2025-02-27_作品と建築

もたもたしているうちにいつも展覧会が終わってしまうので、せっかくの平日休みを生かして余命いくばくもない川村記念美術館を訪れた。土日は爆混みという噂もあったので、平日だけど念のため早めに東京駅のバス停に向かったところ、平日なのに普通にすごい行列してた。それだけ多くの人が別れを惜しんでいるわけだけれど、そんなに惜しむならば、そもそも別れることにならないようにもっと大切にしてあげるべきだったんだよな。別れを切り出されてから慌てたところで、多くの場合、できることはもう残されていないのだ。

今やっている展示は「作品、建築、自然」がテーマで、要はコレクション展なので見たことがあるものが多い。休館後はコレクションを1/4程度まで縮小して東京都内へ移転するということだから、一体何を残して何を手放すんだろうねと話しながら見て回る。一枚一枚、もしかしたらもう二度と見ることができないかもしれない/また会えるかもしれないという予感を抱きながら見つめる。まなざす。まなざされる。

川村記念美術館の館内はこれまでにないほど人でごった返していて、常にこの状態であればこの場所で運営を継続できたのかもしれないけれど、もし常にこの状態であれば私はこの美術館を愛することができたか怪しいかもしれないとも思った。ロスコルームも過去一番の賑わいで、瞑想からはかけ離れた世俗の場になっていた。

「ロスコはどうするのかな」
「1枚だけ残して売るとか?」
「もし全部残すなら、ここを無くす意味がわからないもんね」

そう、きっとロスコは全部なくなるのだと思った。ロスコを全て手放すからこそ、この場所を閉じるに違いないのだと。

200室:
左右に広がる大きなガラス窓が際立つ展示室です。空っぽの様子に驚かれたかもしれませんが、当初バーネット・ニューマン《アンナの光》の真っ赤な絵画を展示するために計算された展示室であったため、「建物を作品に返す」意味を込めてあえて展示を行いませんでした。

DIC川村記念美術館 1990-2025 作品、建築、自然 館内マップ

空っぽの展示室で、かつてあった、失われたこの部屋の〈レゾンデートル〉に想いを馳せる。その作品のために用意された展示室というのは、ロスコルームも当然そうであるわけで、もしロスコを川村記念美術館が保有し続けるのであれば あの場所を離れるはずがない、離れようもないと思うのだ。

フランク・ステラだってそうだ。あの大きな作品群をやすやすと受け止める、広くて明るい201室。東京のどこにこれらの作品群を同様に飾れる場所があるだろうか? そう思って、「ここのフランク・ステラもぜーーんぶ手放してしまうのかもね」と言った。夫は、美術館を後にするとき、「川村記念は、フランク・ステラを持ってたというのが大事(重要?)だったんじゃないかな」みたいなことをポツリと言った。私はそのときは(ふーん そうなのか)ぐらいに思ったけれど、帰り道に過去の企画展を振り返って川村記念美術館がどのようにできてきたのか、これまでの歩みみたいなものを辿ってみたら、それはあながち間違いじゃないというか、きっと本当にそうだったんだなというような気持ちになった。そして軽々しく「全部手放してしまうんだろうな」なんて言ったことを申し訳なく思った。

いつも企画展をやっている展示室の出口に、今回の展示の締めのメッセージが掲示されていた。これまで、作品を解説するのではなく、作品自体に語らせることを心掛けてきたこと。美術作品を見た人の、作品に応答しようとするうちなる声を邪魔せずに、鑑賞者が自分のうちなる声を聞き取る場であろうとしてきたこと。そうしたことが書かれていて、とても感動したのと同時に、自らの「うちなる声」の通俗さに呆れたり反省させられたりで少し落ち込む。この素敵な場所ともうお別れであるということにも改めて。

閉館に反対する署名活動もあったし(参加したし)、なんとなく撤回して存続するんじゃないかという淡い期待を抱いていたけど、どうやら本当にお別れらしい。あの原美術館だって本当に無くなってしまって、今じゃマンションになっているらしいし。レストランももう3月末まで予約がいっぱいだったから、買ってきたおにぎりとサンドイッチを外のテラスで食べた。同じような人たちがベンチや芝生に座ってお昼を食べていて、のどかだった。バスに乗り込む前、最後に少しでもこの場所を見ておこうと未練がましく振り返る。なんてことないものしか見えないけれど、だからこそこれを見ることはもう本当にない、ここに来ることはもうないのかと寂しく思う。今までありがとう川村記念美術館。

訪れてくださったあなたと、このDIC川村記念美術館を分かち合えたことに意味があったことを願っています。

DIC川村記念美術館