恋人と別れたことによって私のOSに強制再起動がかかったようで、頭がすっきりして再び考えるべきことが脳内を駆け巡るようになり、これがあるべき姿だ!と思ったのも束の間、また精神が淀んできた。と言うか、きちんと「孤独」になり切れていないのがおそらく問題なのだと思う。
ハンナ・アーレントによれば人間が独りでいる状態にも3種類あって、「孤独(Solitude)」「孤立(Isolation)」「孤絶(Loneliness)」に分けられるらしい。
「孤独」は1人でいるけれど、思考し、自分と共にいること。もう一人の自分と対話することで、その対話を通じて「世界」と繋がりを持てている状態だという。この営みを通じて人間はアイデンティティを確立し、世界に現れる自己というものが出来上がる。
「孤立」は人と人とが共同で活動する契機が奪われた状態、連帯して政治的な活動などを行うことができないように一人一人が孤立させられていることで、専制的な政府が目指すところである。仕事をしている人間もこれにあたるらしいが、ネガティブな意味だけでなく、人間が何かを生産するには他者から守られ、孤立することが必要になる場面もあるとアーレントは言っている(らしい)。
そして最後の「孤絶」は「見捨てられていること」とも訳されていて、これは「孤独」になることもできていない状態で、一人でいても自己と対話することもできず、思考が断絶されて結果的に自己の喪失にもつながってしまう。
「見捨てられている(lonely)」状況においては、人間は自分の思考の相手である自分自身への信頼と、世界へのあの根本的な信頼というものを失う。人間が経験するために必要なのはこの信頼なのだ。自己と世界が、思考と経験をおこなう能力が、ここでは一挙に失われてしまうのである。
ハンナ・アーレント『全体主義の起源 Ⅲ』
これじゃ〜〜〜〜〜ん!まさに、と思わず膝を打ったよね。すごく打った。
早く元気だすぞ!と思うあまり、マッチングアプリに勤しんでいたけど、故に「孤独」になりきれず・とはいえ人とじっくり向き合うこともできず、結果的に「lonely」な状況に自分を追い込んでいたよね、と反省した。マッチングアプリで一人一人に返事してるだけで余暇の時間が全部終わるからな、そんなん自己と対話できなくて当たり前なのよ。
マッチングアプリやってると、本当に人がいっぱいいるし、それぞれの人間に「人格」があるのか疑わしい気持ちになるというか、人間に見えなくなってくるんだよな。もちろん一人一人が独自の人生を歩んできて、それぞれ特別なオンリーワンの世界に一つだけの花…であることは間違いないはずなんだけど、めちゃくちゃ画一的な人間ばっかりじゃない?とゲンナリしてしまう。全員旅行が好きだし、NetflixかアマプラかYoutube見てて、最近はキャンプに行ったりジムに行ったり料理をしてみたりしているからな。いや、私がある程度条件で絞ってしまったが故にこうなっているのか?? 私の求める条件を満たす人間は、自動的にこういう行動をとるように最適化されてしまうのだろうか??
誕生から死まで、日曜から土曜まで、朝から晩まで、すべての活動が型にはめられ、あらかじめ決められている。このように型にはまった活動の網に捕らわれた人間が、自分が人間であること、唯一無二の個人であること、たった一度だけ生きるチャンスをあたえられたということ、希望もあれば失望もあり、悲しみや恐れ、愛への憧れや、無と孤立の恐怖もあること、を忘れずにいられるだろうか。
エーリッヒ・フロム『愛するということ』鈴木晶訳,紀伊国屋書店
マッチングアプリ再開して、複数のアプリを適当に登録してありがたいことに3000ぐらいは「いいね」もらったと思うけど、その中で「面白そうな人間」本当に数人しかいないもの。なんていうか「人間」が居なさすぎない? 仕事も娯楽も感情さえも型にはめられたように見える人たち。実際に個別に向き合えばそうではないことがわかるかもしれないけれど、とてもそんなことができないような目まぐるしい市場に身を置かざるを得ない現代の恋愛、険しすぎる。
まぁこんなこと書いてる私自身がオリジナルな「人間」として存在できているのか、型にはまっていないのか、面白い人間であるのか、というのは常に反省しなくてはいけないことだし、油断して「lonely」な状態になっていると自己を喪失してしまうので、意識的に「孤独」であらねばならないね。そして誰か人と共にいることになったとしても、ずっと「孤独」でい続けなければいけないし、今度こそそれを手離さないようにしようと思う。
しかしアーレント全く読まずにこれ書いたけど、「人間」が世の中に居なさすぎるような気がするし、ここで『人間の条件』でも読もうかな…(ヘーゲルを読め)