在宅勤務の良いところはなんと言っても堂々と音楽を流しながら・歌を口ずさみながら働けるところである。とはいえあまり音楽に聞き入っても仕事が捗らないので適当にapple music のプレイリストをかけていたところ、「I don’t wanna be your personal Jesus」というリリックが流れてきたのが引っ掛かり、元々予定にはなかったジーザスのことについて考える必要が出てきてしまった。いや必要なんていうものはないのだが、魂が求めるのなら与えないわけにはいかない。求めなさい、そうすれば与えられる。
I don’t wanna be your personal Jesus.
パーソナル・ジーザス。あなたの個人的なジーザス。personal と private ってどう違うんだろうと思ったけど、まぁ私用の・個人のという意味では近しい意味なのだろうか。通常のジーザス(通常のジーザス?)はすると必然的に public Jesus だったのだなと思い至った。そうなのか? いったん今日は公的イエスのことは考えず、パーソナル・ジーザスのことを考えたい。
そんな感じで仕事中パーソナル・ジーザスのことをぼんやり考えながら勤務していたところ、お昼を食べに居間に行ったら今月号の『福音と世界』が届いていたので、まさに求めなさい、そうすれば与えられるのがキリスト教だなと感心した。『福音と世界』、個人的には最近一番面白い雑誌だと思ってるけどどうですか? 人に薦めるとこれは普通に伝道活動みたいになってしまうので薦めづらいのだが。取り扱ってる書店にわざわざ行くのが面倒なので年間購読しています。雑誌の年間購読ってとっても便利ですね。今度『ヒップホップ・レザレクション』の続編が出るようなので非常に楽しみ。(リンクしたele-king のレビュー、冒頭から「ラッパーというペルソナ」という語が繰り出されており笑ってしまった。ラッパーというペルソナを想定したことがなかった)
しかしそれにしても「パーソナル・ジーザス」とはなんなのか。私の代わりに贖罪をしてくれるのだろうか。単純に個人に最適化されたメシア=救済ということなんだろうか。『フラニーとズーイ』でフラニーがズーイにこっぴどく怒られてたやつかな、と思って久しぶりに読もうと思ったら見当たらないので『フラニーとゾーイー』を仕方なしに読む。
「お願いだから、フラニー」と、彼は言った「もしも『イエスの祈り』を唱えるのなら、それは少なくともイエスに向かって唱えることだ。聖フランシスとシーモアとハイジのおじさんを、みんなひとまとめにまるめたものに向かって唱えたってだめだ。唱えるのなら、イエスを念頭に置いて唱えるんだ。イエスだけを、ありのままのイエスを、きみがこうあって欲しかったと思うイエスではなくだ。きみは事実にまっこうから立ち向かうということをしない。最初にきみを混乱に陥れたのもやはり、事実にまっこうから立ち向かわないという、この態度だったんだ。そんな態度では、そこから抜け出すこともおそらくできない相談だぜ」
J.D.サリンジャー『フラニーとゾーイー』野崎孝訳 新潮文庫
『イエスの祈り』の目的は一つあって、ただ一つに限るんだ。それを唱える人にキリストの意識を与えることさ。きみを両腕に掻き抱いて、きみの義務をすべて解除し、きみの薄汚い憂鬱病とタッパー教授を追い出して二度と戻ってこなくしてくれるような、べとついた、ほれぼれするような、神々しい人物と密会する、居心地のよい、いかにも清浄めかした場所を設定するためじゃないんだ。きみにもしそれを見る明があるのならば––『ならば』じゃない、きみにはあるんだが––しかもそれを見ることを拒むとすれば、これはきみがその祈りの使い方を誤ってることになる。お人形と聖者とがいっぱいいて、タッパー教授が一人もいない世界、それを求めるために祈ってることになってしまうじゃないか」
J.D.サリンジャー『フラニーとゾーイー』野崎孝訳 新潮文庫
やっぱり村上春樹訳をやたらと読んでいたせいか、野崎訳のゾーイーは若干良い子ちゃんに思えてしまうな。もっと嫌味ったらしいズーイが個人的には好きである。
しかし私は「祈り」についてはかなり好きというか、物心ついた時から毎夜祈って生きてきたタイプの人間なのだが、人間がなぜ祈るのかについては全然わかっていない。私の「祈り」はなんの祈りなのか。何を求めているのか、祈りは何かを求めるものなのか。「何か」とは何か、救済か。
フォークナーの『八月の光』でも、ある女が「祈り」を躊躇っていたのが印象深かった。
「この女は祈りたいんだ、だけどどうしたら祈れるか知らねえんだ」
「神様、まだあたしがお祈りせねばならぬようにはしないでください。神様、もう少しだけあたしを地獄においてください。ほんのもう少しだけ」
祈るという行為は、一般に「救済」を求める行為なんだろうか。救済を求めずに祈ることはできないのだろうか。私も無意識に救済を求めて祈っているんだろうか? まぁそのタイプの祈りを『フラニーとズーイ』は否定しているとは思うのだが。そもそも私は「救済」が全然ピンときていないのだ。バタイユも滅茶苦茶「救済」を否定しているというか、馬鹿にしているというか、笑い飛ばしているというか、とにかくそんなものは求めるもんじゃないと言っている気がするので、引き続きもう少しバタイユを読むことにする。
もーーー本当にさあ、私は比較的時間をたっぷり自由に使える環境にいる幸運な人間だけれども、それにしたって時間が足りなくて嫌になりますね。読みたい本が死ぬほどあるし、読むだけじゃなくて適度に書くことにも取り組みたいし。謎に「ヒップホップの福音」特集を読んでいたら今日は終わってしまった。ギャングスタとしてのイエスについても触れたかったのだが、日記にしては長くなりすぎるし収集がつかなくなるので本日のところはここで終了とする。