20-12-11_i don’t wanna be your personal Jesus

在宅勤務の良いところはなんと言っても堂々と音楽を流しながら・歌を口ずさみながら働けるところである。とはいえあまり音楽に聞き入っても仕事が捗らないので適当にapple music のプレイリストをかけていたところ、「I don’t wanna be your personal Jesus」というリリックが流れてきたのが引っ掛かり、元々予定にはなかったジーザスのことについて考える必要が出てきてしまった。いや必要なんていうものはないのだが、魂が求めるのなら与えないわけにはいかない。求めなさい、そうすれば与えられる。

I don’t wanna be your personal Jesus.
パーソナル・ジーザス。あなたの個人的なジーザス。personal と private ってどう違うんだろうと思ったけど、まぁ私用の・個人のという意味では近しい意味なのだろうか。通常のジーザス(通常のジーザス?)はすると必然的に public Jesus だったのだなと思い至った。そうなのか? いったん今日は公的イエスのことは考えず、パーソナル・ジーザスのことを考えたい。

そんな感じで仕事中パーソナル・ジーザスのことをぼんやり考えながら勤務していたところ、お昼を食べに居間に行ったら今月号の『福音と世界』が届いていたので、まさに求めなさい、そうすれば与えられるのがキリスト教だなと感心した。『福音と世界』、個人的には最近一番面白い雑誌だと思ってるけどどうですか? 人に薦めるとこれは普通に伝道活動みたいになってしまうので薦めづらいのだが。取り扱ってる書店にわざわざ行くのが面倒なので年間購読しています。雑誌の年間購読ってとっても便利ですね。今度『ヒップホップ・レザレクション』の続編が出るようなので非常に楽しみ。(リンクしたele-king のレビュー、冒頭から「ラッパーというペルソナ」という語が繰り出されており笑ってしまった。ラッパーというペルソナを想定したことがなかった)

しかしそれにしても「パーソナル・ジーザス」とはなんなのか。私の代わりに贖罪をしてくれるのだろうか。単純に個人に最適化されたメシア=救済ということなんだろうか。『フラニーとズーイ』でフラニーがズーイにこっぴどく怒られてたやつかな、と思って久しぶりに読もうと思ったら見当たらないので『フラニーとゾーイー』を仕方なしに読む。

「お願いだから、フラニー」と、彼は言った「もしも『イエスの祈り』を唱えるのなら、それは少なくともイエスに向かって唱えることだ。聖フランシスとシーモアとハイジのおじさんを、みんなひとまとめにまるめたものに向かって唱えたってだめだ。唱えるのなら、イエスを念頭に置いて唱えるんだ。イエスだけを、ありのままのイエスを、きみがこうあって欲しかったと思うイエスではなくだ。きみは事実にまっこうから立ち向かうということをしない。最初にきみを混乱に陥れたのもやはり、事実にまっこうから立ち向かわないという、この態度だったんだ。そんな態度では、そこから抜け出すこともおそらくできない相談だぜ」

J.D.サリンジャー『フラニーとゾーイー』野崎孝訳 新潮文庫

『イエスの祈り』の目的は一つあって、ただ一つに限るんだ。それを唱える人にキリストの意識を与えることさ。きみを両腕に掻き抱いて、きみの義務をすべて解除し、きみの薄汚い憂鬱病とタッパー教授を追い出して二度と戻ってこなくしてくれるような、べとついた、ほれぼれするような、神々しい人物と密会する、居心地のよい、いかにも清浄めかした場所を設定するためじゃないんだ。きみにもしそれを見る明があるのならば–『ならば』じゃない、きみにはあるんだが––しかもそれを見ることを拒むとすれば、これはきみがその祈りの使い方を誤ってることになる。お人形と聖者とがいっぱいいて、タッパー教授が一人もいない世界、それを求めるために祈ってることになってしまうじゃないか」

J.D.サリンジャー『フラニーとゾーイー』野崎孝訳 新潮文庫

やっぱり村上春樹訳をやたらと読んでいたせいか、野崎訳のゾーイーは若干良い子ちゃんに思えてしまうな。もっと嫌味ったらしいズーイが個人的には好きである。

しかし私は「祈り」についてはかなり好きというか、物心ついた時から毎夜祈って生きてきたタイプの人間なのだが、人間がなぜ祈るのかについては全然わかっていない。私の「祈り」はなんの祈りなのか。何を求めているのか、祈りは何かを求めるものなのか。「何か」とは何か、救済か。

フォークナーの『八月の光』でも、ある女が「祈り」を躊躇っていたのが印象深かった。
「この女は祈りたいんだ、だけどどうしたら祈れるか知らねえんだ」
「神様、まだあたしがお祈りせねばならぬようにはしないでください。神様、もう少しだけあたしを地獄においてください。ほんのもう少しだけ」

祈るという行為は、一般に「救済」を求める行為なんだろうか。救済を求めずに祈ることはできないのだろうか。私も無意識に救済を求めて祈っているんだろうか? まぁそのタイプの祈りを『フラニーとズーイ』は否定しているとは思うのだが。そもそも私は「救済」が全然ピンときていないのだ。バタイユも滅茶苦茶「救済」を否定しているというか、馬鹿にしているというか、笑い飛ばしているというか、とにかくそんなものは求めるもんじゃないと言っている気がするので、引き続きもう少しバタイユを読むことにする。

もーーー本当にさあ、私は比較的時間をたっぷり自由に使える環境にいる幸運な人間だけれども、それにしたって時間が足りなくて嫌になりますね。読みたい本が死ぬほどあるし、読むだけじゃなくて適度に書くことにも取り組みたいし。謎に「ヒップホップの福音」特集を読んでいたら今日は終わってしまった。ギャングスタとしてのイエスについても触れたかったのだが、日記にしては長くなりすぎるし収集がつかなくなるので本日のところはここで終了とする。

20-12-09_同じ地球に生まれたの

日記書くぞ!とか言ってるうちに気付いたら12月だし今年も残すところ22日になっていた。果たして22日間のうち何日分の日記が書かれるのであろうか。

2020年は人生で稀に見る「失われた年」であったけれど、(結局『失われた時を求めて』は1ページも捗っておらず、第3巻「花咲く乙女たちのかげに」がちくま文庫の井上究一郎 訳、集英社文庫ヘリテージの鈴木道彦 訳、岩波文庫の吉川一義 訳が無駄に揃い踏みという状態を保っている)最近一つ得たものとして、恋人ができた。急に。

まぁ考えてみれば今までの人生で恋人が「急に」できなかったことがなくて、デートを複数回重ねて徐々に距離を縮め、めでたくお付き合いに至る…というパターンを辿ったことが一度もない。今までの恋人も全員突然できた。私の意思が介在し始める前に、気付いたらできている。恋とは概してそういうものなのかもしれないが、この年齢になっても相変わらずそんな調子で良いのかかなりの疑問を抱きつつ、でもできてしまったものは仕方がないので、とりあえず出来立ての恋人をしばらく眺めてみることにする。

それにしても「付き合う」ということになる前は完全に無意識で対応していたので、正直自分が何を話していたのかも全然覚えていない。怖。美術館が好きだというのでアプリでのやり取りもそこそこに原美術館に行くことになって、(原美術館に来るのはきっとこれが最後になるのに、私は一度会っただけでその後名前を思い出すこともないであろうマッチングアプリの男性と原美術館との最後の時を過ごすのか…)という謎の感慨を抱きながら原美術館を見て回った。が、結果として付き合うことになったので原美術館を最後に一緒に見た人が「名もなきマッチングアプリの男性」になることは避けられ、少なくとも私の人生に彼の名が残ることになった。

私は「付き合ってください」と言われるとびっくりして付き合ってしまう習性があるので、今回も「付き合ってください」と言われてびっくりして思わず付き合ったのだが、歳を取るほど「好きだよ」とか好意を伝えるだけでなく、「付き合ってください」とちゃんと要求できる人間というのはとにかく偉いな〜と思うので、それだけで君は偉人だと思った。歴史に名を残した。そしてふと告白という行為が偉いのは、柄谷行人がよく引き合いに出す「命がけの飛躍」または「暗闇の中での跳躍」ってやつなんじゃないかと思って、久しぶりに柄谷を読もうと思ってちくま文庫の何かを捲ったけど全く気分ではなく読めなかった。今ググったら『探究』の方っぽいからそっちを読もうかな。

色恋沙汰になるとIQが死ぬほど下がるので、いつも友人が監視してくれてありがたいのだが、今のところ「そこまで下がってなく、冷静さを保てている様子なのでうまくいきそう」とのこと。というかまだ相手のことをほとんど何も知らないのだから、それでIQが下がっていたらどうしようもない。ちなみに監視といえば、彼氏の家に行ったら前から読みたかったオライーの入門 監視』があったので意気揚々と借りてきたところ、「謎の女だ…」と言っていた。謎の女に交際を申し込んだのはお前だよ。

本当に付き合っているのか半信半疑だったのであまり人に報告していなかったが、付き合っているらしいので友人に報告すると、まあ「どんな人なのか」と聞かれる訳なのだがどんな人なのか全然わからない。今のところ私が彼について知っていることは彼が生まれた日の惑星の配置ぐらいなもので、「彼の火星が私の金星にコンジャンクションしてる」というようなことしかいえない。しかし「彼の火星が私の金星にコンジャンクションしてる」って滅茶苦茶エッチな感じしないか? 実際にこれは非常にエッチな配置です。正直ホロスコープについてはあと1万字ぐらい書けそうだが、何も伝わらない(いや伝わると思うが)(いや伝わらない)ので要約すると、とにかく彼のあらゆる惑星と私の惑星の角度がすこぶる良くて、滅茶苦茶星に祝福されている。太陽も月も金星も木星も我々を喜んでいる。

星座の瞬き数え 占う恋の行方 同じ地球に生まれたの ミラクル・ロマンス
ってわけですね。気を失ったりIQを失ったり記憶を失ったりしないようになるべく日記を書いていくぞ。

#贈与日記とは

できることなら「交換日記」をしたいのだが、あいにく「交換」する相手が見つからず、いつまでも交換が始まらないので一方的な「贈与」という形にすればいいのではないかという単なる思いつき。

ただの「日記」じゃ駄目なのかというと・結論としては駄目で、私がしたいのは個人で日記をつけることではなく、誰かに向けて書く/誰かから受け取って書く「交換日記」だからだ。
モースの『贈与論』は概要しか知らないしちゃんと読んでいないが、「贈与」は「贈与交換」であって、交換の一形態であるという。つまり「贈与日記」は「交換日記」の一形態なのだ。(屁理屈)

しかし「贈与交換」である「贈与」は果たしてほんとうに「贈与」と呼べるのか?
それは紛れもなくただの「交換」なのではないか? と疑問を呈したのは我らがデリダであって、(私は交換日記がしたいので贈与=交換で問題はないのだが)デリダ・ファンの私としては交換の一形態でしかない贈与もどきに「贈与」という名を与えていいのかという倫理的な葛藤は発生してしまう。

そして贈与といえば勿論バタイユの得意分野でもあるからして、ジャスト・アイデアで名付けた「贈与日記」だけれどもバタイユに呪われている私としてはもっと贈与について掘り下げて考えていく必要がありますね。相手のいない「交換日記」は成立するのか、そして「贈与」は「交換」でなく「贈与」たりえるのか、考えていきたいと思います。