとはソ連の言語政策、スターリン言語学、そして言語とジェンダーの話とか…。全然バタイユだけじゃなくてトピックスいろいろあったわ。勉強しよ。あとは普通に英語とフランス語できるようになりたい。かつ、言語活動から自由になる試みとしてのダダイズムでしょうか。正直なところ言語から自由になる前に、まずは言語を意のままに操縦できるようになりたい気持ちの方が大きいですが。

「蜂起」特集なので、ブラック・ライヴズ・マター、フランスの黄色いベスト運動や、香港のブラックブロック活動などなど、最近世界各地で起きている民衆による運動を取り上げながら、目的を達成するために統制を必要とする20世紀の「革命」とは違う形をとる、より開かれた闘争の過程を含む「蜂起」という概念について論じられており面白かった。香港のブラックブロックとか、SNSに「○月○日、近所のXに集合。ブラックブロックとして行動します」と書き込むだけで人が集まって、そのまま蜂起活動に突入するらしい。そしてひとしきり暴れたらそのまま解散して、特に反省会とかもしない。なんども集まってるうちにだんだん顔見知りになってくるらしい。すごいな Clubhouseなのか? そしてフランスのジレ・ジョーヌによる暴動の描写がよかったので読んでよ。

監視カメラをたたきこわす。銀行や不動産屋から書類をもちだす。路上にばらまき火をはなつ。「美しい!」と声があがる。車も燃えあがり、機動隊にはロケット花火をうちこむ ––二〇二〇年一二月五日のパリの光景です。

白石嘉治「青空と文字のあいだで––われわれの蜂起を肯定するために」『福音と世界』2021年2月号,新教出版社

この箇所読んで、こんなの完全にケルアックの『路上』だ〜〜!!!となってしまった。

ぼくにとってかけがえのない人間とは、なによりも狂ったやつら、狂ったように生き、狂ったようにしゃべり、狂ったように救われたがっている、なんでも欲しがるやつら、あくびはぜったいしない、ありふれたことは言わない、燃えて燃えて燃えて、あざやかな黄色の乱玉の花火のごとく、爆発するとクモのように星々のあいだに広がり、真ん中でポッと青く光って、みんなに「ああ!」と溜め息をつかせる、そんなやつらなのさ。

ジャック・ケルアック『オン・ザ・ロード』青山南訳,河出文庫

『路上』はあんまり話は覚えてないのだが、なんか綿花畑で毎日綿を摘んで、その日もらったお金でその日食べるものを買うというマジのその日暮らしを彼女(?)としていて、綿花畑の近くの納屋的な場所で天井のタランチュラ(?)に見守られながらセックスするというシーンがあって、これがわたしの「文学上の好きなセックスシーンランキング」にランクインしてるセックスのひとつです。あとは『百年の孤独』で浴室の天井を突き破って男が侵入してきて、そのまま蠍と黄色い蛾に囲まれながらセックスするシーンもランクインしてるというか1位です。なんだ? 私は鋏角類に見守られながらセックスをしたい欲望でもあるのか?? 何の欲望?? 途中で離脱してた『コレラの時代の愛』も最近また再開して読んでるけど、やっぱりガルシア=マルケスの書くセックスシーンは勢いがあっていいなぁと思っています。

びっくりするほど脱線したが、何かを読んでると必然的に脱線するので、脱線する過程で読みたい本が出てきてそれを読むとまた脱線して、そこからさらに新たに脱線して脱線してまた脱線するので、本当に本読んでると無限に忙しくなるんですよね。もう少し脱線せずにひとところに留まって思考を深める活動がしたいのだが、無限に流されてしまう。最後にもう1箇所脱線すると、『福音と世界』のマニュエル・ヤンの連載もなかなか面白くて、その中でイギリスのマルキシスト歴史学の権威 E・P・トムスンがヘンリー・ミラーをこき下ろしていたらしいのだが、いやヘンリー・ミラーはアメリカの資本主義文明や国家暴力を『南回帰線』とか『冷暖房完備の悪夢』で糾弾してたしいいじゃん!って異議を申し立てててよかった。ヘンリー・ミラーは『北回帰線』を挫折したし全然読んでないんだけど、『冷暖房完備の悪夢』は完全にタイトルで買ったら予想外にめっちゃ良くてよかったです。エッセイ集なので全部ではないが、アメリカを車で旅行しながら見たアメリカのおかしな光景や、異常な人間のエピソードや、アーカンソーの巨大ピラミッド計画の話とか、あとはひたすらアメリカの悪口を書いてて個人的にはかなり好きでした。やっぱ車でアメリカを旅する話は面白いんだよな。あーあ、アメリカを車で旅してモーテルを泊まり歩きたい。では。

2021-02-02_SFを読んで責任を持て

最近日記を書けば書くほど己の愚かさを目の当たりにして落ち込むのだが、書くことによってそれに気付けているのであれば、この営みを絶えず繰り返していくことでいつか叡智にたどり着けないだろうか? という無謀にポジティブな気持ちでやっていく。

今日は『テクノロジー的全体主義――AI・DNA・GAFA』というテーマのオンライン講演会を聞いた。コロナ禍における数少ない良いことは、こういう講演会とか講義とかがオンラインで催されることが増えて格段に参加しやすくなったことですね。去年の沼野充義先生の最終講義なんかもまさにそう。当時はまだ自粛生活が始まったばかりで、週末に人と会ったりせず、静かに家で本を読んだり映画を見たりすることが初めて全面的に肯定されたような気持ちで、堂々と一人で時間を使うことに満足できていた時期だった。今も再び在宅勤務・自粛生活には戻ったけれど、あの頃の静かで不思議と満たされた時間というのは二度と手にできないだろうなと思う。想像以上に無能だった政府に怒り狂わないといけないし。ありがたいことに沼野先生の講義は今もYoutubeで聴けるので今まさに聞いているけれど、少しだけあの時の嬉しい気持ちが蘇ってきて心がホカホカしますね。

今日の講義は去年読んだ『漂泊のアーレント 戦場のヨナス』の著者のお二人による対談だったので、「テクノロジー的全体主義」についてハンナ・アーレントとハンス・ヨナスの思想を紹介しながら、それぞれのテクノロジーや全体主義に対する捉え方、抵抗の戦略について対比しながら語っていて面白かった。『漂泊のアーレント 戦場のヨナス』を読んだ時にも思ったけど、やっぱりハンス・ヨナスはハンス・良ナスだしハンナ・アーレントはヨナスに比べるとどうもちょっとイマイチに思えてしまうんだよな。アーレント読んでないから言いにくいけど。あと学生だったアーレントに手を出したハイデガーが最悪です。個人的哲学者好感度ランキングでハイデガーはかなり下位にいますが、まあ好感度とかその人が果たした功績に比べたら別にどうでもいいよね。いや、「好感度」を持ち出したのがそもそも間違いだった、学生に手を出して不倫したハイデガーはシンプルに最悪。いや、しかし不倫とはいえそこにアーレントの側からも愛があったならいいのか…? 何もわからない…。

「テクノロジー的全体主義」というのは、まぁタイトルのとおり「ビッグデータ」とか「AI」とかでなんでもレコメンデーションされてしまう世界で、明らかにそれは「便利」ではあるし、自分に最適化されて提示された選択肢を選ぶことは意思決定のリソースも省けるわけだし、それに乗ってしまった方がいろんな意味で「得」なのかもしれない。間違う可能性が低くて、自力では見つけられなかった自分好みのものを効率的に発見できるかもしれない。そうした「効率」や「利便性」の高い選択肢の提示を受けること自体は悪いことではないし、別に悪意ある支配者が直接的に人間の行動を操ろうとしているわけでもない。だからこそ我々はその選択肢の提示を喜んで受けてしまうし、しばしばそれに従った選択をするだろう。でも実はその時、そこで失われている人間の「自由」「自主性」「複数性」があるのではないか? 20世紀の全体主義のように恐怖や暴力で直接的に人間の自由を抑圧するのではなく、21世紀の全体主義は違う形で人間の「自由」を抑圧していくのではないか? という、まぁそれは本当にそう…という。

今日の話を聞いていて、ちょうど読んでた『現代思想』の2021年1月号(現代思想の総展望2021)の藤原辰史+山内志朗の対談で取り上げられていたエマヌエーレ・コッチャの「浸り」の概念を思い浮かべていた。「浸り」というのは、ざっくり言えば我々人間はこの地球上で生きていくために必要な空気に浸っているという意味で、我々は普段意識しておらず・見えもしないけれど、我々の生命の条件がそこにはあると。コッチャはそこからその条件を用意している植物という存在を問い直していこうとするらしいのだが、この二人の対談で印象深かったのがこの「浸り」という概念が全体主義的な恐ろしさを持っていると批判していたところで、また私は安易に今日の議論に接続してしまったのであった。マジで全然違う話ではあるのだが、「普段意識もせず・見えもしない条件」上で、我々はあらゆるテクノロジーを利用しているがそこには全体主義の契機があるんではないでしょうかということだけ言いたい(みんな知ってるか)。

話を戻して、ハンス・ヨナスの何がいいかというと、「今まだ存在していない人間」に対する責任、はるか先の未来に対する倫理を考えようとしてるところなんですよ。いわゆる「世代間倫理」というものですね。テクノロジーの発展によって、人類の行為が及ぼす影響の地理的・時間的影響というのがとんでもないことになり(たとえば原発の放射性廃棄物が安全なレベルになるのに10万年かかるみたいな)、現代を生きる我々は将来世代への責任を過去にないレベルで負っているのだと。地球温暖化とかも、今すぐなんとかしないと100年後に地球がやばくなります!!!みたいな話、でもぶっちゃけ自分はもう死んでるしね、将来世代のみんながんばれ。みたいなので本当にいいのか??よくないよね???という。ハンス・ヨナス今めっちゃアクチュアルなのでは? 『責任という原理』手に入らないらしいが。

ヨナスは「あなたの行為の影響が、地上における本当に人間らしい生き方の永続と両立するように、行為せよ」というめちゃめちゃカントの定言命法のオマージュで語っておられます。未来への責任を果たすためにはテクノロジーがどのような影響を及ぼすのか知り、いくら現在に利益をもたらすものだとしても、それが「人間らしい生き方」を将来的に滅ぼす可能性があるのであれば許容しないという判断が必要だと。そしてそのためにはテクノロジーについての知識だけではなく想像力が必要なので、「SFを読め」という話らしいです。わたしが散々引用してるハクスリーの『すばらしい新世界』をハンス・ヨナスも引用してるらしくて、気があうね♡とニコニコした。ヨナスは『すばらしい新世界』について「そこでは不幸を眺める能力が人間から失われている」と評しているらしいのだけど、今の日本でも十分に失われていますからね、本当に怖い。その社会の中では当たり前だとみなされていて、だれも疑問には思ってはいないけれど、現実にはきつい思いをしている人がいる。その目の前の傷ついている人に手を伸ばすこと、それはある意味その社会における「規範」を超えていく配慮だが、それが「責任」というものであると…。現代社会、分断されすぎてその「傷ついている人」がもはや目につかないみたいな問題もあると思いますが、自分にいったい何ができるのか、考えていきたいところ。

とりあえずSFを読みましょう! では。