この記事は、ふくろうさんが主催している「海外文学 Advent Calendar 2022」12月18日のエントリーです。
おそらく文学フリマの脱稿ハイの余韻もあって、初めてアドベントカレンダーなるものに名乗りを上げてしまった。しかし困ったことに、ここ最近はまともに海外文学を読めていない。読んではいるけどあえて言及するほど心に残ったものがない、どころの騒ぎではなく、正真正銘全く読めていない。海外文学のトレンドも追えていないし、ガイブン好きを思わず唸らせるようなマニアックな作品も知らない。何について書いたものか困ったな〜〜〜と己の無計画さを反省しましたが、いっそ機会がなければ読まないような小説を読めばいいじゃない!と思い至り、ジョルジュ・バタイユの小説を一気読みすることにしました。よろしくお願いします!
好きな男の小説を読むとは
バタイユは一般的に作家というより哲学者/思想家として扱われているのだろうし、本人に至っては自分は哲学者ではなく・聖者であるとか狂人であるとか言っているが、少なくとも海外文学好きの私が初めてジョルジュ・バタイユという存在を知ったのは、フランス文学の作家としてだった。『眼球譚』『マダム・エドワルダ』『空の青み』…。映画の『ビフォア・サンライズ』でジェシーが電車の中で読んでいたのは『マダム・エドワルダ』だったし、いつかのクリスマス会で本を交換した時に、エキセントリックで魅惑的な女性からもらった本も『マダム・エドワルダ』だった。ずっとバタイユの小説は身近に感じていたし、実際に家の本棚にもあった、長らくあった。その上、私は思想家としてのバタイユのことが比較的かなり相当好きで、彼の小説以外の著作(『内的体験』『有罪者』『ドキュマン』『純然たる幸福』『宗教の理論』など)はそれなりに読んでいるし、ミシェル・シュリヤの上下巻ある伝記『G・バタイユ伝』も読んだ。バタイユの解説系の本もいくつか読んだ。私が生活、社会、人生に打ちのめされて呼吸ができなくなりそうな時、幾度となくバタイユの本に助けられて息を吹き返してきた。そんな感じで、これが結構なかなか大分好きなのである。なのに、バタイユの小説は1冊も読んできていなかったのです。
『マイ・ニューヨーク・ダイアリー』という、作家志望の女性がサリンジャーの出版エージェンシーで働きながら自分の夢を追いかける…的な映画の中で、同じく作家志望の男性と意気投合して交際を始めるんだけど、誕生日に彼が書いた小説をプレゼントされて読んでみたら最悪すぎて別れるエピソードがあり、思わずワァッ………(泣いてるちいかわの顔)ってなってしまったことを思い出し、バタイユの小説を読んでこなかった理由の一端もここにあるかもしれないと思った。バタイユのことは好きだが、バタイユの書いた小説はあまり好みでない気配がする。何度か読んでみようと思ったものの、あまり気乗りがしない。あらすじや、紹介文などを読んでも、やっぱり読む気がしない。大抵「猥褻」で「淫蕩」に耽り、「エロティックな偏執」や「サディスティックな瀆聖」に溢れているという…。まぁ一般的にはバタイユといえば「エロティシズム」なのかもしれないが、私は特にその部分に惹かれていたわけではなく、あまり興味がないし・むしろどちらかといえば嫌悪感すら覚えるような気がしていた。(だからこそ、そもそもバタイユが好きであることに対して疑念があったし、素直に「好きである」と認めるまでに実は時間がかかった。) だから、別に好きではなさそうな小説をあえて読まなくていいんじゃないかという実際的な言い訳と、バタイユのことが好きなのに彼の書いた小説を読んで辟易するようなことがあったら切ないなというエモーショナルな恐れとがあり、敬遠してきたのだった。
とはいえそんなに「バタイユが好き」というのなら当然小説だって読むべきなのではないか? という当然の発想と、自分の好きな部分だけを取り上げて・それ以外の好みでなさそうな部分を無視するというのは向き合い方として不誠実なのでは?という反省などがあり、せっかくの機会だから今まで避けてきたバタイユの小説を一気に読むか!と思い至ったのでした。ある人の文章が好きであるということ/ある文章を書いた人のことが好きであるということ/好きである人の書いた文章を読むということ、というのは近いようでそれぞれ少しずつ異なる体験だと思う。元々文章を読んで好きになった人(バタイユ)の文章を、好きである人の書いた文章として初めて読むということは、読書体験にどのような影響を与えるんだろうか。そんなことを考えて読んだ『マダム・エドワルダ』『目玉の話』(眼球譚)『青空』について書きたいと思います(前置きが長くなったね)。
『マダム・エドワルダ』
『眼球譚』と並ぶバタイユの代表作で、主人公が出会った娼婦のマダム・エドワルダとの一夜の出来事を描く短編。わたしは光文社古典新訳文庫の中条省平訳で読みました。訳者による解説によれば「ヘミングウェイを思わせる、接続詞や副詞を節約するバタイユのハードボイルドな文体の最高の例」とのことで、エロティックな場面はあれど(っていうかそれしかないけど)基本的に登場人物の行動やセリフを軸に淡々と描写されるので、ねっとりとした厭らしさはあまりなく、すっきりとした味わい。バタイユがヘミングウェイのことを好きだったらしく、それを意識して書かれたようだが、「くだくだしい心理描写をせずに、行動を外からの視点で簡潔に記述する」行動主義的文体になっているかというと正直怪しく、突然()で括ってそれまでの文章と断絶して本音を白状するやつが合間合間に挟まってくる。この()で括られた補足、弁明、感情の吐露が書き手であるバタイユのものなのか、あくまで主人公によるものなのか? というのは定かではないが、「限りなくバタイユ本人っぽい」というのがわたしの感想です。
(続ける? そうしようと思ったがもうどうでもいい。興味がなくなったのだ。ものを書くときわたしの胸を締めつける思いについてはすでに語った。すべてがばかげているのではないか? それとも意味があるのだろうか? そう考えると気分が悪くなる。
〜中略〜
そして、いまのところは、無意味だ! 「無意味」氏がものを書く。この男は自分が狂人であることを承知している。恐ろしいことだ。だが、この男の狂気、この無意味は——突然「確かな」ものとなって——それこそが「意味」になるのだろうか?)
ジョルジュ・バタイユ「マダム・エドワルダ」『マダム・エドワルダ/目玉の話』中条省平訳,光文社古典新訳文庫
ヘミングウェイが好きでハードボイルドな文体を心がけるけど、結局耐えきれずに全然いつものバタイユが出ちゃってるバタイユかわいいね。「『分かっている』というのなら、神は豚だ」と言い放つところも、「神」をできるだけ下卑たものに喩えたがるシリーズの新しいやつ〜!!となってただのバタイユ・ファン目線でキャッキャしてしまった。バタイユのファンじゃない人が読んでどう思うのか/読むべきなのかは正直微妙なところだなと思いました。
『目玉の話』
従来『眼球譚』という生田耕作訳のタイトルで知られてきた小説だが、原題は Histoire de l’ œil で単に「目の話」とか「目の物語」などがふさわしいということで平易な『目玉の話』としたらしい。『マダム・エドワルダ』とはかなり文体が異なり、(これは訳者の人のこだわりもあって一層際立っているのかもしれないが)語り手が聞き手に物語を読み聞かせるようなスタイルで話が展開されていく。耐えかねて突然()で割り込んでくるバタイユも息を潜めていて、こちらの方が普通の小説として読みやすい気がした。まぁ書かれてる内容は全然「普通」とは言えないのだが…。
『目玉の話』は主人公とヒロインのシモーヌを中心に、性的な放埒や狂気、暴力、自殺、殺人などが相次いで発生する「現代において唯一、サド侯爵の書物に匹敵するともいえる異様な小説」だと訳者は解説で述べているが、実際に読んだ感想としては、少年少女ワクワク変態アドベンチャー小説という感じだった。主人公とヒロインが若いからか、翻訳が平易でやさしい文体だからか、確かにエロティック(というか変態的)なシーンが続発するのだが、思ったよりマイルドで口当たりも悪くなく、読みやすいという印象。(私の感覚が麻痺してしまったのだろうか?)
ほかの人びとにとって、宇宙はまともなものなのでしょう。まともな人にはまともに見える、なぜなら、そういう人びとの目は去勢されているからです。だから人びとは淫らなものを恐れるのです。雄鶏の叫びを聞いても、星の散る空を見ても、なにひとつ不安など覚えない。要するに、味もそっけもない快楽でないかぎり、彼らは「肉の快楽」を味わうことができないのです。
〜中略〜
私は人とは反対に、普通の放蕩ではぜんぜん満足できません。なぜなら、普通の放蕩はせいぜい放蕩を汚すだけで、いずれにせよ、真に純粋な気高い本質は、無傷のまま残されるからです。私が知る放蕩とは、私の肉体と思考を汚すだけでなく、放蕩を前にして私が思い描くすべてを汚し、とりわけ、星の散る宇宙を汚すものなのです…。
ジョルジュ・バタイユ「目玉の話」『マダム・エドワルダ/目玉の話』中条省平訳,光文社古典新訳文庫
『目玉の話』の物語は唐突な形で終わりを迎え、その後に「思い出したこと」というタイトルの、今までのストーリーとは毛色の違う章が用意されている。この章を語っているのが『目玉の話』をずっと語ってきた主人公と同一なのか、あるいは作者であるバタイユなのか、ここもまた定かではないのだが、素直に『目玉の話』を書いた理由と自らの強迫観念について暴露するバタイユの語りのように思えた。バタイユが『目玉の話』を書いたのは1927〜28年、30歳の頃で、当時バタイユは友人らの薦めで精神分析治療を受けており、分析医であったアドリアン・ボレルの薦めで小説を書き、『目玉の話』の原稿も書き進めるごとにボレルが目を通したという。この作業を通じてバタイユは「解放された」と言っている。梅毒で四肢が不随になった盲目の父親を持つこと、父親が用を足す時に剥く白目を忘れられないこと、母親が精神に不調を来し自殺未遂をしたこと。バタイユはこうした自伝的な事実を、変形させてフィクションとして生み出すことでなんとか生き延びたのだと思う。そのことを思うと、単なる偏執的なポルノ小説だとも思えなくなってしまうのだった。
ふだんは、私はこんな思い出にこだわることはありません。そうした思い出は、長い歳月が経って、私を傷つける力を無くしてしまったからです。時が思い出をくすませたのです。変形され、もうそれとはわからなくなり、その変形のさなかで淫らな意味を帯びたときだけ、それでも生命をよみがえらせるのです。
ジョルジュ・バタイユ「目玉の話」『マダム・エドワルダ/目玉の話』中条省平訳,光文社古典新訳文庫
『青空』
わたしは晶文社からでている天沢退二郎役で読みましたが、河出文庫ではタイトルが『空の青み』だったもの。書かれたのは1935年頃、スペイン内戦そして第二次世界大戦を前にした不穏な状況の中で書かれ、そのままお蔵入りになっていたものが1957年に初めて出版された。この作品の主人公とその置かれた状況はかなりバタイユ本人に近いもので、民主的共産主義サークルに出入りしていた頃に出会ったコレット・ペニョと、シモーヌ・ヴェイユをモデルにしたと言われているヒロインたちが登場する。ミシェル・シュリヤは伝記の中で「『青空』は、バタイユという人間の忠実でかつ完全に調子の狂った模写であり、虚構であると同時に現実でもあるといった作品」と評しているが、実際一読して「めちゃくちゃバタイユ(本人の話)じゃん…」となったし、『マダム・エドワルダ』『目玉の話』より私が親しんできたバタイユの他の著作の語り口に近いものがあり、ニコニコしながら読めた。
主人公(トロップマン)はダーティという名の美しく淫らな女性に夢中になっているが、彼女があまりにも「純真」であるために、彼女の前では不能になってしまう。ダーティの他にも彼に献身的に尽くす愛人グゼニーと、そしてダーティとは違う形でトロップマンから崇拝されているラザールという3人の女性たちを中心に物語は進行していく。パリでの日々、病気(インフルエンザ?)で死にかけるトロップマン、そして今にも内戦が始まりそうな不穏な空気のバルセロナに移動し、ダーティとの別れで幕を閉じる…。物語終盤のダーティとの墓地での情事、そして駅での別れのシーンがなんとなく『ビフォア・サンライズ』を彷彿とさせた。
『青空』はシモーヌ・ヴェイユをモデルにしたヒロインが出てくるということで1番読みたかったもので、実際1番面白かった。バタイユとシモーヌ・ヴェイユは「民主的共産主義サークル」という、フランス共産党を追放された面々が創設した、社会批評誌を刊行するサークルに共に出入りしており、1934年頃には頻繁に会って議論をしていた「茶飲み友達」だったらしいんですね。私はヴェイユのことも好きだったので意外なつながりに喜んでしまったし、(とはいえ二人がそんなに気が合うとも思えないな…)の直感通り思想的には二人は相容れず、サークルの分派活動をしようというバタイユの誘いをにべもなく断っている。こういう仲がいいんだか/悪いんだか、相手のことは評価するけどどうしても気が合わない、みたいな人たちが一緒にいるのって個人的に大好物なんですよね。「仲が悪いって”百合”じゃない?」という『ゆりでなる♡えすぽわーる』の名言を思い出してしまう。そういうわけでバタイユとヴェイユは百合っぽい。(?)
全体的な感想
というわけで、当て所なくつらつらと書き連ねてしまいましたが、目標としていたバタイユの小説3つを無事読了することができました。実際に読んでみた感想としては、全体的に「思ったより全然悪くないが、それほど良くもない」という感じだったな…。心配していた「好みでない/いやな小説を読んで作者であるバタイユのことをちょっと嫌いになる」みたいなことは起こらなかったので安心したのだけれど、むしろバタイユのことが好きで・ある程度知っていたからこそ楽しめた側面が強く、バタイユのことを知らない人が読んで楽しめるのかは全般的に疑問だった。猥褻なものが好きな人は単純に楽しめる可能性ももちろんあるだろうけども…。
バタイユの著作には大きく分けて3つの著作群があり、1つが『内的体験』や『有罪者』などの神秘的で論理的な整合性を欠く思想的文章群。2つ目が『呪われた部分』や『エロティシズムの歴史』など、より学問的で論理的な文章群。そして3つ目が今回読んだ『マダム・エドワルダ』『青空』などの小説群。今回読んで思ったのは、バタイユは小説を書くために小説を書いていたのではなく、あくまで彼が書かずにはいられなかったものが、小説という形をとったのだろうなということ。『マダム・エドワルダ』における()による割り込みや、『目玉の話』の物語の最後に突然出てくる別の語り手の存在など、純粋に小説として成立しているかも危ういような作品群だったと感じた。それだからか「小説」としては完成度が低く感じるというか、評価はイマイチになってしまうのだけれど、逆説的に私はやはりバタイユのことが好きだなと改めて感じることになった。
バタイユは、職業的な作家ではもちろんなく、哲学の体系だった教育を受けた哲学者でもなく、ただ書かずにはいられない人だった。一度知ったらその背景を抜きにバタイユの文章を読めなくなるような壮絶な生い立ちを持ち、彼は生きていくためには文章を書くことが必要だった。そして、私が思うのは、彼は文章を書くことで人と通じ合いたかったのだと思う。時代や環境がそうさせた面もあったかもしれないが、民主的共産主義サークルへの参加や、『ドキュマン』や『クリティック』誌の創刊、アセファルや社会学研究会の創設など、バタイユは書くことを通じた共同体の形成を幾度となく試みていた。「自分が生きていくために書く」といっても個人の満足にとどまるのではなく、それを誰かに届けたい、誰かに理解してもらいたいと痛切に感じていたのではなかろうか。むしろ、生きていくためには、人との交流が必要で、そのための手段としてバタイユは書くということを選択していたとも言えるのかもしれない。だから、バタイユは実は誤解されることを恐れていたのではないかとも思う。小説であろうとお構いなく()で割り込んで補足したり、弁明したりするバタイユの癖は、書いた途端に自分の元を離れ誤解される運命にあるテキストを捕まえ、自分の本音を添えずにはいられないバタイユの不安の現れのように感じる。
私はバタイユの、そうした人間味が好きなのだと思う。小説や、論文を書く上では本来あってはならない「弱さ」であり「甘さ」かもしれないが、私がバタイユを読んで心が安らぐのは、言葉にできない体験をなんとかして言葉にしようとする彼の苦心と、そしてそれをきちんと他者に届けたいと思っている彼の希求を感じるからなのだと思う。他者とのコミュニケーションへの渇望を感じる文章を読むことは、寂しい時にとても慰めになるものなのだ。最後に、私がとても好きなバタイユの文章を引用して終わりたいと思います。
さて、生きるとは君にとって、君のなかで統合されるいくつもの潮流や、つねに逃げ去ってゆく光の戯れなどだけを意味するわけではない。それはまた、一存在者から他の存在者への、君から君の同胞への、あるいは君の同胞から君への、熱や光の移行をも意味するのだ。(君に向かって注ぎ込まれるこの私の熱の伝染を、君が読み取るまさにその瞬間にあってさえも。)話される言葉、書物、記念碑的建築物、象徴、笑いなどは、この伝染、この移行のかずかずの道にほかならない。個別存在者などは大して重要なものではない。
〜中略〜
かくて私たちは、君も私も、私から君に向かって行く言葉、一葉の紙に印刷された燃え立つ言葉に比べてみれば何ものでもないのだ。なぜなら、私はただその言葉を書くためにのみ生きたのだし、その言葉が君に宛てられたものだとすれば、君はその言葉を聞くだけの力を持ったということで、これからも生きてゆくだろうから。
ジョルジュ・バタイユ『内的体験』出口裕弘訳,平凡社ライブラリー