2025-02-22_全てを忘れてしまう

久しぶりに日記を書いたところ、明らかに元気が出て「自分」を取り戻したような気がしたので、思考と作文のリハビリのためにもしばらく日記らしい日記を書き続けてみようと思う。(PCの「u」のキーだけ明らかに反応が悪くて、私をとても苛々させる)

なぜ元気が出たのか考えてみたけれど、私はあまりにも全てのことを忘れてしまう・そして忘れていることにすら気づかないで普段生活していて、「書く」ことは私に思考を反芻させ、定着させ、記録として痕跡を残しておくことに役立つからなんだと思った。本当にね、驚くほど日々どんどん忘れて過ごしているの、自分が何を考えているか、何を好きなのか、何に興味を持っているのか、何を考えたいのか、何を知りたいのか。しかも自分がそれらを忘れていることにすら気づかなくて、「なんだか最近興味のあることがないなぁ」「面白いものがないなぁ」なんて不満げに、一丁前に生活に倦怠しているような感じで生きていて。自分が全て忘れてるだけなのに。

自分が「書くこと」が好きだったことも、「全部忘れたくない」「何もかも残しておきたい」と願っていたことすら忘れていてびっくりした。そして今ようやく思い出した! 文章を書くと、自分が何を考えているのか、何を好きなのか、確かめることができて便利だ。目に見えないところに閉まっておくと存在を忘れてしまっていつの間にか賞味期限が切れてしまうのと同じで、自分の気持ちや考えも目に見えるところに置いておかないと存在を忘れてしまうんだな、これはマジで。

この間本棚を整理していて、アルツハイマー症の当事者が書いた書籍があって、(これはなんで持ってるんだっけ…?)と訝しみつつ本棚に収めなおしたのだが、おそらくかつての私が「記憶」にもっと執着していたので興味を持ったんだろうな、と思い出した。というか去年のみすずの読書アンケートで面白そうと思った本を片っ端から買ったうちの一冊だったな、とこれもまた思い出した。みすずの読書アンケート2024も買ってあって読むのを楽しみにしているけど、また面白そうな本を片っ端から買った上で全てのものについてなぜ興味を持ったか忘れそうなので、今・興味を持っている目の前のことから目を離すのが怖いし、ちょっと取っておく。

アルツハイマー症といえば、「Forgotten」というアルツハイマー症患者の視点で生活を体験するインディーゲームがあって、それをやってみるといいのかもしれない。最近Steam Deckを買い、今までやりたくてもできなかったPCゲーに手を出せるようになったので!(Steam Deck、笑ってしまうほどデカくて、届いた時涙が出るほど笑った)

しかし自分があまりにも多くのことを忘れていることに恐怖を覚えたので、なんか記憶術とか、記憶力自体を向上させる取り組みもやった方がいいのかもしれない。なんか手元にWORKSIGHTの「記憶と認知症」の号もあって、記憶術についても書かれてたので。

自分が何を好きだったか思い出すためにもTwitter(いつまでもそう呼ぶ)のいいね欄を整理してて見つけたのだけど、「何も見ずに引用できる詩の一節、歌える旋律、それらだけが君を生き延びさせる」というのがとても沁み、私も『収容所のプルースト』みたいにそらで語れる何かを持てるようにしたいものよねと思ったのでした。

2025-02-21_インダストリアル

まるで何事もない、平和で楽しい一日だったかのように眠りにつこうとして、それがおよそ不可能であることをようやく悟った明け方に、自分がひどく傷付いていたことを理解する。

二度目の稽留流産になり、いつもの不妊クリニックに流産手術のために訪れた。忙しい社会人でも予約が取りやすいようにアプリが整備されていて、待ち時間も比較的短いのでこれまで大きな不満もなく通っているのだけれど、カーテンで仕切られただけのコンパクトなベッドで手術を待っている間、その凄まじい効率性にひんやりとする。
採卵の手術から、私と同じ流産手術をする/したであろう人たちが入れ替わり立ち替わりで、それはもうすっかり工場のようなのだった。女の腹で卵を育てさせ、採卵をし、受精させたものを女の腹に戻し、上手く行けばそれで子どもが生産され、失敗した女は腹の中身をごっそり吸われて空にされる。ここに来ている人たちは皆望んでそれをやっているとはいえ、かなりディストピアライクだ。私はそこで「失敗したもの」としてラインに並べられていて、あまりにスムーズでインダストリアルなので感傷が入り込む隙もなく、手術室に運ばれて意識を失って、股から血が流れる感覚で目を覚ました。腹はきれいに空になっていた。悲しいとか、そういうことは思えなかった。

その夜あまりに頭が冴えて眠れないので、女の身体の物性みたいなことを考えていて、昔ある男性の知人と飲んでいたとき「”objectify” って良い言葉だよね/好きな言葉なんだよね」みたいなことを言われたのを思い出した。その人はエンジニアだったし、オブジェクト指向的な、なんかそういう文脈なのかな〜 と思いながら、なんとなく彼とは分かり合えないだろうなというその時の予感そのまま疎遠になったのだが、改めて考えると、己自身を objectify されることはない立場でないと「良い言葉」なんてやっぱり思えないよなと思いつつも、別にその立場が羨ましいでもなく腹立たしいでもなく、なんていうか、思ってみれば己自身を objectify することで精神を守っているのは、他でもない私なのであった。(混乱の極みみたいな文章)

私は何度も、あたかも自分の中に何か塊のようなものがあり、それが柔らかくなりそうになると私を泣かせたり、あるいは私がそのときにふさわしい言葉(あるいはひょっとするとメロディーですら)を見出すのであるかのように感じる。しかしこの何か(それは心なのか?)は私の中で革のような手触りがして、柔らかくはならないのだ。それともただ私が臆病で、体温を十分に上げられないだけなのか?

ルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン『哲学宗教日記 1930-1932/1936-1937』鬼界彰夫訳,講談社学術文庫,P30

昔から身体と精神の折り合いが悪くて、悩んだり忘れたりなかったことにしたりしていたけれど、事態がさらに進行して「物としての身体」「自由な精神」の対立どころか、物としての身体の中にあるはずの心もまた物みたいになってて…? でもできたら触りたくないな(泣きたくないから、しんどいから)、みたいな状態になっている気がするね。私も臆病者なんだよウィトゲンシュタイン。

身体どころか人格もろとも objectify してマテリアリスティックに取り扱っていかないと無理、やってられん、というのも事実なんだけど、それだと人間としてなんか…やっていけなくない? これがマルクスがいうところの「疎外」ですか? いやヘーゲルか?
やっぱりマテリアリスティックに傾きがちな現代において、バランスを取るためにスピリチュアルが必要なのでは? 再び感がある。抵抗としてのスピリチュアル。 そう思うと、女性の方がスピリチュアルに親和的というか距離が近いのも、切実な理由があるような気がしてくるんだよな。とりあえずヘーゲルとスピリチュアルの本でも読もうかな。

まるで文章を全然きれいに整えられないけど、きれいに整った文章なんて、ChatGPTがいくらでも書いてくれるもんね? とりあえずこれでいいよ、日記だから。