2022-4-24_人間の条件

恋人と別れたことによって私のOSに強制再起動がかかったようで、頭がすっきりして再び考えるべきことが脳内を駆け巡るようになり、これがあるべき姿だ!と思ったのも束の間、また精神が淀んできた。と言うか、きちんと「孤独」になり切れていないのがおそらく問題なのだと思う。

ハンナ・アーレントによれば人間が独りでいる状態にも3種類あって、「孤独(Solitude)」「孤立(Isolation)」「孤絶(Loneliness)」に分けられるらしい。
「孤独」は1人でいるけれど、思考し、自分と共にいること。もう一人の自分と対話することで、その対話を通じて「世界」と繋がりを持てている状態だという。この営みを通じて人間はアイデンティティを確立し、世界に現れる自己というものが出来上がる。
「孤立」は人と人とが共同で活動する契機が奪われた状態、連帯して政治的な活動などを行うことができないように一人一人が孤立させられていることで、専制的な政府が目指すところである。仕事をしている人間もこれにあたるらしいが、ネガティブな意味だけでなく、人間が何かを生産するには他者から守られ、孤立することが必要になる場面もあるとアーレントは言っている(らしい)。
そして最後の「孤絶」は「見捨てられていること」とも訳されていて、これは「孤独」になることもできていない状態で、一人でいても自己と対話することもできず、思考が断絶されて結果的に自己の喪失にもつながってしまう。

「見捨てられている(lonely)」状況においては、人間は自分の思考の相手である自分自身への信頼と、世界へのあの根本的な信頼というものを失う。人間が経験するために必要なのはこの信頼なのだ。自己と世界が、思考と経験をおこなう能力が、ここでは一挙に失われてしまうのである。

ハンナ・アーレント『全体主義の起源 Ⅲ』

これじゃ〜〜〜〜〜ん!まさに、と思わず膝を打ったよね。すごく打った。
早く元気だすぞ!と思うあまり、マッチングアプリに勤しんでいたけど、故に「孤独」になりきれず・とはいえ人とじっくり向き合うこともできず、結果的に「lonely」な状況に自分を追い込んでいたよね、と反省した。マッチングアプリで一人一人に返事してるだけで余暇の時間が全部終わるからな、そんなん自己と対話できなくて当たり前なのよ。

マッチングアプリやってると、本当に人がいっぱいいるし、それぞれの人間に「人格」があるのか疑わしい気持ちになるというか、人間に見えなくなってくるんだよな。もちろん一人一人が独自の人生を歩んできて、それぞれ特別なオンリーワンの世界に一つだけの花…であることは間違いないはずなんだけど、めちゃくちゃ画一的な人間ばっかりじゃない?とゲンナリしてしまう。全員旅行が好きだし、NetflixかアマプラかYoutube見てて、最近はキャンプに行ったりジムに行ったり料理をしてみたりしているからな。いや、私がある程度条件で絞ってしまったが故にこうなっているのか?? 私の求める条件を満たす人間は、自動的にこういう行動をとるように最適化されてしまうのだろうか??

誕生から死まで、日曜から土曜まで、朝から晩まで、すべての活動が型にはめられ、あらかじめ決められている。このように型にはまった活動の網に捕らわれた人間が、自分が人間であること、唯一無二の個人であること、たった一度だけ生きるチャンスをあたえられたということ、希望もあれば失望もあり、悲しみや恐れ、愛への憧れや、無と孤立の恐怖もあること、を忘れずにいられるだろうか。

エーリッヒ・フロム『愛するということ』鈴木晶訳,紀伊国屋書店

マッチングアプリ再開して、複数のアプリを適当に登録してありがたいことに3000ぐらいは「いいね」もらったと思うけど、その中で「面白そうな人間」本当に数人しかいないもの。なんていうか「人間」が居なさすぎない? 仕事も娯楽も感情さえも型にはめられたように見える人たち。実際に個別に向き合えばそうではないことがわかるかもしれないけれど、とてもそんなことができないような目まぐるしい市場に身を置かざるを得ない現代の恋愛、険しすぎる。

まぁこんなこと書いてる私自身がオリジナルな「人間」として存在できているのか、型にはまっていないのか、面白い人間であるのか、というのは常に反省しなくてはいけないことだし、油断して「lonely」な状態になっていると自己を喪失してしまうので、意識的に「孤独」であらねばならないね。そして誰か人と共にいることになったとしても、ずっと「孤独」でい続けなければいけないし、今度こそそれを手離さないようにしようと思う。

しかしアーレント全く読まずにこれ書いたけど、「人間」が世の中に居なさすぎるような気がするし、ここで『人間の条件』でも読もうかな…(ヘーゲルを読め)

2022-04-14_鎮痛剤

失恋の痛手がボディーブローのように効いてきたというか、精神的にはむしろ淀みから抜け出たようなある種爽やかな軽快さがあったりするのだけれど、フィジカルの方にダメージがダイレクトに来ていてライフポイントがジワジワと削られているのが今。お願い!死なないで城之内! と思いながらゴールデンカムイを読むことで辛うじて人間の形を保っているが、しかしその一方で、本当は気を紛らわせている場合ではなく、できるだけこの強烈な痛みや感情が去ってしまう前に、薄まってしまう前に、それを直視して味わい尽くしておかなければとは思っている。

以前のわたしは、生理痛やその他頭痛や何か痛みがあるときに、すぐ鎮痛剤を飲むことに妙な抵抗があって・なるべく痛みを痛みのままにさせておきたいようなところがあった。いつの間にかすっかりそんな気力が衰えたのか、仕事を優先するためのプラクティカルな理由からか、躊躇いなく痛み止めを飲むようになった。なんとなくこれは、今の私の精神的な痛みに対する態度と通ずるものがあるような気がしている。

これはまたお馴染みの脱線なんだけど、人間は鎮痛剤を飲むと他者の痛みへの共感も薄まるらしい。ついでに他者への共感性が高い人間はその分ストレスを感じやすく、結果的に不親切になりやすいらしいので、そういう人は鎮痛剤を飲むと共感が薄まっていい感じになるかもしれないよねと思った。会社に一見人当たりがよくていつもニコニコしてるんだけどその実めちゃくちゃ失礼で仕事のできないおじさんがいるんだけど、あの人ももしかしたら周囲に気を遣いすぎてストレスを感じて結果的に不親切&仕事ができない状態になっているのだとしたら、鎮痛剤を投与することで共感性が薄まって仕事ができるようになるのではなかろうか…とまぁまぁ真剣に考えたりしていた。でも鎮痛剤はあくまで「他者の痛み」に対する共感を薄めるものだから、あまり意味はないのだろうか?

「痛み」と向き合うということを考える時、いつもわたしは『ハチミツとクローバー』のはぐちゃんが、大怪我を負った後に鎮痛剤を使わず全身の痛みに耐えながら自分の手の先の感覚があるか探り当てようとする場面を思い出す。鎮痛剤を使えば耐え難い痛みを抑えることはできるけれど、同時に感覚も麻痺してしまうから、己の感覚の微かな印を、一筋の希望もまた紛れて見失ってしまうことを彼女は恐れて、必死に痛みに向き合っていたんだよね。

気を紛らすためにインスタントな慰めを求めても却ってゲンナリしたり神経をすり減らすことになるから良くないな〜と思っていたけど、それよりももっと悪いのは、むしろ本当に「慰め」がすぐに手に入ってしまって、何の反省もなく手元にあったはずの痛みを忘れてしまうことだろうなと思う。

わたしはすぐに空元気を出して動き回る人間だけど、少し落ち着いて男を殺す小説を書く準備をしようね。

2022-04-09_弁証法とフランスの論理

もう既に何がきっかけだったか思い出せなくなっているけれど、突然目が覚めたような思いがして、諸悪の根源は、自分自身と向き合わずにただひたすら「気をまぎらわす」ことに努めていたことだと気がついた。こんなことわざわざ言うなんて、正直ダサいし馬鹿みたいで恥ずかしいけれど、まぁそんなダサくて馬鹿みたいで恥ずかしいのが今の自分なのだから、つらくてもまずはそこを受け入れましょうね。

精神の生(Das Leben des Geistes)とは、死を避け、荒廃から己れを清らかに保つ生ではなく、死のただなかに己れを維持する生である。精神がその真理を獲得するのは、ただ絶対的な四分五裂のただなかに自己自身を見出すことのみによっている。精神がこういう力であるのは、われわれがあるものについて「これは無である」とか「これは偽である」とか言って、ただちにそれを片付けて何か他のものに移っていくときにするように、否定的なものから目を背ける肯定的なものとしてではない。そうではなくて、精神がこういう力であるのは、否定的なものをはっきりと直視し、そのもとに足を停めることのみによっている。この足を停めることこそ、否定的なものを存在へと逆転させる魔力なのである。この魔力は、さきに主体(Subjekt)と呼ばれたものと同じものである。

ヘーゲル『精神現象学』序文

ヘーゲルは私からすると「友達の友達の友達」とか「曽祖父」ぐらいの距離感にいる人で(むしろもっと遠いのでは?)、名前はよく出てくるけど実際には何も読んだことはなく・まぁ流石に読むこともないのではないかと思っていた。が、朝カルで高橋哲哉の「現代思想と「犠牲の論理」」の講義で引用されていたのが上記の文章で、はーーー今の私に必要なことっぽい…と反省したし、最近やりとりをしている人も「It’s never too late to try…」「You can start with Phenomenology of spirit」とか煽ってくるので性懲りもなくヘーゲルにも手を出すことにした。

ちなみにこの間読んだ『「論理的思考」の社会的構築 フランスの思考表現スタイルと言葉の教育』が滅茶苦茶面白かったんだけど、これによればフランスの「論理的思考」=論文の構成は、すごく弁証法的なんだよね。与えられたテーマに対して、必ず「正」の立場と「反」の立場から論証を試みた上で、その両者を超える「合」を目指していくというスタイル…。この本で取り上げられているのはフランスのバカロレア試験での小論文と、そしてその準備としてのフランスの教育カリキュラムについてで、すべての教育はそのスタイルで論証できるようになるために組み立てられていると言ってもいいぐらいで、その無駄のなさ、合理性が感動的ですらある。

そもそものフランスの国としての教育の理念が「市民の育成」で、国家に反抗できる強い個人を作るというようなところにあって、国家が国民に対して「必要ならば革命を起こせ」というようなことを教えるなんて信じがたいな〜〜〜 特にこの日本に生きている身としては。。。と感動した。日本は学校教育を通して「自分では何も考えず、上の言うことは絶対なので疑問を持たず、規則にしっかり従える人間」を作ろうと思ってるとしか思えないもんね、そんなん長期的に国家の衰退しか招きませんよねえ。こうやって国家とか言い出すと今度は「国家」とは…ってなって、結局またヘーゲルを読もうという話になるんだよな。

ちなみにこの本を読まなくても著者へのインタビューの記事も面白かったのでそれだけでもどうぞ。「論理的思考」の落とし穴――フランスからみえる「論理」の多様性

フランスの論理と比較される形で出てきた「アメリカの論理」(論証構造)は、いわゆる5パラグラフ・エッセイで、よくある「主張」→「エビデンス×3」→「主張の確認」というスタイルなのだけど、確かにこれだと片側の主張のみだけで成立するから「エビデンス」さえ集めてしまえば「論理的に正しい」ことになってしまう危うさがあるんだよな。昨今の陰謀論も、一応これに則って(支離滅裂だとしても)「エビデンス」持ってくるからそれなりに「論理」があるように見えてしまう、否定するのがダルい、反対意見と平行線を辿ってしまう、となっているのでは?? と思った。フランスの論理で物事を考えていたら陰謀論ハマらなそうな気がするんだけど、フランスでも陰謀論って流行ってるのかな〜。

もっと講義で聞いたヘーゲルとニーチェの話しようと思ってたのに何故か論理的思考の社会的構築の話になってしまった。まぁヘーゲルはこれから読むところなのでまだ何の話もできないが、まぁニーチェも生きるということとは「力」を肯定することだと言っているし、「否定的なものをはっきりと直視し、そのもとに足を停める」力を付けて頑張って生きていくぞという感じだ。

2022-04-04_彗星とこねこ

なかなか日記を書けなくなったのは、家でPCを開くことのハードルが上がったためだと考えられるので、試しにiPhoneから日記を書けるものかやってみる。文章の練習をピアノの練習になぞらえるなら、当然鍵盤を叩くようにキーボードを叩きたいものだけれど背に腹はかえられない。

薄々予感はしていたものの、やはり別れた方がいいのかもしれない、という話を日曜日に彼からされた。正直なところ私もずっともやもやしていて・そうすべきなのかもしれないとは思っていたから、(それでも私から彼を手離すということには、どうしても踏み切れなかったから) それではここでお別れとしましょうということにした。もやもやした状態を続けていくよりはすっきりして良かったなぁと素直に思ったし、意外と全然元気だな〜と思っていたが、その夜はどんなに湯船に浸かっても・白湯と麻黄湯を飲んでも・暖房を付けてライトダウンを羽織っても、身体の芯が凍ったようでまったく暖まらず、凍りついた身体の中でかろうじて拍を打つ自分の心臓を抱えるようにして、ただただ部屋の暗がりを眺めていた。思わず泣きついた友人には、「明日のことは考えず、震えながら日記なり何なりを書き殴ったほうがいい」と言われたので、眠る努力よりは眠らない努力に力を傾けたけれど、何かを考えたり書いたりするよりも明らかにバグっている身体感覚を味わっているうちに夜は更けていき、いつの間にか眠りについていた。

実のところその夜の時点で「絶対に明日は会社休む」と決意していたので、朝起きてまだ凍りついている身体を確認し、速やかに病休の連絡を入れた。本当のところなら忌引きの特別休暇として5日間ぐらい休みたいところですよ。パートナーを無くしたわけなんだから。

母親に関するあれこれで有休をほとんど使い尽くしてしまっていたから有休を取るのは久しぶりで、その上何の用事もない、無為に過ごせる休日! 雨も降っていて引き続きあまりにも寒いので、ブランケットにくるまりながら猫を膝で寝かせ、こないだ箱買いしたムーミンを読み始める。そして明るいうちからもう一度お風呂を沸かして、前に友人にもらったバスオイルを入れてしっかり浸かると、ようやく少し身体の芯がほぐれてきたような気がした。明るい時間に入るお風呂は身体と精神に良い。

だれだって、自分のねこがどこにいるのか、たしかなことは知りません。たしかなのは、ものすごく自分をすいていてくれるということを、態度でしめされることだけです。

ヤンソン『ムーミン谷の彗星』下村隆一訳,講談社文庫,p187

とりあえず1作目?のムーミン谷の彗星を読み終えたけれど、スニフとこねこの関係がすごく良かったし、こねこの振る舞いが本当に猫で (それはそう) 猫への愛しさが一層増した。どんなに遠く、知らないところまで旅をして、人と出逢い、彗星のことを知り、地球の終わりを目前にしたとしても、このちいさくて自分勝手でただ態度で愛を示してくれる生きものがそばにいてくれるということが1番重要なことだった。

ほんとうに、わたしのねこが今わたしのそばにいてくれてマジで助かってるし、絶対守るし私も愛を態度で示すからね…となったのでした。

2022-04-02_新生活

私個人としては新年度でもなんでもないが、世間的にはそんなタイミングなわけで物事を仕切り直してまた始めるにはいい機会なのだろう、と思ってまた日記を書き始める。

Twitterも前ほど熱心にやらなくなってしまったし、日記も書いていないものだから文章力が落ちているのは勿論のこと、生活から乖離した:抽象的な、形而上的な物事を考えたり持論を展開する筋力が何よりも落ちている気がしていて、それは即ち私を私たらしめていたはずのものがいつの間にか抜け殻になっていたような、そんな危機感を覚えていた/いる。

収容所では、肉体の維持が最も重要となる。だが、肉体にのみ関心を向ける生き方は、多くの場合、人間の尊厳を傷つける。まさに「人はパンのみにて生きるわけではない」のであり、精神的活動がなければ日々はただ生存の連続にすぎなくなってしまう。精神の活動こそが、今日を昨日と区別し私を他者と区別する。

ジョゼフ・チャプスキ『収容所のプルースト』岩津 航 訳,共和国

折に触れて『収容所のプルースト』の、おそらく確か解説にあったこの文章を思い出す。そうなんだよな、「精神的活動」がなければそれはただの生存でしかなく、昨日も今日も明日も変わらず淡々と時だけが流れ、私が他の誰かではない「私」であるということが、よく分からなくなってしまう。だからこそ改めて「私」を、私が好きだった私の形を取り戻すために、また文章を書こうと思っているわけだけれど、本屋をぶらぶらしていてなんとなく手にとった『文章表現 四〇〇字からのレッスン』でも「私たちは日々人間として生きていますが、生きていることの喜びの根底にあるのは、自分がこの世にかけがえのないものとして存在するという自覚です」とあって、おそらく本当にそうなんだろうなぁと思った。ただの自己満足だとしてもこうして文章を書いたりしているのは、それが生きることの喜びで、それがなければ生きてる意味なんて全然ないように思えるからなのだ。

しかし生きていること/人生の意味って本当になんなんだろうね。but これについて書き出すとびっくりするほど暗い人間っぽくなってしまうので本日は割愛。

私たちにはまだ思考し、そのときの状況と何の関係もない精神的な事柄に反応することができる、と証明してくれるような知的努力に従事するのは、一つの喜びであり、それは元修道院の食堂で過ごした奇妙な野外授業の間、私たちには永遠に失われてしまったと思われた世界を生き直したあの時間を、薔薇色に染めてくれた。

ジョゼフ・チャプスキ『収容所のプルースト』岩津 航 訳,共和国

第二次世界大戦下のポーランド。ソ連の捕虜が収容されていた元修道院で、捕虜たちは明日への希望も持てない中でなんとか精神の荒廃から身を守ろうと、持ち回りで自分の得意分野について講義の時間を持つことにした。そこの捕虜の一人だったチャプスキがプルーストの『失われた時を求めて』について講義をしたときのノートを元にしたのが、この『収容所のプルースト』。勿論手元に著作なんてない状況下で、チャプスキは全て自分の記憶を頼りにストーリーを語り、引用し、解説する。本人によれば、これは文学批評ではなく、もう二度と生きて読み返せるかどうかも分からなかった、自分にとって大切な作品の思い出なのだという。

零下40度にもなる壮絶な環境での労働の後、疲れ切っているはずなのに食堂に詰めかけて『失われた時を求めて』についての講義をみんなで聞くなんて、本当に信じがたいことだし、普段は役に立たないとか言われてるかもしれないが、こうやって我々を生かしてくれるのが文学の力なのだなと改めて感動してしまった。生きるためにはパンだけでなく、薔薇も求めなくては。生きることは薔薇で飾られねばならない(ウィリアム・モリス)。というが、飾りどころか私にとっては文学や芸術こそがパンみたいなところはあるんですけれどね。それを分かってくれる人というのは存外少なくて悲しいですが。

とりあえず精神の荒廃を防ぐために、精神的活動をアクティベートしていくぞという決意表明日記でした。

2021年読んだ本ベスト10

2021年まじで全然本を読めていないな…という感想ですが、とはいえこの1年自分が何を読み・何を考えていたのか振り返るために無理やりベスト10を捻り出しました。
今回も良かった順のランキングではなく、概ね読んだ順に並べています。

ファビエンヌ・ブルジェール『ケアの倫理 –ネオリベラリズムへの反論』原山哲/山下りえ子訳,文庫クセジュ,白水社

最近取り上げられることが増えたように思う「ケア」という概念だけれど、この本を読んだ時点では正直なところあまりピンときていなかった。フェミニストであると自称するのも憚られるほど「フェミニズム」関連の本や議論を追えていないけれど、昨年友人とフェミニズムの話をしたときに「ケア」の話題を出されたので(ひとまず履修しておくか…)ぐらいの気持ちで手にとったのがこの本だった。

かつてないほど、私たちは「ケア」(care)の倫理を必要としている。人類はみずからの弱さをますます自覚しているが、他者へ関心をもち、他者に配慮する実践を展開することが、共に生きること、社会をつくる仕方を考えることになる。万人の万人にたいする競争、とどまることのない金融投機の資本主義において、どうしたら、自分だけに閉ざされず、他者と共に生きることができるのだろうか?

ファビエンヌ・ブルジェール『ケアの倫理 –ネオリベラリズムへの反論』原山哲/山下りえ子訳,文庫クセジュ,白水社,p7

この日本語版序文の書き出しから、あぁこれは私が学ばなければいけないことだ、と読む姿勢を改めた気がする。「ケア」というと、どうしても子育てや介護、家事といった「人の世話」に関することが思い浮かぶし、実際にそういった具体的な状況も重要なのだけれど、ケアとは広く他者への関心、他者への配慮、そして他者と共に生きるということについて考えることなのだと知った。また私が今まで「ケア」に無関心だったのは、自分が常にケアされる側であり、ケアされていることにすら無自覚だったからなのだと気付かされた。病気と治療の副作用によって徐々に身の回りのことができなくなる母を「ケア」し、今まで母が担っていた家事を引き受けるうちに、私がいかに母によるケアを搾取することで自身を成り立たせていたかということを痛感した。私はずっとこの社会構造において犠牲者ではなく、他者の犠牲の上で自分の自由を謳歌する特権を持つ加害者だったのだと、そして自身が持つ特権や加害性を自覚するのは難しいということを。

この本はキャロル・ギリガンが『もうひとつの声』で提起した問題、「配慮すること」=「ケア」が主に女たちに任されてきたこと、そしてそれらがいかに隠蔽され、議論されず、無視されてきたかということから論じ始める。そして書名にもあるように、企業家としての個人が称賛されるネオリベラリズムの社会が、「ケア」の仕事に従事する女たちや移民などを搾取することで成り立っていることを糾弾する。ケアの倫理は、まず低い地位に留められてきた「配慮の仕事」の絶対不可欠さの承認を要求し、私的なこと/公的なことの相補性を問うだけでなく、その基底である社会の在り方自体に変革を求める。この本の良いところは、これまで普遍的であると考えられてきた「道徳」がいかに家父長制の男性中心に形作られてきたものか、カントの道徳論を受け継ぐジョン・ロールズの政治リベラリズムを批判したり、十八世紀の実践哲学まで遡って現在の社会へと至る系譜を明らかにしようとしたりするところですね。フーコーの議論も引き合いに出されていて、あ〜フーコーやっぱり読まないとね…と思いましたが結局フーコーは入門の新書を1冊読むに留まりました。文庫クセジュあるあるだけど、翻訳のせいかわからないが「大事なことが書かれていることはわかるが頭に入ってこない」が結構多発して、凄くいい本なような気がしているけどちゃんと理解できているか自信はないし、まぁまぁわかりづらい&読みにくい本かもしれない。

ケアに関する本といえば ジョアン・C・トロント『ケアをするのは誰か? 新しい民主主義のかたちへ』岡野八代訳,白澤社 も読んだ。これはジョアン・C・トロントによる講演録と、トロントの思想の歩みについて訳者による解説で成り立っており、「ケア」の概念と問題提起について整理されていてこちらの方が概要としては掴みやすいかもしれない。『ケアの倫理』で取り上げられていた哲学・思想への言及はあまりないので、そっちを先に読んだ私としてはちょっと物足りなく感じたけど。原題は “Who Cares?” なので、「誰がケアするのか?」という意味と「自分が知ったことではない」というケア活動を誰かに押し付けておくことのできる特権的な人間の無責任さを皮肉るダブルミーニングになっているところがイケてる。ちなみに ケア・コレクティヴ『ケア宣言 相互依存の政治へ』岡野八代+冨岡薫+武田宏子訳,大月書店 も買ったけど絶賛積んでまーす!関連しそうな書籍としてはカトリーン・マルサルの『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?』も面白そうなので来年読みたいな。

「ケア」に関する議論、道徳と倫理の話でもあるので道徳と倫理についても考えを深めようと思ってバーナード・ウィリアムズ『生き方について哲学は何が言えるか』も読んでたけど情報量が多くて全然読み進まないんだよね!助けて〜!文章はわかりにくいわけじゃないし・むしろスーパー理路整然としてて頭が良い人間の文章ってすごいな〜と感心するばかりでまじで読み進まないんですよ。助けて〜〜!! バーナード・ウィリアムズのことは全然知らずになんとなく読んでたけど、後から読んだ佐藤岳詩『「倫理の問題」とは何か メタ倫理学から考える』 にも登場していたのでこれを読んでいた直感は正しかったな、、(?) と思った。伊藤亜紗の『手の倫理』は私は全然だめで、序盤にムカムカしてからは怒りながら読んだので正当な判断ができてないかもしれないけど、読んだ人いたらどうでしたか? 序盤の「道徳」と「倫理」に関する話がどうも腑に落ちなかったんだよな。振り返ると意外と道徳と倫理関連の本を読んでたんだなぁと思うけど、全然覚えてなくてもうだめです。

キム・ハナ/ファン・ソヌ『女ふたり、暮らしています。』清水知佐子訳,CCCメディアハウス

「その当時の私は信じていた。ひとりは秩序と似ていると。早くて、楽で、美しいという点で。」

私も基本的にひとりで行動することが好きだ。もしかすると積極的に好んでいたわけではなく結果的にもたらされたものだったかもしれないけれど、それでもひとりで行動するときの完全な自由さを気に入っていた。ひとりでいれば、無茶なハードスケジュールを組んでも自分が疲れるだけだし、わざわざ見に行ったものが退屈でも気まずくならないし、家が散らかっていても問題ないし、何を食べるのも食べないのも自分の自由だ。ひとりでいるのはとにかく楽だ。思うようにいかなくてイライラすることもないし、こちらが相手に迷惑をかけたり/不快に思わせたりする心配もない。それでも、この自由さが時々無性に空しくなることがある。

今でも私は、ひとりで食べるご飯をおいしいと思うし、ひとり旅の気軽さが好きだ。その一方で、こう思うようになった。ひとりですることはすべて記憶になるけれど、一緒にやれば思い出になると。感動も不平不満も、心の中でつぶやけるだけつぶやいた後には口に出して確認したくなるものなのだ。

キム・ハナ/ファン・ソヌ『女ふたり、暮らしています。』清水知佐子訳,CCCメディアハウス,P23

私はおそらくひとりを相当満喫できるタイプの人間だし、むしろひとりの時間がないと死にそうな人間だけれど、自分のためだけに、自分ひとりの満足のために生きるのにはほとほとうんざりして飽きてきたというのが正直なところだ。誰かと共にいるということは厄介で、めんどくさくて、自由が制限されて、ひとりでいることが秩序であるならば・誰かといることは自分の世界に混沌が持ち込まれることだ。キム・ハナとファン・ソヌは凄く趣味があって意気投合できる友人であったけれど、一緒に暮らしてみたらまるで正反対の性質の持ち主であることが発覚して、これだけ性質の違う人間がよく一緒に暮らせるな…と感心してしまう。もちろんそれ故にぶつかることもあるわけだけれど、どうやってそれを乗り越えるか、むしろ自分と正反対の人間から何を感じて何を学ぶか、ということがお互いの視点から書かれていてすごく参考になったし、あぁ人と暮らしたいなぁと思わされた。孤独を避けるためには基本的に「結婚」しかない(と思わされている)社会の中で、恋人ではない友人をパートナーとして、一緒にローンを組んで良いマンションを買って共に暮らすという選択肢… 本当に素晴らしいしなぜ私はこれをやっていないのか…なぜできないのか… と遠い目になってしまうが、実践していることの凄さに比べると文章や発想は軽やかで本当に愉しくて良い本だった。パジャマが「くつろぎのためのスーツ」と呼ばれていたのに触発されて思わずシルクの可愛いパジャマ上下を買ってしまったぜ。

カルヴィーノ『アメリカ講義 新たな千年紀のための六つのメモ』米川良夫・和田忠彦訳,岩波文庫

なんで急にこの本を読んだのか全く思い出せないけれど、多分何かで言及されていて読んだのでしょう。これはイタロ・カルヴィーノがハーヴァード大学のノートン詩学講義に招待された時の講義録を本にしたもの。ノートンレクチャーズといえば、ボルヘス( This Craft of Verse『詩という仕事について』岩波文庫)やオクタビオ・パス( Children of the Mire: Modern Poetry from Romanticism to the Avant-Garde 『泥の子供たち ロマン主義からアヴァンギャルドへ』水声社)も講義をしていてそれぞれ本になってますね、『泥の子供たち』がそうだという情報は日本語でググっても出てこないが、講演のタイトルからしてまず間違いなくそうだよね? ボルヘスは大学の頃に読みすぎて以来読んでないのでよく覚えていないが、泥の子供たちは最近読んでとても面白かったのでおすすめ。

「新たな千年紀のための六つのメモ」とあるように、これからの1000年に遺すべき文学の6つの価値をあげて、厖大な書物へ言及・引用しながら軽やかに議論を進めていく、その教養に裏付けられた知性が眩いばかりで、博識な人間が大好きな私は読んでいてどうしようもなく嬉しくなってしまう。ギリシャ神話からルクレーティウスの『事物の本性について』、ダンテからカヴァルカンティを経由してエミリー・ディキンスンへ、シェイクスピアとホロスコープの秘教的哲学からシラノ・ド・ベルジュラックへ。スウィフトとニュートン、民話とデカメロン、シェヘラザード、メルクリウスとウルカーヌス。縦横無尽に枝分かれし、脱線し、時代も、国も、ジャンルも飛び越えて自由に伸びやかに広がる話題を追っていくのはこの上ない喜びで、本を読むことの純粋な楽しさを久しぶりに味わえた。イタリアの作家の小説など知らないものもたくさんあったけど、『なぜ古典を読むのか』 しかりカルヴィーノは本を紹介するのがすごく上手いのでどれも読みたくなりますね。実際に読むと(カルヴィーノの紹介文の方がずっと面白かったな…)となる場合もしばしばなんだけど。

エツィオ・マンズィーニ『日々の政治 ソーシャルイノベーションをもたらすデザイン文化』安西洋之・八重樫文訳,ビー・エヌ・エヌ新社

カルヴィーノの次に挙げたこの本ですが、今両方とも読み返していたらこの本とはジークムント・バウマンのリキッド・モダニティ(液状性)という共通点があった様子。全然意識してなかったしバウマンも読んでいないけど。

さて、カルヴィーノが講義草稿のなかで掲げている「軽さ」は、おそらくジークムント・バウマンのいうポストモダンの特性である(「固定性」にたいする)「液状性」に相当するといっても差し支えないでしょう。「分子構造が有する流動性」と言ったほうが、よりはっきりするかもしれません。マルクス思想の流れをくむ隠喩でもある「流動性」(=「液状性」)に《近代》と《近代後》の《いま》を分かつ特性をもとめる社会学者バウマンが、一九二三年生まれで二歳年長のカルヴィーノとほぼ同世代であるという事実も、そしてカルヴィーノ自身が戦中つまり一九四〇年代から、イタリア共産党入党、そして五六年のハンガリーでの出来事を契機としての(除名に等しい)離党を経て、一九八〇年代にいたるまで、一貫して《アンガージュマン》の方途を模索するなかで、《近代後》の二十一世紀にあっても、文学の可能性を称揚するために「軽さ」という価値を掲げるにいたったという経緯も、一見およそ交わるはずのないふたりの同世代人が思考の果てに収斂する不思議を解き明かす手がかりとなるのかもしれません。

カルヴィーノ『アメリカ講義 新たな千年紀のための六つのメモ』米川良夫・和田忠彦訳,岩波文庫,P271(和田忠彦「解説」)

ぼくとしては、バウマンの危惧、そして彼と同じように、今日見るような液状化した世界の悲劇を嘆く人たちの危惧に心を寄せている。だが、ぼくは今の現実にある液状的な特質と、その特質が引き起こす問題、これらの二つを区別したい。そして、液状の世界は今日われわれが生きている世界よりも好ましい–こう仮説を立ててみたい。それは、先の固定的な世界よりも望ましいかもさえしれない。煎じ詰めると、厳密にいえば昔日にあった固定的な世界、あるいはもっと突っ込んで表現すれば、ぼくたちが固定的とみなす文化が、今ある環境や社会の災難を導いてしまったのである。しかし液体の世界のメタファーを使うことによって、ぼくたちはどうすればここで生きられるかがきっとわかる。ある意味、ぼくたちを取り囲むすべての流動性に対し、さらに軽快に、より順応することで生きられる。

エツィオ・マンズィーニ『日々の政治 ソーシャルイノベーションをもたらすデザイン文化』安西洋之・八重樫文訳,ビー・エヌ・エヌ新社,P22

なんか普段の私なら読まなそうな本な気がするけど、春に京都に行った時に訪れた恵文社で目に止まってなんとなく手にとった。著者はサービスデザインとサステナブルデザインの世界的リーダーで、ソーシャルイノベーションと持続可能性のためのデザインの国際ネットワークの創始者とのことで、なんか最近のトレンド全部盛りか…?と肩書きだけ見るとなんとなくヒャっとなってしまうのだが、実際に読むと上にあげたバウマンしかり、ルクレティウス、ミシェル・セール、エドガール・モラン、アンソニー・ギデンズ、レヴィ=ストロース、ミシェル・フーコー、ハン・ビョンチョル、シャンタル・ムフ…と色んな思想家を参照しながら検討を進めていくスタイルが私好みで、なんとなくカルヴィーノの講義も彷彿とさせる…と思いながらパラパラ読み返してたら謎が解けたんだけど、そもそもこの本でカルヴィーノの『アメリカ講義』が引用されていたからカルヴィーノを読んだっぽいですね。前後が逆転してしまった。そりゃ繋がるものがあるわけだわ。

エツィオ・マンズィーニは「デザインは倫理的に選択をする行為だ」と定義していて、ここでも改めて現代に必要なのは倫理…という確信を深めた。公共財を破壊するネオリベラリズムとグローバリゼーション、反動的に力を増しているナショナリズムや人種差別主義のイデオロギーの圧力のなかで、われわれはどうやって生き延び、より良い社会を作っていけるのか? それにはまず個人が倫理的で政治的な選択を行うこと、そして同じ場所で生活する人たちと一緒に、毎日の生活のなかで抱える問題について取り組むこと。決して世界は統一されたロジックで動く巨大な機械ではなく、「液状化」した世界だからこそこれまでと違ったように考え、実践できる余地が常にあるのだと著者は説く。現代社会の抱える構造的な問題には絶望的な気持ちになるけれど、それでもまずは小さなことから、身の回りのことから始められるのだというポジティブな気持ちを抱かせてくれる良い本だった。

杉浦勉+鈴木慎一郎+東琢磨 編著『シンコペーション ラティーノ/カリビアンの文化実践』エディマン

これ、めっちゃくちゃ面白かった! 去年読んだ杉浦勉さんの『霊と女たち』が大変に良かったのでこの人の著作他にもっとないの…?と思って探してあてた15人の執筆者による雑誌形式の本。「シンコペーション」とは音楽用語で強弱を転換させるリズム上の技巧のことで、ここでは文化におけるリニアで進歩主義的な時間の流れに風穴を、異質なものへと通じていく裂け目を開けるような実践のメタファーとして用いられている。また、ポール・ギルロイの『ブラック・アトランティック』(私は読もうとして挫折しました)のなかで触れられている「シンコペートされた時間性 syncopated temporality」に直接的にインスパイアされているとのこと。ギルロイが黒人音楽によって繋がっていく解釈共同体をオルタナティブな公共圏として論じたように、「国民」という均質な共同体を可能にする時間感覚とは別の存在の方法。ラティーノ/カリビアンというカテゴリーも非常に多義的で、アメリカ在住のラテンアメリカ/スペイン語圏カリブ海地域の出身者という定義だけでは収まらず、(今までの私のその文化圏に対する解像度が低すぎたということもあったのだけれど)想像以上に複雑で多様な文化があって、眼から鱗は落ちっぱなしだし、激しく目を開かれる思いがした。

「ぼくにとってグラフィティは政府による抑圧(そしてそれに対する無関心)、社会的、人種的障壁、そして物質的所有を簡単に乗り越える方法なんだ。それはまた世界中の人びとを、決してそれ以外じゃできないようなやり方で —人びとがどんなに違おうとも— 結合させる運動に飛び込むことでもあるんだ」(Sound One, ICB, AS バークレーのライター)

酒井隆史「タギングの奇跡 都市をレイヤリングするグラフィティ」『シンコペーション ラティーノ/カリビアンの文化実践』エディマン,P54

ニューヨークのワシントンハイツにおけるドミニカンコミュニティとダンス、クラブカルチャー、カナダにおけるマルチカルチュラリズムの問題点とカリビアン・ディアスポラの実践、ロサンゼルスのチカーノ文化、都市に現れるグラフィティを巡る攻防、ラティーナフェミニストのパフォーマンス、カリブ海地域の女性による「語り」、物質化し讃えられるキューバの神々… とても紹介しきれないけどどれも面白くて超勉強になった。

そのなかでも「連結する路上 音楽/スタイルの脱場所とコミュニティの詩学」という東琢磨さんによる「サルサ」の拡散と多義性、具体的な実践に関する論考で触れられていた空間の戦術としての「小さな家(カシータ)」がなんとなく印象に残っている。低所得者向けの高層建築の谷間にカリブ風の小屋を作り、プエルトリコ音楽の演奏やパーティと連動させる、不法占拠によるサイト・スペシフィック・アートの試み。そこでは社交や料理、カードゲーム、小規模な菜園づくりなどが行われ、BBQのためのパティオや庭、ベンチ、壁画などがフェンスで守られていて、ぬいぐるみの動物や、石膏やプラスティックでできた聖母像、絵画、彫刻を施した飾り枝などが飾られている…。

また、リッパードは、このプロジェクトを「ヤード・アート Yard Art」の文脈につなげて論じている。リッパードが紹介しているヤード・アートはミシシッピなどの南部の地方や郊外での中庭を使ってのフォークロリックなインスタレーション。この場合の「ヤード」は、南部のアフリカン・アメリカンの文化伝統の空間としてある。音楽、キルト、アートがヤードにインストールされる。リッパードはそうしたアートの都市における類似性・連続性を「カシータ」に見ており、その舞台となる空間を「セミパブリック・スペース」という言い方をしているわけだ。

東琢磨「連結する路上 音楽/スタイルの脱場所とコミュニティの詩学」『シンコペーション ラティーノ/カリビアンの文化実践』エディマン,P242

なぜ私がこれに惹かれたかというと、秘密基地的な、文化的シェアスペースとしての小屋というイメージはもちろんなんだけど、ベル・フックスが語っていた南部のアフリカン・アメリカンの生活の中での美の実践につながっているから。

南部の黒人男性で、反権威的な美学の持ち主であれば、経済的には恵まれなくても精神の豊かさを持っていることはしばしばあった。白人至上主義と資本主義の力が意義ある仕事へのアクセスを彼らに禁じても、彼らは自らの魂を成長させ、自分自身を支える方法を編み出してきた。私の祖父、ダディ・ガスの場合には、創造しようとする意志こそが生命を支えた。彼にとって美は、拾ったもの、捨てられていたが彼の言葉によれば「そこには霊が宿っていた」ので、彼が救いだして修理したものの中に存在していた。彼の部屋 —私たち子供にとっては、贅沢で、歓迎されていると感じられる場所— は、「たからもの」でいっぱいだった。その貴重な「美しい」品々の聖域に入ると、私たちは、平和と静謐の雰囲気に包まれた。仏僧チョグャム・トルンパは『シャンバラ —勇者の道』で、私たちは自分のいる場所で優しさと正確さを表現することによって、そのような環境を作り出すと教えている。「あなたは土間で窓が一つしかない、泥でできた小屋に住んでいるかもしれないが、もしその場所を聖なる場所とみなせば、もし頭と心をつくして手入れをすれば、それは宮殿ともなるのです。」

ベル・フックス「ありのままの美 –ありふれたものの美学」『アート・オン・マイ・マインド アフリカ系アメリカ人芸術における人種・ジェンダー・階級』杉山直子訳,三元社,P164

でもこれも彼女の祖父・祖母たちの世代までのことで、彼女の母の世代からはアメリカの主流的な価値観:広告や映画やカタログの中で見るさまざまな商品に美を見出すようになってしまった、と書いている。祖母も母も、美しいものは人生を高めてくれ、状況がひどいほど気を取り直し希望を持つために必需品とは別の「贅沢な」「美しい」ものが魂には必要であるという点においては意見が一致しているのだが、その美的基準が今や異なってしまったのだと。快楽主義的な消費文化が、アフリカン・アメリカンの人々が持っていた過去の工芸品を捨てるか、破壊するか、売るように唆し、心を慰める効果を持つ美的感覚を喪失させた、と。もちろん偏執的な物質主義は批判されて然るべきなのだけれど、生活と魂を豊かにする美を、創造性を発揮する機会を、既存の支配構造を強化することなく情熱を満足させる方法を求めていくべきだとベル・フックスは説いている。本当にこの「美」や物質的な満足を求めることと、資本主義・物質主義批判を両立させるのってなかなかに難しいことだなぁと思うんだけど、一面的に批判するのではなく両立させる道をなんとかして選んでいこ!というベル・フックスには頭が下がるばかり。あとこの論考の中で引用されているアリス・ウォーカーのエッセイ「母の庭をさがして」も読みたいなぁと思って入手したけど絶賛積んでいま〜す!

久保明教『「家庭料理」という戦場 暮らしはデザインできるか?』コトニ社

この本は多分日記でも一度紹介したのだけれど、ブルーノ・ラトゥールのアクターネットワーク論の本なども書いている著者が、1960年代から現在に至る家庭料理をめぐる諸関係の変遷を、これまでに刊行された料理研究家によるレシピ本を収集して実際に作りながら、分析していくという実践✖️考察の本。カツ代(小林カツ代)とはるみ(栗原はるみ)のレシピ対決五番勝負つき。

読者たちのライフスタイルは実生活から乖離した幻想ではなく、耐えざる商品探索と創意工夫によって生活感を減らし、所帯じみた気分を解除し、生活にまみれた主婦であることを否定する努力によってかろうじて生みだされる、切実な「ままごと遊び」なのである。「家事だの子育てだの、面倒なことは遊びに変えちゃえ……しかし本当にそれでいいのだろうか」という阿古の問いかけには、「そうでもしないと、生活なんてやってられないでしょう?」という切迫した実感のこもった反撃を対置させることができるだろう。

久保明教『「家庭料理」という戦場 暮らしはデザインできるか?』コトニ社,P155

上記は雑誌『マート』の中心的な読者層である七〇年代生まれの主婦に対する阿古真里による批判へのカウンターだ。コストコやカルディで珍しい調味料や食材を購入し、目先の変わった料理を楽しむマートの読者を「ままごと遊び」と断じる阿古に対して、これもまた現代の主婦の創意工夫の成果の一つであると肯定しようとする。確かに阿古の家庭料理観 —何を食べたいか、何を食べさせたいかという欲求に能動的になること、自分と家族の欲求を知り、それらをすり合わせて我が家の「家庭料理」を作り上げることが「幸せ」なのだというのも分からないでもない。実際、自分で料理をするようになって、今まであまり関心を向けてこなかった「自分が何を食べたいのか」「恋人と何を食べたいのか」ということと向き合う機会が増え、その欲求を実現して美味しくご飯を食べれたときは確かに「幸せ」を感じた。とはいえ、「家庭料理」が近代社会の中で「家族」という共同体を担保するために期待されていた役割などについてもこの本で読んで理解したので、うるせ〜〜〜知らね〜〜〜!という気持ちになったね。しかし中華や洋食が家庭料理に取り入れられるようになったのは、出身が異なる男女が家族になったとき、和食の場合地方によってだしであったり味付けがかなり異なるので、逆にお互いのルーツに関わらない食事の方が違和感なく共有できるというのはなるほどなぁと思った。

食と共同体に関する本といえば、フランスにおける食事–主に豚を食べるということと共同性、差別について書かれたピエール・ビルンボームの『共和国と豚』も非常に面白かったです! 啓蒙主義の掲げるフラテルニテ(兄弟愛)は、同じ食卓を囲み、同じ食事を食べる者に与えられる資格で、宗教的な理由でそれを拒む者–ユダヤ教徒やイスラム教徒は共同体を破壊する不届き者だ!という理屈。極右の反移民、反イスラームデモなんかではわざとハムやソーセージなんかを食べたりするのを見せびらかしたりするらしい。ハムやソーセージを食べることに政治的な意味が生じるという意識がなかったのでびっくりしてしまったな。

ヴィトルト・シャブウォフスキ『踊る熊たち 冷戦後の体制転換にもがく人々』柴田文乃訳,白水社

ブルガリアには踊る熊の伝統があったという。熊たちは小さな頃から調教師のもとで踊るための訓練をさせられ、観光客向けに踊ったり、さまざまな芸を披露した。調教師は熊たちに鼻輪を通し、歯を全て抜き、熊が自分の強さを思い出したりしないように精神を打ち砕き、アルコールに依存させたらしい。しかし二〇〇七年にブルガリアが欧州連合に加盟すると、突然「踊る熊」は動物虐待ということで非合法になった。オーストリアの動物保護団体がソフィア近郊に踊る熊を保護する施設を作り、調教師から熊たちを解放し、そのセンターで熊たちに「自由」を与えた。そこで熊たちは自由を手に入れ、その代わりにすべてのことについて自分で対処しなくてはいけないということを学ばなくてはいけなかった。自由な熊はどのように動くのか? 自分の将来のためにどんな努力が必要なのか? どのように交尾をし、どのように冬眠するのか? これまで自由を知らなかった熊たちにとって、自由は複雑で、自分自身を気にかけなくてはいけない生活は困難を伴った。

引退したどの踊る熊にも自由であることがつらくなる瞬間があることを私は知った。そんなとき熊はどうするか? 後ろ足で立って…踊り出すのだ。園の職員がどうしてもやめさせたいと思っているまさにそのことを再現してしまう。奴隷の振る舞いを再現するのだ。戻ってきて、再び自分の生活の責任を取ってくれと調教師を呼ぶ。「鞭で打ってくれ、手ひどく扱ってくれ、でも自分の生活に対処しなくてはならないこの忌々しい必然性をどうか取り除いてくれ」 —熊たちはこう言っているように見える。
そしてまた私は思った。これは一見、熊たちの物語のように見える。だが私たちの話でもあるのだと。

ヴィトルト・シャブウォフスキ『踊る熊たち 冷戦後の体制転換にもがく人々』柴田文乃訳,白水社,P13

この本は踊る熊についてのルポルタージュであると同時に、ソ連崩壊後の旧共産主義諸国で生きる人々がどのように手に入れた「自由」に対処するのかというルポルタージュでもある。この本は大きく二部に分かれており、一部は「踊る熊」を奪われた調教師たちや保護施設で働くスタッフなどへの取材を中心に、二部はポーランド、ウクライナ、エストニア、セルビア、グルジアなどで旧共産主義国で体制崩壊後急速な変化の中で暮らす人々の声をレポートしている。私は調教師がいかに自分の熊を愛していたか、どのように熊と出会い、暮らしてきたか、外から来た者たちに突然自分の生業を否定され、取り上げられ、愛する熊と引き裂かれた哀しみについて語る声を聞くとどうしてもそちらに心を傾けてしまうのだけれど、著者は一方の立場に入れ込んだり/批判するでもなく、どの立場にある人の意見もフラットに取り上げていて、その眼差しの距離感と淡々とした筆致のなかにほのかに漂う寂しさ、悲哀、ノスタルジーが読み進めていくうちに心に堆積していくような本だった。一見堅そうな雰囲気の本だけど、想像以上に読みやすいし面白かったです。グルジアのスターリン博物館で働く人たちの話がよかった。

中島那奈子・外山紀久子編著『老いと踊り』勁草書房

踊りつながりというわけではないが、前から読みたいと思ってた本。タイトルの通り「踊り」と「老い」の問題について、二〇一四年に行われた国際シンポジウムでの議論からスタートし、若さ —強さや効率性を至上命題としない新しい主体の在り方を模索するための論考集になっている。

「老い」はすべての人間が避けられず経験する生の条件だけれども、「老い」もまたア社会や文化によってパフォーマティブに構築され影響を受けるものなのだなと思った。「踊り」も欧米文化圏では「理想の身体」を体現してきたものだからこそ「老い」を持ち込むことは元々タブーとされており、美学的・社会的パラダイムの変換となるようなものであるが、一方で日本舞踊では「老い」は熟達を意味し、欧米に比べればポジティブに捉えられいたというような比較が面白かった。能では老人の恋愛を主題にしたようなものもあるらしく、ずっと見に行きたいな〜と思いつつ未経験なので能も嗜むようになりたいな。

老いをめぐる言説について、生政治の話でフーコーやアガンベンが出てきたのでアガンベンも読みたいな〜と興味を持ったけど未着手です。しかし「ケア」「ソーシャルイノベーション」に続き、ここでもフーコーが盛んに出てきたので至る所でフーコーが出てくる一年だったな。2022年はフーコーをちゃんと読むか…。あと2022年にはピナ・バウシュの「春の祭典」の来日公演があるし、絶対見たいですね!!! 5月にあるので忘れないようにしないと。

イヴォンヌ、テキストを読むのを続けていいよ、でも踊ること、痛みを感じること、全てを続けなさい。「もう踊らない」と弱々しく訴えるのは終わり。踊って、いい子だから、踊って、そして私を観察する全ての人に挑戦する、「この私を憐まないで」。

イヴォンヌ・レイナー「ダンスにおける痛みの身体」外山紀久子訳,中島那菜子・外山紀久子編著『老いと踊り』勁草書房,P101

イヴォンヌ・レイナーの映画は以前見たことがあってとても良かったのだけれど、元々ダンサーであったということを知らなかったのでびっくりしたし彼女のエッセイを読めたのは思いがけず嬉しかったな。

アリス・ウォーカー『カラーパープル』柳澤由美子訳,集英社文庫,集英社

私のフェミニズムはほとんど全てベル・フックスから学んでいるし、藤本和子さんの『塩を食う女たち』も大好きな本だし、アフリカン・アメリカンの文化や歴史についてもっと学びたいなと思いつつ小説は全然読めていなかったので、ようやくアリス・ウォーカーを読みました。多分これもまたどこかで取り上げられていて読まなきゃ…と思って積んでいたものと思われる。トニ・モリスンの『ビラヴド』はまだ積んでいます!

今年はこのベスト10を見て分かる通り全然小説を読んでなかったので、久しぶりに小説を読んで面白かった〜!となって良かった。女が男にひどい扱いを受けるけど、女も負けじと男にひどいことをするし、女と女の友情、愛、支え合いの物語だった。ある魅惑の女を巡って、関係が終わってる夫婦(※夫も妻もその女のことを愛している)が通じあう瞬間があるのが妙なんだけど変わってて良かったな。途中ハラハラするしこんなの絶対絶望的じゃん…となるけどハッピーエンドなので安心して読んで欲しい。

ねえ、聞いて。神はあんたが好きなものならなんでも好き。あんたが嫌いなたくさんのものもね。だけど何よりも、神は賞めたたえられるのが好きなの。
あんた、神はお世辞が好きって言ってるのかい。
ううん、お世辞じゃなくて、いいものを分かち合うってことをしたいんじゃないの? あんたが野原を歩いていて、むらさきいろのそばを通りすぎて、それに気づきさえしなかったら、神は本気で腹を立てると思うよ。

アリス・ウォーカー『カラーパープル』柳澤由美子訳,集英社文庫,集英社, P234

ドストエフスキー『悪霊』江川卓訳,新潮文庫,新潮社

今年は最後の最後にドストエフスキーにハマり、挫折していた『悪霊』を読破した。前に読んだときはいまいち話の筋が掴めなくて、誰がメインのどういう話なんだ…?と訝っているうちにリタイアしてしまったが、スタヴローギンというカリスマ美丈夫の総受けBL小説なのだと思って読んだらスラスラ読めた。人間が人間に執着して頭がおかしくなっている様子を見ることほど嬉しいことはないですね。誰かを「崇拝する」というのは愛や理解とは程遠い感情であり行為なんだけど、それがない人生というのもなんだかわびしいな…と思ってしまう。なんかもうドストエフスキーはストーリーがどう面白いとかっていう以前に、すべての登場人物の言動が面白いし、みんな異常にエネルギッシュで破滅的な状況でも元気いっぱいだからこちらもとにかく元気が出ますね。

「人間がよくないのは、自分たちがいい人間であることを知らないからです」と彼はふいにまた話しだした。「それを知れば、女の子に暴行を加えたりはしない。人間は自分がいい人間であることを知る必要がある。そうすればすべての人が、一人残らず、即座にいい人間になる」
「きみはそれに気づいた、してみると、きみはいい人間ですね?」
「ぼくはいい人間です」
「もっとも、それには同感だな」スタヴローギンは眉をひそめてつぶやいた。

ドストエフスキー『悪霊』(上)江川卓訳,新潮文庫,P453

スタヴローギンは熱烈にいろんな男から崇拝されているけれど、なぜ彼がそんなに人を惹きつけるのかは正直あまりわからないな、、と思った。それよりキリーロフの振り切った個性が光っていますよね。「ドストエフスキーの愛し合う男たち」という記事でおすすめされていたカップリングはシャートフ×キリーロフでしたが、確かに味わいのある良いCPだと思います。

2021年は好きな男にうつつを抜かしていたのと、家事と母のケアに追われるようになったのもあって全然本を読めなかったな…というのが実感でしたが、こうして振り返ってみると意外と読んでたし一定の方向性というか、共通するテーマみたいなものがなんとなくあったように思えて面白かった。去年の反省を踏まえて早めに書き始めたのにやっぱり2021年も年内に収まらなかった! 2022年もしっかり本を読む&ちゃんと記録をつけて整理する&年内に振り返りを終わらせるを目標にやっていきたいです。

2021-12-05_熱海、ブルーは熱い色

そのうちまた泊まりたいなぁと思っていた熱海のニューアカオが11月に営業を終了していて、人生は「そのうち」とか「いつか」とか言っているうちに手遅れになることが多すぎる、ともはや何度目かわからない反省をした。反省しているはずなのに同じ過ちを繰り返しているので、その実まったく反省ができていない。12月12日までニューアカオを会場にしたアートイベントが開催されているというのを知り、1年以上会ってなかったし・連絡すらほとんど取っていなかった友人に「今週末熱海いかない?」と突然連絡すると理由も聞かずに「いく」と即レスが返ってきたので本当に信頼できるし最高の女!と感謝し、女二人週末熱海旅に出かけた。

品川駅に集合し、スケジュール上お昼は新幹線内でお弁当を食べる予定だったので、駅構内でお弁当を物色する。「あらいい天ぷらだねぇ」「寿司もいいねえ」「海苔弁も美味しそうねえ」などと優柔不断にブラブラしていたが、生牡蠣がタッパーに詰められたものが売られているのを発見し、「…生牡蠣、食べる?」「新幹線で?」「匂わないし、ここで売っているということは、新幹線で食べられることも当然想定されているはず」「ポン酢も売ってる!」「これは生牡蠣ですね」ということで、生牡蠣をシェアハピすることに満場一致で決定した。プラス各自食べたいものとビールも調達し、新幹線に滑り込む。品川から熱海までの38分間で、生牡蠣を平らげ、お弁当を食べ、ビールも飲み、お互いの近況をバーーッツと共有し、最高の駆け出し。ちなみに生牡蠣は総上げ底の時代の現代においてまさかの上げ底をしておらず、信じられないぐらい牡蠣がミッチミチに詰まっててコスパ最高だった。絶対にリピします。

「前回会ったのいつだっけ? ベトナム料理屋で飲んだの」
「いつかの夏じゃない?」
「すごいオシャレな言い方するじゃん」
「あれだ、BLMがあった後だから、去年の夏だ。お互いBLMで男と疎遠になった後」

前回会ったときは、彼女は当時付き合っていた彼氏がBLM(Black Lives Matter)でバッド入ってしまって疎遠になり、私は私で破局後もなんだかんだ友人関係を続けていた元彼とBLMの話題で喧嘩(?)になって絶交をしており、謎に二人してBLMに起因して特定の男と疎遠になっていた。そして最近は、彼女は今の彼氏と別れたがっており、私は今の彼氏と別れたくながっていた。似たような状況で、対照的な役割を演じていた。

彼女は話を聞くたび大抵男から熱烈に愛されていて、今回もかなり猛烈に愛されていた。出会ってからというもの会うたび凄い熱量で好意を表されたので、それを断るほどの熱量もなかったのでとりあえず付き合ってみたが、育ってきた環境が違いすぎてずっとSMAPの「セロリ」が流れている恋愛らしい。(わたしは彼氏の睫毛を見るたび大森靖子の「非国民的ヒーロー」がずっと流れている恋愛だ。)彼女の彼氏は彼女のことが大好きで、彼女がご飯を作ってる時も違うことをしてればいいのに横でじっと彼女のことを見ていたり、ご飯を食べてる時も気がつくと食べるのを止めて・ただ彼女のことを見つめていたり、彼女を肴に酒を飲んだり、隣で寝てる時に突然幸せすぎると言って泣き出したりするらしい。(わたしも彼氏を見ているのが大好きなので似たようなことをしているし、彼女の彼氏の気持ちはわからないでもないと言うか、正直かなりわかる。)でも「幸せすぎて泣き出す」って本当にすごくない? すげ〜女! 感動して思わず『悪霊』のピョートルの台詞を読ませちゃったよ。

「スタヴローギン、君は美丈夫です!」
ほとんど有頂天になって、ピョートルはこう叫んだ。
「君は自分の美しいことを知っていますか? 君の持っているものの中で一番貴いのは、君が少しもそれを知らずにいることです。ええ、僕はすっかり君という人をきわめつくしました! 僕はしょっちゅう横の方から、隅っこの方から君を眺めているんです! 君には単純なところさえあります。ナイーヴなところすらあります、君はそれを知っていますか? まだ残っています、本当に残っています! 君はきっと苦しんでるでしょう、しかも真剣に苦しんでいるに相違ありません。それもやはりこの単純な心のためです。僕は美を愛します! 僕はニヒリストだが、しかし美を愛します。全体、ニヒリストは美を愛さないものでしょうか? なに、彼らはただ偶像を愛さないだけです。ね、ところが、僕はある偶像を愛します! つまり、君が僕の偶像なのです!
(中略)
僕は君のような人をほかに誰も知りません。君は指揮官です。太陽です。僕なんか君の自由になる虫けらです……。」

ドストエフスキー『悪霊』米川正夫訳,岩波文庫

これ、わたしは完全にピョートルの気持ちに共感して読んでいたけど、彼女の方はスタヴローギンで、崇拝される偶像で、太陽なのだった。久しぶりに会った彼女は真っ青な髪の毛をしていて、アデル、ブルーは熱い色 だと思った。

『悪霊』を読んでいるとたくさんの人間がスタヴローギンを崇拝していて、誰かを「崇拝する」ということは「理解する」ということからは程遠く・グロテスクで健全ではない行為なのはわかってるんだけど、これほど崇拝できる人間がいるということは幸せだろうなあとも思う。でも現実世界で崇拝に値する人間なんてほとんど出会うことないからな〜と思っていたら、久しぶりに会った女がその役割を立派に果たしていたから笑ったし大喜びしてしまった。誰かを崇拝するのは楽だし気持ちがいいだろうから、私も誰かのことを心の底から崇拝したいわ なんて一瞬思っていたけれど、それより自分が「崇拝に値する人間」になることの方がずっと価値のあることだよなと思う。何倍も険しくて難しい道だけど、楽な方より大変な方を選んだ方がいい気がしているんだ最近は。

想定より大幅に居酒屋に長居してしまい、宿の温泉に入れる時間も過ぎてしまったので開き直って深夜の砂浜を散歩して、東京より広くてよく見える星空を眺めた。熱海は椰子の木がたくさん生えていて、市街地からすぐのところに砂浜があって最高だ。「私のほとんど唯一と言っていいロマンチックなところは、星が好きなところなんだよね」と言う彼女は流れ星をしっかり見つけて「Love!Love!Love!」とすかさず唱えていた。わたしは視界を横切る蝙蝠しか見えなかったけど、キンと冷えた冬らしい空気を感じながら眺める星空は綺麗で、波の音が心地良い夜だった。

眠りについたのはかなり遅い時間だったはずなのに、翌朝6時過ぎには起き出してベランダから日の出を見ている彼女の後ろ姿とオレンジ色に輝く海がベッドから見えて、(マジでこの女異常に元気だな…)と思いながらわたしはその光景を目に焼き付けながらもう一度眠りについた。

2021-11-22(12-2)_手を焼く

恋人とデートで都美術館のゴッホ展を見に行った。
基本的に都美術館のことは信用しているけれど、前のゴッホとゴーギャン展に比べてしまうと内容は少し見劣りがするように感じた、特にヘレーネとゴッホの魂が響き合っているようには思えなかったし…。とはいえやはりゴッホは生で見るのに限るのであって、展示を見終えた後に図録やポストカードや複製画を目にした時の落差でそれを実感する。それにしても、わざわざ展覧会にまで来て絵をろくに見ずにただ絵の前に行列している人たちは何をしに来ているんだろうなといつも思う。自分もきちんと絵を「見て」いるかといったら自信はないが、私程度の熱心さで絵を見ている人すらほとんどいないのだから本当に不思議だ。目の前にあるゴッホの絵も見ずに、一体何のために生きているんだ?

ゴッホ展を見に行ったら、ゴッホに関連してきっと自分は何かを考えるだろうし、それについて書こうと思っていたのに全然何も思考が湧いてこなかったので拍子抜けした。まぁ妙な関係になってしまっている恋人と一緒に行ったから、そちらの方が気がかりだったのかもしれない。セルフサービスレストランみたいに律儀に並んでいる行列を無視して、空いている絵や見たい絵の方へ人混みの合間を縫って歩き回りながら 彼氏ともくっついたり/離れたりして、このくっついたり・離れたりする距離感が心地いいなと思いながら、こんなふうに一緒に美術館に来たりするのももうこれが最後になったりするんだろうか?と、もたれた左肩から伝わる温かさと安心感とは裏腹に悲しい気持ちでゴッホを眺めていた。

事実上の別れ話をしてから、私はすべての瞬間を(これが最後かもしれない…)という気持ちで過ごしていて、というか仮に別れなくても人生においてその瞬間は常に最後なので・毎回最後の気持ちで過ごすのはある意味人間として正しい姿勢なのかもしれないけれど、とにかくそういう気持ちでいることが必要以上に私を怯えさせていて、この本来必要ないはずの怯えが、二人の関係性を台無しにしそうで嫌になっている。私の凶暴な猜疑心や寂しさが、今にも彼の喉笛を食いちぎってしまいそうだ。理性ある知的な人間としてそれらを必死に押さえつけて、せいぜい手を噛むぐらいに留めているつもりだけれど、それにしたって頻繁に噛みつかれるのも/凶暴な感情を押さえつけるのもどっちもしんどいよな。こんな風になる必要なんて全然なかったのに、なんでわざわざ関係性を損なうような真似をしているんだろうな私たちは。

これが最後かもしれないと思えば、「おやすみ」と言った後も眠るのが惜しくて、瞼を閉じた彼の顔を眺めていたら無性に寂しくなって、彼の肩に滅茶苦茶に顔を擦り付けて「別れたら寂しいよ」と言ってしまう。その話はできるだけせずに、ただいつも通り“おもしれー女”として楽しく過ごすことで(フゥン やっぱ おもしれー女…)と思わせて手離せなくさせる作戦だったというのに、私の理性というのはかくも弱いのであった。口に出してしまってから、はたしてどういう反応を返されるのかとひやひやしていたら、少し寝ぼけたようなとろりとした声で「別れるの?」と言って私を腕の中に埋めてくれる。ワァ、めちゃくちゃ悪い男か…?と思いながらも、安心してその夜は眠った。

ところで、ヴァン・ゴッホは片方の手を焼かれたのであるが、生きるための、すなわち生存するという観念から生きるという事実を奪い取るための戦いをけっして恐れたりはしなかった、
そしてすべては、あえて苦労して存在せずにもちろん生存することができるし、
そしてすべては、狂人ヴァン・ゴッホのように、あえて苦労して輝いたり、きらめいたりせずに存在することができるのである。

A・アルトー「ヴァン・ゴッホ 社会による自殺者」鈴木創士訳『神の裁きと訣別するため』河出文庫,P159

ゴッホを見にいくにあたってアルトーを読んでいて、あれと思ったんだけど、ゴッホって耳を切る以外に手も焼いてたんだっけ? 「ゴッホ 手 焼く」とかで検索しても、周りの人間がゴッホに「手を焼いていた」という文脈しか出てこなくてそうじゃないんだよ、、となる。ゴッホはなぜ手を焼いたんだ? いつ? 自らの意思で?

『百年の孤独』のアマランタがピエトロ・クレスピの求婚を拒み、彼が命を絶ったあとで心の悔いを癒すために自らの手を竃の火で焼いたのと同じように、ゴッホもまた手を焼くことで、耐えがたい心の悲しみを癒そうとしたのだろうか? 『紙の民』でも、悲しみを癒すために手を焼く人物が出てくるけれど、悲しみは火によって治癒されるのだろうか。私もいざとなれば、自らの手を焼くことで心を癒すことができるだろうか?

と、感傷的に思ったりもしてみたけれど、最近の自分はかなり変に前向きなので、自分の人生がもはやどうでもよいのであれば、自分の人生をなげうって何か世界を少しでも良くするような、そんな「何か」をすべきなのではないか? という気持ちでいる。人間はあえて苦労して存在せずに生存することができるけれど、生存そのものが耐えがたいのであれば、あえて苦労することで輝いたり・きらめいたりして存在するべきなのではないか? メソメソ手を焼いたりしないぞ、と思ったけれど、「手を焼く」ことが「生存」するのではなく「生きる」ということなのであれば、手を焼くということは全く正しいことなんだな。私もその時には、躊躇いなく竃に手を差し伸べられますように。

2021-11-3(23)_神に祈れない

物心ついたときから生きることが怖かった私は、いつからか夜眠りにつく前に必ず「神さま」にお祈りをするようになった。その頃はまだ宗教なんてもののことも知らなかったけれど、どうやら「神さま」という超越的な存在がいるらしいことを何かで知って、迷わず神に頼ることに決めた。幼かった私には、この世で起こり得る災害や、事故や、事件や、病気や、死があまりにも恐ろしく、当時の私がそれらから身を守る手段として取り得ることは、神の恩寵を請う以外になかったのだ。私は生きていくにはあまりに無力でちっぽけで、眠る前に布団の中で宇宙のことを考えては、自分の存在の頼りなさ・儚さ・無意味さに打ちひしがれていた。壁に映る影も怖かったし、夢を見るのも怖かった。神さまへのお祈りも、まず「怖い夢を見ませんように」から始めた。

私は寝床に入る。天井の電灯が消され、暗闇の中に私はひとりぼっちになる。手を胸のうえに組み、私は〈お祈り〉を始める。
–火事になりませんように、地震がおこりませんように、泥棒が入りませんように、お父さんお母さんが死にませんように、淀のおじちゃんおばちゃんが死にませんように、常滑のおじちゃんおばちゃんも死にませんように、誰も病気になりませんように、神さまどうかお願いします–

谷川俊太郎「お祈り」『二十億光年の孤独』集英社文庫,2008年,P147

これを読んだ時、谷川俊太郎が幼い頃に唱えていたという「お祈り」が、私が祈っていたものと本当にそっくりでびっくりした。まぁ私はこれに加えて「神の幸せ」も祈ることで神に対して胡麻を擂ることも欠かさなかったが。それにしても、お祈りをしても不安が去らず、どうしようもなくなった時に布団から起き出して両親の姿を確かめにいくのも全く同じだし、お祈りをやめたが最後、神のご加護がなくなるのではないか・恐ろしいことが起きてしまうのではないかという恐怖を抱いたことも全く同じで、私は谷川俊太郎だったのかと思った。昔ほどの切実さは失われたとはいえ、今でもなんだかんだ眠る前のお祈りの習慣は抜けない。

だから『八月の光』を読んだ時、ジョアナ・バーデンが「祈れない」というのを不思議に思った。祈れない、とはどういうことなんだろう、どうして神に祈らずにいられるのだろう、と素朴に思っていた。だけどここ最近、人生で初めてうまく祈れなくなった。何を祈ったらいいのか分からなくて愕然として、祈れないことで神に見放されはしないかと不安を募らせた。

I prayed as two separate people, one still clinging to hope and the other praying for an end to the suffering Momma was enduring. I believe in many ways those prayers were selfish, I do not know if I was praying totally for Momma or the pain it was causing me.

Carol M.Gilligan “Watching Momma die” (English Edition)

最近状況も状況なものだから「ケア」についての本を読むことが増えて、よく言及されるキャロル・ギリガンの『もうひとつの声』を読まなきゃな〜と思いつつも絶版なのでいっそ英語版読むのはどうだろうと思ってkindleを探したら、”Watching Momma die” という身も蓋もないタイトルの本があったので現在進行で Watchしている私としてはこちらをまず読むことにした。基本的に共感の嵐で泣いてしまうので電車の中で読むこともできずなかなか捗っていないけれど、私が今祈れない理由もまさにこれなんだよな、と思って救われた。本当に「母のため」になることは何なのか分からないから神にお願いすべきことも分からなくて途方に暮れるし、もしかしたら母のためじゃなくて・自分にとって都合の良いことを考えているのかもしれないと思うと罪悪感でとても祈れたものじゃない。ベッドの中で手を胸の上で組み、(神さま…)と呼びかけておきながら絶句してしまい、気まずい沈黙を一人味わう。

そして私は初めて「祈れない」というジョアナ・バーデンの気持ちが少しだけ理解できたように思う。祈るという行為は、求めるものが明快で、後ろ暗くなく、心が定まっている場合にしか有効じゃないのかもしれない。そう思うとわたしの「お祈り」ってくだらないな、アファメーションと変わらない(※アファメーションを馬鹿にするわけではないが、少なくとも特に神聖なものではないの意)。むしろアファメーションは「自分がやる」ことを前提にしているのに比べて、祈りは他力本願である時点でただの甘えでは…?と思ったけど、そもそも自分の力でどうしようもないことについて幸運を願うのが祈りのような気がするからそこは他力本願で当然だったな。

わたしの「お祈り」が『フラニーとズーイ』に出てくるような「イエスとの一体意識を授かる」ためのイエスの祈りとは似ても似つかないものであることだけは確かだけれど、そもそものスタートから今に至るまで「キリスト教徒」であったことはないのだから、まぁイエスやキリスト教が求めるそれとは違ってもいたしかたないよな。でもフラニーが傾倒していた『巡礼の道』で一人のロシア人農夫が巡礼の道を歩むことになるきっかけとなった「休むことなく祈れ」という聖書の一節はわたしも好きだ。テサロニケの信徒への手紙の一節とあるから、おそらく有名な「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(テサロニケの信徒への手紙一 5章16-18節)の箇所だと思うんだよな。(※違うかも)いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさいはやや説教くささを感じるけれど、少なくともいつも喜んでいたいし絶えず祈れる状態ではいたいと思う。

2021-11-21_It’s so sad to watch a sweet thing die…

日記を書きたい書きたいと思いつつ書けない日々が続いた結果、渋滞した経験と感情と思考が玉突き事故を起こして最早何が起きていたのかわからない始末。事故現場たる私の脳内はどこから片を付けるべきか見当もつかないので、まずは散乱した思考の断片を端っこの方から摘み上げて並べてみることから始めよう。

恋人から事実上の別れ話をされたのが約2週間前、11/5の金曜日。
別れたいというわけではないらしいが、しばらく結婚する気はないし、そもそも自分がゆくゆく結婚というものをしたいかどうかもわからないから、もし私が早く結婚をしたいのであれば他の人を探した方が良いと思う、という話だった。
彼の最近の行動や様子を見ていてそんな気はしていたので特に驚きはなく、(向こうからこのタイミングでこの話をしてきたというのは意外だったけれど)めちゃくちゃ冷静に受け止め、お互いの人生における優先度やタイミングについては致し方ないし、私は結婚したいし子どもが欲しいので、合理的に考えればさっさと違う人を探すべきなのだろうね、と答えた。「合理的に考えれば」それが正しいし、お互いにきっと新しい人もいずれ見つかるのだろうし問題はないのかもしれないけど、「私」も「あなた」も一人しかいないというお互いのかけがえのなさというものが捨象されていて悲しいね、と言うと、恋人ははらはらと涙をこぼしていた。曰く、真剣に結婚について検討したのも、別れ話でこんな泣くのも初めてとのことだけれど、そんなんやっぱり私のこと好きなんだから観念して結婚しろと思ったけれど、泣き顔が可愛いなぁと思いながら黙って眺めていた。この人は普段から澄んだ綺麗な目をしているけれど、泣くと長い睫毛に滴が溜まって、それもまた綺麗なのだ。

本人に対しては「かわいいね」と言うことが一番多いけれど(実際に可愛いので)、彼を形容するなら「きれい」と言うのが本来正しい。長身ではないけれど、顔が小さくて手足の長いバランスの取れたプロポーションをしていて、ほっそりしているのに意外と筋肉もあって、皮膚は白くなめらかで毛並みも良い。骨も、筋肉も、皮膚も、体毛も、おそらく血も内臓も、彼を形作るすべてがきれいだなと思う。わたしはこの人の側にいることが、触れることが、そして隣で寝て・起きることがとても好きだ。夜寝る前に、暗闇の中でもほんのり白く浮かぶきれいな顔を眺めて、閉じられた瞳を縁取る長い睫毛をなぞるのが好きだ。朝起きて、日の光を浴びて透き通るようなきれいな顔を見るのが好きだ。ありふれた陳腐な表現だけど、一日の最後に目にするものと、次の日の最初に目にするものがこの人であって欲しいと思う。だけどそんな夜もあと何度過ごせるのだろう? と思うと悲しくて泣きたくなる。

Break my heart
I want to go and cry
It’s so sad to watch a sweet thing die
Oh Caroline, why?

Brian Wilson, Tony Asher「Caroline, No」The Beach Boys

ジム・フジーリの『ペット・サウンズ』を最近折に触れては読み返していて、全然失恋とか関係なく(というか予期していなかったし)ブログに書こうと思っていたのに、リアルに It’s so sad to watch a sweet thing die… となってしまって悲しい。わたくしは音楽の素養がないのがコンプレックスだし音楽については何もわからないが、何もわからなくてもビーチボーイズの『Pet Sounds』は本当に素晴らしいアルバムだと思うし Wouldn’t It Be Nice も God Only Knows も I’m Waiting for the Day も 本当に良くて泣いてしまうよね。

すべての曲は愛についての個人的なステートメントになっている。愛というものはどのような意味を持ち、人の人生のどの場所に埋め込まれていくか? それは人生のかたちを定めるのだろうか。そして愛が去ったとき、あとに何が残るのだろう?

ジム・フジーリ『ペット・サウンズ』村上春樹訳,新潮文庫,P 85

愛というものはどのような意味を持ち、人生のどの場所に埋め込まれていくのか…?????????? 愛が去ったとき、あとに何が、、、、残るのでしょう??
というかさ、冷静に考えて二人の間から愛は別に去ってないのに別れを検討しなくてはいけないの普通に謎だな。うっかり「合理的に考えて」納得しそうだったけど、全く納得いかないぜ。お前はわたしが好き、わたしはお前が好きなのだから、少なくとも愛のある限り末長く幸せに過ごすというのが合理的では? 理(ことわり)に合うのはよ…。

別れる前に恋人の素敵なところを書き残しておこう…という感傷的な気持ちで書き始めたけど書いてるうちにムカついて元気になってきたな。別れる前に…とか言わずこれから先もずっとお前のことをガンガン書いてやるからな、覚悟しておけよ。