2022-06-01_理性と欲望

ずっと日記を書きたいと思っていたのに気付けば光の速さで五月が終わっていて、時の流れの残酷さに目眩を覚える。基本的に元気に楽しく過ごしているが、絶望的な、あまりに絶望的な気分もかなりの頻度で顔を出してくるので、情緒は急上昇・急降下・急旋回を繰り返していて本当に生きてるだけで一人スペースマウンテンの趣きだし、ここには心臓が弱い人間用の途中退出口も用意されていないのだった。

今日は午後休をとって前から見たかった『言葉と行動』を見に行った。原題は “Les choses qu’on dit, les choses qu’on fait” で、ほぼそのままではあるけど『私たちが言うこと、私たちがすること』だ。人間言うこととやることは違う、というか、理性によって制御される言葉/欲望によって突き動かされる行動 の対比ということかな。私はそれこそ人間の理性によって積み重ねられてきたあらゆる知の営みを敬愛しているし、そうしたことについて言語で表現したり、コミュニケーションを取ることが何より大きな喜びなのだけれど、しばしば理性を圧倒する欲望に全てを薙ぎ倒されたり引きずり廻されたりしてボロボロになってしまうので、恋愛って本当にそう……と半分遠い目になりながら見ていた。

これは直球にステレオタイプな感想ではあるけれど、本当にフランス人は年齢も配偶者・恋人の有無も関係なく常に恋愛に積極的でブラボーだなと思った。さすがアムールの国、学ぶべきことが非常に多い。フランス人のような恋愛に対する態度を日本人も全員身につければもっと生きやすくなるんじゃないかと思いますよね。「好意を抱いたのにそれを伝えないなんて勿体無い・むしろ失礼」ぐらいのスタンスだし、「われわれは欲望の前に無力・そもそも欲望は罪ではない」と欲望を肯定していくし、「既に恋人がいるとしても、彼女に対するこの感情を諦めるというのも違う・何せ人間は自由だから…」とか言って、それはもうみんな好き放題ですよ。もちろんその裏では、ズタズタに傷ついている人間も当然発生しているのだが。

パートナーがいようとお構いなしに「出会ってしまった恋愛」に対して向かっていく人たちを見て、坂口安吾が『恋愛論』で書いてたのってこういうことだよなと思っていた。「私は弱者よりも、強者を選ぶ。積極的な生き方を選ぶ。この道が実際は苦難の道なのである。なぜなら、弱者の道はわかりきっている。暗いけれども、無難で、精神の大きな格闘が不要なのだ。」って下り。美しい出逢いに、人生における喜びに、躊躇いなく手を伸ばすこと。「愛」の価値を認めていなければできないことだと思う。それにしても本当に恋愛って「命懸けの飛躍」だな。(そして思い立って柄谷行人の『探究Ⅰ』を読み出す)

「共通点で恋愛相手を選ぶなんて不道徳よ、それは愛ではなく資本の構築に過ぎない」と言っている女がいて感心したけれど、それはそれとして熱情がいずれ冷めることは避けられないのであって、やはり理性的に分かり合えること、共通点があることは大事だよね…と思いながら、今まさに自身の恋愛について吟味している。先日会った人とともこの「理性と欲望の乖離問題」について話したのだけれど、理性的判断=損得勘定と捉えられてしまい、そうではないんだよ… その理性の働きの話ではないのだよ… と思わず不愉快になってしまった。身体的な快楽に対するものとしての、プラトニックな精神的繋がりの話をしているんだ私は。

その人と「アプリは市場であって、ここで愛を見つけるなんて不可能なことのように思える」「一体どうやって人は人のことを好きになるのか」なんて話をしていたけれど、その実わたしは人を好きになるとはどういうことなのか、身を以て分かっているのだ。今話しているあなたではない他の人に、特別な嬉しさと苦い不安を抱いていることを私は知っている。

欲情だけでは続かないし、理性だけでは始まらない。理想を言えば当然両方要求したいところなのだけれど、どちらか一方を満たす人と出会うことすらかなり困難だ。だけれど両方が揃った時の喜びはそれはもう格別で、脳はビカビカと光り、胸には炎が燃え、それを知ってしまったら後戻りはできない。何かを知るということは、知る前の自分にはもう二度と戻れないということだ。そして私がやるべきことは、寂しさから逃れるために慰めを求めることではなく、恐れずに自分の本当に欲しいものに手を伸ばすことだ。

君は君自身の渇望のもたらした結果を単純にどこかに放り出して、あっさり退出することなんてできないんだ。原因と結果だよ。なあ、原因があり、結果があるんだ。君に今できるただひとつのことは、唯一の宗教的行為は、演技をすることだ。もし君がそう望むなら、神のために演技をすることだ。もし君がそう望むなら、神の俳優になることだ。それより美しいことがあるだろうか? もし君がそう望むなら、少なくとも君はそれを試してみることができる。試してみることには何の不都合もない」。

J.D.サリンジャー『フラニーとズーイ』村上春樹訳,新潮文庫,p286

今日は良い映画を見てすっかり心が満たされていたのになぜかその後『まじめな会社員』を読んでしまい、げんなりしてしまった。同じ作者の「普通の人でいいのに!」は炎上に近い受容のされ方だったと記憶しているけど、少なくとも私は「普通の人」では駄目なんだと分かっている。だから私の現状は、私の渇望のもたらした結果として受け入れている。だから、それを放り出して退出することなんてできない。原因と結果だよ。なあ、原因があり、結果があるんだ。そう、演技をするんだ、ザカリー・マーティン・グラス! いつでもどこでもお前が望むままに、そうしなくてはならないとお前が感じるのであれば。しかしやるからには、全力を尽くしてやってくれ、ということなんだよな。