20-12-15_雑貨屋と唯物論

今日は仕事中に友人から今月号のBRUTUSをよかったらチェックしてみてくれと連絡があり、労働意欲がマイナスで・高鼾でよく眠る猫を恨めしげに眺めるばかりだった今日は、これ幸いとSlackで業務上の応答責任は果たしつつも雑誌を捲った。

私がバタイユにご執心なのを知っているので、「雑貨屋の人がバタイユを取り上げていた」という親切なサジェストもセットでくれたことに感謝しつつ、該当のページを突き止める。思った通り『雑貨の終わり』の著者の方だった。まあ雑貨屋といえばこの人ぐらいしか思いつかないだけなのだが。(『雑貨の終わり』は読みたいなあと思いつつ読めてない)紹介されていたのはバタイユの『ドキュマン』で、「雑貨をめでるような表層的な悦び」が「バタイユの難文によって事前にふさがれて」おり、「視覚の愉楽に流されず、わかりにくいものを、そのまま、わかりにくいものとして受け取る強固な言葉の体験」が今必要なのかもしれないと書かれていた。

『ドキュマン』は本当によくて、1929年にバタイユが編集を任された雑誌で、当初は考古学・美術・文化人類学などについて扱う真面目な学術的雑誌が想定されていたのだが、バタイユは大真面目に訳のわからないことを書くし(「アカデミックな馬」の話とか)、アンドレ・ブルトンの元を去って合流してきたシュルレアリストたちも当然好き放題する訳で、結果的にかなりカオスな雑誌になってしまい出資者はおかんむりであった。そしてアンドレ・ブルトンもまたシュルレアリストたちが自分を裏切るような形でバタイユの元へ行ってしまったことも相まってのブチギレで、「ドキュマン」に寄せているバタイユの論考を「シュルレアリスム第二宣言」でネチネチ引用して嫌味を言っていて本当に最高。本当にBL。この二人は滅茶苦茶対照的で、性質が正反対で相手のことが本当に気に食わないんだけど・それでいて自分の望むことを相手はできているという嫉妬もあり、お互いに大っ嫌いなのに決して無視できないという関係性…。こういうのって良いよね。普通に仲が良いより良い。いずれこの二人については日記とかじゃなくてちゃんと文章を書きたいと思っていて、全然手がついていませ〜〜ん!

『ドキュマン』はテキストだけでなく多くの図版を載せているビジュアル雑誌であり、その写真や配置の仕方もユニークで強い視覚的効果も生み出している。たしかにバタイユの文章は錯乱してて最高に大好きなのだが、決して「強固な言葉の体験」だけの雑誌ではないんですよね。この時期のバタイユ(本格的に自著を執筆する以前の最初期)はシュルレアリスムとの関係性を抜きにはおそらく語れなくて、そしてシュルレアリスムを語るには政治的な背景を抜きには語れないんですよね。当時の彼らが目指していたものは、「西欧近代文明」への反省・否定・超越であり、そして何より「革命」だった。第一次世界大戦という惨禍を引き起こしてしまった社会への疑念であり、戦後も本質的には何も変わらない社会への怒りに満ちていた。

『シュルレアリスム革命』誌創刊号が発行されたとき––すなわち一九二四年末––寄稿者たちは全員次の点で意見の一致をみていました。すなわち、自分たちをとりまくいわゆるデカルト的世界は、容認できない欺瞞的世界であり、それに対する反乱形態はすべて正当化される、という点です

アンドレ・ブルトン『ブルトン、シュルレアリスムを語る』稲田三吉・佐山一訳
(※ 酒井健『シュルレアリスム 終わりなき革命』中公新書 から孫引き)

「デカルト的世界」とは、「片寄った理性主義者」からなる社会のことで、「自分を理性的な存在だとみなし、非理性的なものの前で自分の優越を信じ、これを思うように支配していって構わないと考えている人々からなる社会のことである」(『シュルレアリスム 終わりなき革命』)科学的で合理的な理性を疑い、否定され抑圧された情念や非理性の再評価をしようとし、とにかく彼らは既存の秩序をなんとかしてぶち壊そうと思っていた。第一次世界大戦中に起きたロシア革命の影響も受け、彼らは真剣に「革命」を考えていた。のちにシュルレアリスムの主導者たちは共産党に入党したし、(結局うまくいかなかったが)バタイユはバタイユでボリス・スヴァーリンが主宰する「民主共産主義サークル」に加わって活動することになる。彼らは滅茶苦茶に政治的だった。

私は元々「シュルレアリスム」には全然興味がなくて、今でもシュルレアリスムの作品を見てもそこまで心惹かれないのだが、なぜ彼らがそんな活動をしていたのかを知って感動してしまった。彼らは結局革命は起こせず、社会は大きく変わることなく、ファシズムが台頭し、第二次世界大戦という次の破滅的な事態を迎えることになるけれど、知識人・芸術家たちがこれだけ政治にコミットしていたんだなというのが不勉強な私には新鮮に思えた。

共産主義を支持していた彼らは、当然のことながら唯物論者でもあった。(実際のところブルトンが唯物論者であったとは言い難く、バタイユに言わせれば「小うるさい観念論者」であったけれど)特にバタイユは既存のマルクス主義、共産党、ソ連のスターリン主義を早くから批判していて、独自の「低い唯物論」を展開していた。こないだ注文してた『異質学の試み バタイユ・マテリアリストⅠ』がやーっと今日届いたので、これから読むのが楽しみ。チラッとだけ読んだけど、「ブルトンに自分の訳出した古い詩を褒められたけど褒められるのとか逆に悲しかった」みたいなこと言っててやっぱり最高だった。ついでにアンドレ・ブルトンの追っかけしてた男の本も届いたので、これも絶対BLだと思うし読むのが楽しみ。

雑貨屋さんがバタイユを取り上げてたので「あ〜唯物論」とか勝手に思って読んだら全然違ったので、なんか残念な気持ちになって謎な日記を書いてしまった。シュルレアリスムやバタイユが語られるとき、彼らの政治的な問題意識とかがすっぽり無視されて単純に「訳わかんないけどいいよね!」とされているとなんか悲しいなと思ってこんなことになった。バタイユは錯乱してて訳わかんなくて最高なのはそうなのだが、ある意味ではその錯乱は理性に対する非理性の称揚であって、彼らは大真面目に訳わかんないことをやっているのだ。(雑なまとめ)