まるで何事もない、平和で楽しい一日だったかのように眠りにつこうとして、それがおよそ不可能であることをようやく悟った明け方に、自分がひどく傷付いていたことを理解する。
二度目の稽留流産になり、いつもの不妊クリニックに流産手術のために訪れた。忙しい社会人でも予約が取りやすいようにアプリが整備されていて、待ち時間も比較的短いのでこれまで大きな不満もなく通っているのだけれど、カーテンで仕切られただけのコンパクトなベッドで手術を待っている間、その凄まじい効率性にひんやりとする。
採卵の手術から、私と同じ流産手術をする/したであろう人たちが入れ替わり立ち替わりで、それはもうすっかり工場のようなのだった。女の腹で卵を育てさせ、採卵をし、受精させたものを女の腹に戻し、上手く行けばそれで子どもが生産され、失敗した女は腹の中身をごっそり吸われて空にされる。ここに来ている人たちは皆望んでそれをやっているとはいえ、かなりディストピアライクだ。私はそこで「失敗したもの」としてラインに並べられていて、あまりにスムーズでインダストリアルなので感傷が入り込む隙もなく、手術室に運ばれて意識を失って、股から血が流れる感覚で目を覚ました。腹はきれいに空になっていた。悲しいとか、そういうことは思えなかった。
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その夜あまりに頭が冴えて眠れないので、女の身体の物性みたいなことを考えていて、昔ある男性の知人と飲んでいたとき「”objectify” って良い言葉だよね/好きな言葉なんだよね」みたいなことを言われたのを思い出した。その人はエンジニアだったし、オブジェクト指向的な、なんかそういう文脈なのかな〜 と思いながら、なんとなく彼とは分かり合えないだろうなというその時の予感そのまま疎遠になったのだが、改めて考えると、己自身を objectify されることはない立場でないと「良い言葉」なんてやっぱり思えないよなと思いつつも、別にその立場が羨ましいでもなく腹立たしいでもなく、なんていうか、思ってみれば己自身を objectify することで精神を守っているのは、他でもない私なのであった。(混乱の極みみたいな文章)
私は何度も、あたかも自分の中に何か塊のようなものがあり、それが柔らかくなりそうになると私を泣かせたり、あるいは私がそのときにふさわしい言葉(あるいはひょっとするとメロディーですら)を見出すのであるかのように感じる。しかしこの何か(それは心なのか?)は私の中で革のような手触りがして、柔らかくはならないのだ。それともただ私が臆病で、体温を十分に上げられないだけなのか?
ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン『哲学宗教日記 1930-1932/1936-1937』鬼界彰夫訳,講談社学術文庫,P30
昔から身体と精神の折り合いが悪くて、悩んだり忘れたりなかったことにしたりしていたけれど、事態がさらに進行して「物としての身体」「自由な精神」の対立どころか、物としての身体の中にあるはずの心もまた物みたいになってて…? でもできたら触りたくないな(泣きたくないから、しんどいから)、みたいな状態になっている気がするね。私も臆病者なんだよウィトゲンシュタイン。
身体どころか人格もろとも objectify してマテリアリスティックに取り扱っていかないと無理、やってられん、というのも事実なんだけど、それだと人間としてなんか…やっていけなくない? これがマルクスがいうところの「疎外」ですか? いやヘーゲルか?
やっぱりマテリアリスティックに傾きがちな現代において、バランスを取るためにスピリチュアルが必要なのでは? 再び感がある。抵抗としてのスピリチュアル。 そう思うと、女性の方がスピリチュアルに親和的というか距離が近いのも、切実な理由があるような気がしてくるんだよな。とりあえずヘーゲルとスピリチュアルの本でも読もうかな。
まるで文章を全然きれいに整えられないけど、きれいに整った文章なんて、ChatGPTがいくらでも書いてくれるもんね? とりあえずこれでいいよ、日記だから。