20-12-17_What doesn’t kill you

一昨日の続き。一昨日はタイトルに「唯物論」とつけたぐらいだからバタイユの「低い唯物論」の話とか、シュルレアリストやバタイユ達のイメージの政治学的な話をしたかったのに、それに至る前段の部分で力尽きてしまった。じゃあその続きを書くかというと、続きではあるけど違うことを書きます。今日は一昨日ではないので。

BRUTUSとバタイユの件を知らせてくれた友人に感想の代わりに中途半端な日記を送りつけたところ、自分も社会運動としてのシュルレアリスムはギィ・ドゥボールとシチュアシオニストの前史として気にしてると教えてくれたのでまた勉強したいことが増えましたね。ギィ・ドゥボールは名前はなんかチラチラ聞いたことがあるが立ち位置が全然わかってなかったし、クソバカなのでシチュアシオニストってシオニストの親戚かと思ってたよ。急にパレスチナの話かと。アンリ・ルフェーブルの『日常生活批判』もこの流れなのか。『日常生活批判』読みたいです。

シチュアシオニストの知的基盤は主にダダを初めとする前衛芸術運動から派生しているとのことで、そういえばバタイユも「自分はシュルレアリストというよりはどちらかというとダダイスト的だった」ってどこかで言ってたよなというのがあり、ここは私もダダイストを目指すか??と思いながら自分のTwitterのいいね欄整理してたら「ダダイストでも作れる大人数の食事」というnoteを過去にいいねしていていつものことながら先見の明があった。

自分はダダイストを名乗っている。一般的にダダイストに期待される料理とは青いご飯とかピンクのカレーとかだろうが、その手の期待にわかりやすく応えてはならない。自分は合宿の学生諸氏が出会う生まれて初めての生きたダダイストであるかもしれず、自分の振る舞いが今後の彼らのダダ理解に影響を及ぼす可能性が高いため、青いご飯を炊きたいなどという私的な欲求はこれを禁欲せねばならない。ダダは、広く信じられているように、私的な内面の欲望の爆発ではない。歴史の必然だった。ダダイストは必然に従って行動する。

山本桜子 「(2019年)ダダイストでも作れる大人数の食事」

「ダダイストは必然に従って行動する」、かっこいいですね。
よしトリスタン・ツァラでも読んでみるか…って思いながらもとりあえず例のアンドレ・ブルトンに粘着してた男性の本を読んでたらタイムリーに糾弾されてたのでウケちゃった。ツァラはスターリニストだったの? バンジャマン・ペレはスターリニストになったこの元ダダイストを追いかけ回してサン・ジェルマン・デ・プレの満員のカフェテラスの前で罵倒したいそうです。そうですか…。ツァラのこと何も知らんからいったん保留にしますが、ペンネームの意味が「故郷で悲しむ者」なのはいいよね。

あとBRUTUS読んでて、これも前に聞いていたのだが千葉雅也が「今こそニーチェ、マルクス、フロイトを読もう!」というコンセプトで選書していて、私もちょうど今こそニーチェ、マルクス、フロイトだなと思っていたのでバイブスが合うね〜と思った。
まあ今年読んでたバタイユも(ついでにブルトンも)その辺から直に影響受けてるというか・引き継いでるようなところがあるわけだから読まなきゃなとなるのは当然なのだが、しかしニーチェを薦めるのってかなり危うい行為でもあると思うんですけどどうなのかな。お前はニーチェの何を知ってるんだと言われると知らんけど、なんかニーチェって右翼からも大人気みたいなところあるし(実際ファシズムはニーチェを利用しようとしていたわけで)そしてバタイユはそれにブチ切れまくっていたんですけど、ニーチェを薦めるならバタイユみたいに激怒しながら説明する必要があると思うんですよね。安易な「超熟・ニーチェの言葉」(超熟ではない)的な受容ならすべきじゃないような気がするんですけど、まぁ私もニーチェの入門系の本とか読んだことないしついでに読んでみようかしら。ハローキティちゃんのニーチェもあるよね、私は昔『マイメロディの論語』を買ったけどクソすぎて本当に面白かった。超訳すぎる。

ニーチェといえば前にTwitterで見かけた「80年代末から90年代にかけて、アメリカ・ミステリに出てくる連続殺人鬼はどいつもこいつも「ニーチェの超人思想の信奉者だった」」という話が面白くて印象に残っている。

「What doesn’t kill you makes you stronger」、マジでこんなんまさに某G冬社のカリスマ編集者(?)とか好きそうだもんね。「死ぬこと以外かすり傷」的価値観。
ニーチェの引用元は明確にはわからないが『偶像の黄昏』っぽいです。

この話もたぶんあって、私はアメリカにおけるニーチェ受容に地味にずっと興味があって、読みたいなーという本は目星をつけているのだが全く読めてないよね。なんかもう忘れたけど「暗黒啓蒙」とかもその系譜じゃないですか?なんかニーチェが〜みたいな話があった気がする。「暗黒啓蒙」は全然興味ないです、純粋に厨二病っぽい。

ニーチェの教えがつくりあげる信仰は、そのセクトあるいは「教団」の支配的な意志が、人間の運命を、生産による理性的な隷属からも過去への非理性的な隷属からも解き放ち、自由にするようなものになるだろう。転倒された諸価値が有用性の価値に縮小されてはならないこと、それは決定的に重要な、焼けつくほどに重要な原則であって、その原則は、生がもたらす勝利への猛々しい意志のすべてを一緒にかきたてずにはいないだろう。こうした明白な決意がなければ、ニーチェの教えは、それを尊重すると主張する人間達の軽率な行動や裏切りのかずかずを生み出すだけにおわるだろう。奴隷化は人間の実存全体を包み込もうとしており、賭けられているのは、その自由な実存の運命なのである。

ジョルジュ・バタイユ「ニーチェとファシストたち」『無頭人』兼子正勝 中沢信一 鈴木創士 訳 ,現代思潮新社

なんか毎日バタイユの話してるから日記の名前「まいにちバタイユ」とか「バタイユといっしょ」とかにしようかな。

20-12-15_雑貨屋と唯物論

今日は仕事中に友人から今月号のBRUTUSをよかったらチェックしてみてくれと連絡があり、労働意欲がマイナスで・高鼾でよく眠る猫を恨めしげに眺めるばかりだった今日は、これ幸いとSlackで業務上の応答責任は果たしつつも雑誌を捲った。

私がバタイユにご執心なのを知っているので、「雑貨屋の人がバタイユを取り上げていた」という親切なサジェストもセットでくれたことに感謝しつつ、該当のページを突き止める。思った通り『雑貨の終わり』の著者の方だった。まあ雑貨屋といえばこの人ぐらいしか思いつかないだけなのだが。(『雑貨の終わり』は読みたいなあと思いつつ読めてない)紹介されていたのはバタイユの『ドキュマン』で、「雑貨をめでるような表層的な悦び」が「バタイユの難文によって事前にふさがれて」おり、「視覚の愉楽に流されず、わかりにくいものを、そのまま、わかりにくいものとして受け取る強固な言葉の体験」が今必要なのかもしれないと書かれていた。

『ドキュマン』は本当によくて、1929年にバタイユが編集を任された雑誌で、当初は考古学・美術・文化人類学などについて扱う真面目な学術的雑誌が想定されていたのだが、バタイユは大真面目に訳のわからないことを書くし(「アカデミックな馬」の話とか)、アンドレ・ブルトンの元を去って合流してきたシュルレアリストたちも当然好き放題する訳で、結果的にかなりカオスな雑誌になってしまい出資者はおかんむりであった。そしてアンドレ・ブルトンもまたシュルレアリストたちが自分を裏切るような形でバタイユの元へ行ってしまったことも相まってのブチギレで、「ドキュマン」に寄せているバタイユの論考を「シュルレアリスム第二宣言」でネチネチ引用して嫌味を言っていて本当に最高。本当にBL。この二人は滅茶苦茶対照的で、性質が正反対で相手のことが本当に気に食わないんだけど・それでいて自分の望むことを相手はできているという嫉妬もあり、お互いに大っ嫌いなのに決して無視できないという関係性…。こういうのって良いよね。普通に仲が良いより良い。いずれこの二人については日記とかじゃなくてちゃんと文章を書きたいと思っていて、全然手がついていませ〜〜ん!

『ドキュマン』はテキストだけでなく多くの図版を載せているビジュアル雑誌であり、その写真や配置の仕方もユニークで強い視覚的効果も生み出している。たしかにバタイユの文章は錯乱してて最高に大好きなのだが、決して「強固な言葉の体験」だけの雑誌ではないんですよね。この時期のバタイユ(本格的に自著を執筆する以前の最初期)はシュルレアリスムとの関係性を抜きにはおそらく語れなくて、そしてシュルレアリスムを語るには政治的な背景を抜きには語れないんですよね。当時の彼らが目指していたものは、「西欧近代文明」への反省・否定・超越であり、そして何より「革命」だった。第一次世界大戦という惨禍を引き起こしてしまった社会への疑念であり、戦後も本質的には何も変わらない社会への怒りに満ちていた。

『シュルレアリスム革命』誌創刊号が発行されたとき––すなわち一九二四年末––寄稿者たちは全員次の点で意見の一致をみていました。すなわち、自分たちをとりまくいわゆるデカルト的世界は、容認できない欺瞞的世界であり、それに対する反乱形態はすべて正当化される、という点です

アンドレ・ブルトン『ブルトン、シュルレアリスムを語る』稲田三吉・佐山一訳
(※ 酒井健『シュルレアリスム 終わりなき革命』中公新書 から孫引き)

「デカルト的世界」とは、「片寄った理性主義者」からなる社会のことで、「自分を理性的な存在だとみなし、非理性的なものの前で自分の優越を信じ、これを思うように支配していって構わないと考えている人々からなる社会のことである」(『シュルレアリスム 終わりなき革命』)科学的で合理的な理性を疑い、否定され抑圧された情念や非理性の再評価をしようとし、とにかく彼らは既存の秩序をなんとかしてぶち壊そうと思っていた。第一次世界大戦中に起きたロシア革命の影響も受け、彼らは真剣に「革命」を考えていた。のちにシュルレアリスムの主導者たちは共産党に入党したし、(結局うまくいかなかったが)バタイユはバタイユでボリス・スヴァーリンが主宰する「民主共産主義サークル」に加わって活動することになる。彼らは滅茶苦茶に政治的だった。

私は元々「シュルレアリスム」には全然興味がなくて、今でもシュルレアリスムの作品を見てもそこまで心惹かれないのだが、なぜ彼らがそんな活動をしていたのかを知って感動してしまった。彼らは結局革命は起こせず、社会は大きく変わることなく、ファシズムが台頭し、第二次世界大戦という次の破滅的な事態を迎えることになるけれど、知識人・芸術家たちがこれだけ政治にコミットしていたんだなというのが不勉強な私には新鮮に思えた。

共産主義を支持していた彼らは、当然のことながら唯物論者でもあった。(実際のところブルトンが唯物論者であったとは言い難く、バタイユに言わせれば「小うるさい観念論者」であったけれど)特にバタイユは既存のマルクス主義、共産党、ソ連のスターリン主義を早くから批判していて、独自の「低い唯物論」を展開していた。こないだ注文してた『異質学の試み バタイユ・マテリアリストⅠ』がやーっと今日届いたので、これから読むのが楽しみ。チラッとだけ読んだけど、「ブルトンに自分の訳出した古い詩を褒められたけど褒められるのとか逆に悲しかった」みたいなこと言っててやっぱり最高だった。ついでにアンドレ・ブルトンの追っかけしてた男の本も届いたので、これも絶対BLだと思うし読むのが楽しみ。

雑貨屋さんがバタイユを取り上げてたので「あ〜唯物論」とか勝手に思って読んだら全然違ったので、なんか残念な気持ちになって謎な日記を書いてしまった。シュルレアリスムやバタイユが語られるとき、彼らの政治的な問題意識とかがすっぽり無視されて単純に「訳わかんないけどいいよね!」とされているとなんか悲しいなと思ってこんなことになった。バタイユは錯乱してて訳わかんなくて最高なのはそうなのだが、ある意味ではその錯乱は理性に対する非理性の称揚であって、彼らは大真面目に訳わかんないことをやっているのだ。(雑なまとめ)

20-12-13_たくさんの強さと愛

シャンタル・アケルマンによるピナ・バウシュのドキュメンタリー『ある日、ピナが…』(ONE DAY PINA ASKED…)をみた。

「ある日、ピナが…、リハーサルにやってきて、私たちに”LOVE”という言葉から何を連想するか聞いたんです。」という紹介文に惹かれて見たけれど、正直ダンサーからはそこまで独創的な答えは出なかったので、その部分についてはやや肩透かし。まあ私が「愛という言葉から何を連想する?」と聞かれたところでパッと答えられないし、仮に答えられたとしてもおそらく己の凡庸さに恥じ入るばかりになるだろうし、「答えない」という選択をする卑怯な女が私。そういうのよくないと思うよ。

「愛は来ては去る しかもいつだっていま起きている」
「ほとんどの場合、愛は失敗する でも自分はまた必ず挑戦する 幸い愛だけが人生のすべてじゃない」
「愛なんて夢物語だ 他に聞くことはないの?」
「愛は来て 去って それから幸運にも戻ってくる そして愛は悲しくも去っていく」

一昔前はやたらと「愛」について考えたり書いたりしていた気がするが、(She is のプロフィールにも「人生のテーマがどうやら愛」とか書いててビビる。過去の自分はほぼ他人だ)最近はめっきり「愛」について考える機会(必要)がなかったので「愛」と言われてもパッと何も出てこない。しばらくアクセスしていなかったのでキャッシュが残っておらず読み込みに時間がかかる感じ。

Some day he’ll come along
The man I love
And he’ll be big and strong
The man I love
And when he comes my way
I’ll do my best to make him stay

He’ll look at me and smile
I’ll understand
And in a little while
He’ll take my hand
And though it seems absurd
I know we both won’t say a word

George Gershwin “The Man I Love”

ジョージ・ガーシュウィンの「私の彼氏」の曲に合わせた手話のシーンが良くて、手話について学びたくなってしまった。もちろん「手話」も語彙と文法を持つ「言語」の一形態ではあるんだけど、われわれが普段用いている「言語」とは違う身体的な親しみのようなものを感じて、シュタイナー教育に取り組んでる知人が学んでいた「オイリュトミー」のことを思い出した。

意識身体のギャップを埋め、言葉または音楽を全身の動きに変換し、内臓ミクロコスモス)を動かすエネルギー惑星マクロコスモス)を動かすエネルギーを関連付ける。 また、言葉または音楽の持つエネルギーを身体表現によって具象化する。 子音母音には、一つずつ動きが定められており、子音の動きと母音の動きを組み合わせることで、言語を立体的に表現することを可能としている。

Wikipedia オイリュトミー

大体常に意識と身体にギャップのある人間、生活が精神や言語表現に偏りがちな私であるけれど、恋愛の場になると突然「身体」の比重が大きくなるので戸惑ってしまう。私はよく「IQが下がる」と表現するけど、ある意味では普段精神的な活動/思考に偏っているエネルギーが身体の方に取り戻されているとも言えるのかもしれない。言葉を交わさなくてもただ人と「居る」のが嬉しい、触れるのが心地よい、という感覚を久しぶりに思い出した。というか、ここまで心地が良い感じは割と初めてかもしれないので、これもまたホロスコープの正しさを裏付ける証拠になってしまうな(確証バイアス)

端的に言えば「幸福」だなと思うけれど、少し前に友人の言っていた「別に幸せになるために生きているわけではない」に死ぬほど同意していた癖に、いざ自分のもとに舞い込んできたらしっかりそれに浸るというのはどうなんだよという気もしないでもないが、「幸福」は紛れもなく「幸運」なので、あるときにはちゃんと味わうべきなんじゃないか。そしてそれは、「別に幸せになるために生きているわけではない」と矛盾することではない。

バタイユの自伝で、バタイユとコレット・ペニョの関係性についての箇所で「バタイユがこの愛を考えるとき、幸福というものは度外視されていたと言っても過言ではない(幸福という概念は彼の関心を引くにはあまりにも薄弱な概念だった)。」(ミシェル・シュリヤ『G・バタイユ伝』)という記述があったのも思い出して、愛において幸福を度外視できるバタイユまじすごいなと改めてちょっと尊敬してしまったのだが、「幸福という概念は彼の関心を引くにはあまりにも薄弱な概念だった」と書かれている割にバタイユって『純然たる幸福』という著書があるよねと思った。

私は、私の幸福について語りたいし、語らねばならない。だがそれが原因で、なんとも理解しがたい不幸が私を訪れる。この言語、私が語っている言語は、未来を求めている。この言語は苦痛––どんなにささやかなものであっても––と闘っているのだ。今の私においては、幸福について語りたいとする欲求が苦痛になっている。言語はけっして純然たる幸福をめざさない。言語は行動をめざす。行動の目的は失われた幸福をもう一度見出すことだ。しかし行動そのものはこの幸福に到達することができない。というのも幸福であったら私はもはや行動しないであろうからだ。

ジョルジュ・バタイユ『純然たる幸福』酒井健 編訳 ちくま学芸文庫

これに続いて「純然たる幸福は言語の否定である」とバタイユは言い切っているのだが、最近「言語」について疑惑を持っている私としては吟味するのにちょうど良い機会だなと思った。(恋愛をしろ)「幸福」は望んで得られるものではないし、ほんとうにありがたい。

タイトルの「たくさんの強さと愛」は、未来への展望を聞かれたピナの答え。

「わからない 世界には大きな問題があるから
自分の未来に何を求めるか聞くのをためらうような
でもきっと私が願うのは強さ たくさんの強さと愛
どうだろう たくさんの強さ だと思う」

『ある日、ピナが…』

彼氏は「自由」と答えていたけれど、自由を得るにも力がいるし、私もまずは「たくさんの強さ」そしてその後、「愛」ですかね…

20-12-11_i don’t wanna be your personal Jesus

在宅勤務の良いところはなんと言っても堂々と音楽を流しながら・歌を口ずさみながら働けるところである。とはいえあまり音楽に聞き入っても仕事が捗らないので適当にapple music のプレイリストをかけていたところ、「I don’t wanna be your personal Jesus」というリリックが流れてきたのが引っ掛かり、元々予定にはなかったジーザスのことについて考える必要が出てきてしまった。いや必要なんていうものはないのだが、魂が求めるのなら与えないわけにはいかない。求めなさい、そうすれば与えられる。

I don’t wanna be your personal Jesus.
パーソナル・ジーザス。あなたの個人的なジーザス。personal と private ってどう違うんだろうと思ったけど、まぁ私用の・個人のという意味では近しい意味なのだろうか。通常のジーザス(通常のジーザス?)はすると必然的に public Jesus だったのだなと思い至った。そうなのか? いったん今日は公的イエスのことは考えず、パーソナル・ジーザスのことを考えたい。

そんな感じで仕事中パーソナル・ジーザスのことをぼんやり考えながら勤務していたところ、お昼を食べに居間に行ったら今月号の『福音と世界』が届いていたので、まさに求めなさい、そうすれば与えられるのがキリスト教だなと感心した。『福音と世界』、個人的には最近一番面白い雑誌だと思ってるけどどうですか? 人に薦めるとこれは普通に伝道活動みたいになってしまうので薦めづらいのだが。取り扱ってる書店にわざわざ行くのが面倒なので年間購読しています。雑誌の年間購読ってとっても便利ですね。今度『ヒップホップ・レザレクション』の続編が出るようなので非常に楽しみ。(リンクしたele-king のレビュー、冒頭から「ラッパーというペルソナ」という語が繰り出されており笑ってしまった。ラッパーというペルソナを想定したことがなかった)

しかしそれにしても「パーソナル・ジーザス」とはなんなのか。私の代わりに贖罪をしてくれるのだろうか。単純に個人に最適化されたメシア=救済ということなんだろうか。『フラニーとズーイ』でフラニーがズーイにこっぴどく怒られてたやつかな、と思って久しぶりに読もうと思ったら見当たらないので『フラニーとゾーイー』を仕方なしに読む。

「お願いだから、フラニー」と、彼は言った「もしも『イエスの祈り』を唱えるのなら、それは少なくともイエスに向かって唱えることだ。聖フランシスとシーモアとハイジのおじさんを、みんなひとまとめにまるめたものに向かって唱えたってだめだ。唱えるのなら、イエスを念頭に置いて唱えるんだ。イエスだけを、ありのままのイエスを、きみがこうあって欲しかったと思うイエスではなくだ。きみは事実にまっこうから立ち向かうということをしない。最初にきみを混乱に陥れたのもやはり、事実にまっこうから立ち向かわないという、この態度だったんだ。そんな態度では、そこから抜け出すこともおそらくできない相談だぜ」

J.D.サリンジャー『フラニーとゾーイー』野崎孝訳 新潮文庫

『イエスの祈り』の目的は一つあって、ただ一つに限るんだ。それを唱える人にキリストの意識を与えることさ。きみを両腕に掻き抱いて、きみの義務をすべて解除し、きみの薄汚い憂鬱病とタッパー教授を追い出して二度と戻ってこなくしてくれるような、べとついた、ほれぼれするような、神々しい人物と密会する、居心地のよい、いかにも清浄めかした場所を設定するためじゃないんだ。きみにもしそれを見る明があるのならば–『ならば』じゃない、きみにはあるんだが––しかもそれを見ることを拒むとすれば、これはきみがその祈りの使い方を誤ってることになる。お人形と聖者とがいっぱいいて、タッパー教授が一人もいない世界、それを求めるために祈ってることになってしまうじゃないか」

J.D.サリンジャー『フラニーとゾーイー』野崎孝訳 新潮文庫

やっぱり村上春樹訳をやたらと読んでいたせいか、野崎訳のゾーイーは若干良い子ちゃんに思えてしまうな。もっと嫌味ったらしいズーイが個人的には好きである。

しかし私は「祈り」についてはかなり好きというか、物心ついた時から毎夜祈って生きてきたタイプの人間なのだが、人間がなぜ祈るのかについては全然わかっていない。私の「祈り」はなんの祈りなのか。何を求めているのか、祈りは何かを求めるものなのか。「何か」とは何か、救済か。

フォークナーの『八月の光』でも、ある女が「祈り」を躊躇っていたのが印象深かった。
「この女は祈りたいんだ、だけどどうしたら祈れるか知らねえんだ」
「神様、まだあたしがお祈りせねばならぬようにはしないでください。神様、もう少しだけあたしを地獄においてください。ほんのもう少しだけ」

祈るという行為は、一般に「救済」を求める行為なんだろうか。救済を求めずに祈ることはできないのだろうか。私も無意識に救済を求めて祈っているんだろうか? まぁそのタイプの祈りを『フラニーとズーイ』は否定しているとは思うのだが。そもそも私は「救済」が全然ピンときていないのだ。バタイユも滅茶苦茶「救済」を否定しているというか、馬鹿にしているというか、笑い飛ばしているというか、とにかくそんなものは求めるもんじゃないと言っている気がするので、引き続きもう少しバタイユを読むことにする。

もーーー本当にさあ、私は比較的時間をたっぷり自由に使える環境にいる幸運な人間だけれども、それにしたって時間が足りなくて嫌になりますね。読みたい本が死ぬほどあるし、読むだけじゃなくて適度に書くことにも取り組みたいし。謎に「ヒップホップの福音」特集を読んでいたら今日は終わってしまった。ギャングスタとしてのイエスについても触れたかったのだが、日記にしては長くなりすぎるし収集がつかなくなるので本日のところはここで終了とする。

20-12-09_同じ地球に生まれたの

日記書くぞ!とか言ってるうちに気付いたら12月だし今年も残すところ22日になっていた。果たして22日間のうち何日分の日記が書かれるのであろうか。

2020年は人生で稀に見る「失われた年」であったけれど、(結局『失われた時を求めて』は1ページも捗っておらず、第3巻「花咲く乙女たちのかげに」がちくま文庫の井上究一郎 訳、集英社文庫ヘリテージの鈴木道彦 訳、岩波文庫の吉川一義 訳が無駄に揃い踏みという状態を保っている)最近一つ得たものとして、恋人ができた。急に。

まぁ考えてみれば今までの人生で恋人が「急に」できなかったことがなくて、デートを複数回重ねて徐々に距離を縮め、めでたくお付き合いに至る…というパターンを辿ったことが一度もない。今までの恋人も全員突然できた。私の意思が介在し始める前に、気付いたらできている。恋とは概してそういうものなのかもしれないが、この年齢になっても相変わらずそんな調子で良いのかかなりの疑問を抱きつつ、でもできてしまったものは仕方がないので、とりあえず出来立ての恋人をしばらく眺めてみることにする。

それにしても「付き合う」ということになる前は完全に無意識で対応していたので、正直自分が何を話していたのかも全然覚えていない。怖。美術館が好きだというのでアプリでのやり取りもそこそこに原美術館に行くことになって、(原美術館に来るのはきっとこれが最後になるのに、私は一度会っただけでその後名前を思い出すこともないであろうマッチングアプリの男性と原美術館との最後の時を過ごすのか…)という謎の感慨を抱きながら原美術館を見て回った。が、結果として付き合うことになったので原美術館を最後に一緒に見た人が「名もなきマッチングアプリの男性」になることは避けられ、少なくとも私の人生に彼の名が残ることになった。

私は「付き合ってください」と言われるとびっくりして付き合ってしまう習性があるので、今回も「付き合ってください」と言われてびっくりして思わず付き合ったのだが、歳を取るほど「好きだよ」とか好意を伝えるだけでなく、「付き合ってください」とちゃんと要求できる人間というのはとにかく偉いな〜と思うので、それだけで君は偉人だと思った。歴史に名を残した。そしてふと告白という行為が偉いのは、柄谷行人がよく引き合いに出す「命がけの飛躍」または「暗闇の中での跳躍」ってやつなんじゃないかと思って、久しぶりに柄谷を読もうと思ってちくま文庫の何かを捲ったけど全く気分ではなく読めなかった。今ググったら『探究』の方っぽいからそっちを読もうかな。

色恋沙汰になるとIQが死ぬほど下がるので、いつも友人が監視してくれてありがたいのだが、今のところ「そこまで下がってなく、冷静さを保てている様子なのでうまくいきそう」とのこと。というかまだ相手のことをほとんど何も知らないのだから、それでIQが下がっていたらどうしようもない。ちなみに監視といえば、彼氏の家に行ったら前から読みたかったオライーの入門 監視』があったので意気揚々と借りてきたところ、「謎の女だ…」と言っていた。謎の女に交際を申し込んだのはお前だよ。

本当に付き合っているのか半信半疑だったのであまり人に報告していなかったが、付き合っているらしいので友人に報告すると、まあ「どんな人なのか」と聞かれる訳なのだがどんな人なのか全然わからない。今のところ私が彼について知っていることは彼が生まれた日の惑星の配置ぐらいなもので、「彼の火星が私の金星にコンジャンクションしてる」というようなことしかいえない。しかし「彼の火星が私の金星にコンジャンクションしてる」って滅茶苦茶エッチな感じしないか? 実際にこれは非常にエッチな配置です。正直ホロスコープについてはあと1万字ぐらい書けそうだが、何も伝わらない(いや伝わると思うが)(いや伝わらない)ので要約すると、とにかく彼のあらゆる惑星と私の惑星の角度がすこぶる良くて、滅茶苦茶星に祝福されている。太陽も月も金星も木星も我々を喜んでいる。

星座の瞬き数え 占う恋の行方 同じ地球に生まれたの ミラクル・ロマンス
ってわけですね。気を失ったりIQを失ったり記憶を失ったりしないようになるべく日記を書いていくぞ。

#贈与日記とは

できることなら「交換日記」をしたいのだが、あいにく「交換」する相手が見つからず、いつまでも交換が始まらないので一方的な「贈与」という形にすればいいのではないかという単なる思いつき。

ただの「日記」じゃ駄目なのかというと・結論としては駄目で、私がしたいのは個人で日記をつけることではなく、誰かに向けて書く/誰かから受け取って書く「交換日記」だからだ。
モースの『贈与論』は概要しか知らないしちゃんと読んでいないが、「贈与」は「贈与交換」であって、交換の一形態であるという。つまり「贈与日記」は「交換日記」の一形態なのだ。(屁理屈)

しかし「贈与交換」である「贈与」は果たしてほんとうに「贈与」と呼べるのか?
それは紛れもなくただの「交換」なのではないか? と疑問を呈したのは我らがデリダであって、(私は交換日記がしたいので贈与=交換で問題はないのだが)デリダ・ファンの私としては交換の一形態でしかない贈与もどきに「贈与」という名を与えていいのかという倫理的な葛藤は発生してしまう。

そして贈与といえば勿論バタイユの得意分野でもあるからして、ジャスト・アイデアで名付けた「贈与日記」だけれどもバタイユに呪われている私としてはもっと贈与について掘り下げて考えていく必要がありますね。相手のいない「交換日記」は成立するのか、そして「贈与」は「交換」でなく「贈与」たりえるのか、考えていきたいと思います。