もう既に何がきっかけだったか思い出せなくなっているけれど、突然目が覚めたような思いがして、諸悪の根源は、自分自身と向き合わずにただひたすら「気をまぎらわす」ことに努めていたことだと気がついた。こんなことわざわざ言うなんて、正直ダサいし馬鹿みたいで恥ずかしいけれど、まぁそんなダサくて馬鹿みたいで恥ずかしいのが今の自分なのだから、つらくてもまずはそこを受け入れましょうね。
精神の生(Das Leben des Geistes)とは、死を避け、荒廃から己れを清らかに保つ生ではなく、死のただなかに己れを維持する生である。精神がその真理を獲得するのは、ただ絶対的な四分五裂のただなかに自己自身を見出すことのみによっている。精神がこういう力であるのは、われわれがあるものについて「これは無である」とか「これは偽である」とか言って、ただちにそれを片付けて何か他のものに移っていくときにするように、否定的なものから目を背ける肯定的なものとしてではない。そうではなくて、精神がこういう力であるのは、否定的なものをはっきりと直視し、そのもとに足を停めることのみによっている。この足を停めることこそ、否定的なものを存在へと逆転させる魔力なのである。この魔力は、さきに主体(Subjekt)と呼ばれたものと同じものである。
ヘーゲル『精神現象学』序文
ヘーゲルは私からすると「友達の友達の友達」とか「曽祖父」ぐらいの距離感にいる人で(むしろもっと遠いのでは?)、名前はよく出てくるけど実際には何も読んだことはなく・まぁ流石に読むこともないのではないかと思っていた。が、朝カルで高橋哲哉の「現代思想と「犠牲の論理」」の講義で引用されていたのが上記の文章で、はーーー今の私に必要なことっぽい…と反省したし、最近やりとりをしている人も「It’s never too late to try…」「You can start with Phenomenology of spirit」とか煽ってくるので性懲りもなくヘーゲルにも手を出すことにした。
ちなみにこの間読んだ『「論理的思考」の社会的構築 フランスの思考表現スタイルと言葉の教育』が滅茶苦茶面白かったんだけど、これによればフランスの「論理的思考」=論文の構成は、すごく弁証法的なんだよね。与えられたテーマに対して、必ず「正」の立場と「反」の立場から論証を試みた上で、その両者を超える「合」を目指していくというスタイル…。この本で取り上げられているのはフランスのバカロレア試験での小論文と、そしてその準備としてのフランスの教育カリキュラムについてで、すべての教育はそのスタイルで論証できるようになるために組み立てられていると言ってもいいぐらいで、その無駄のなさ、合理性が感動的ですらある。
そもそものフランスの国としての教育の理念が「市民の育成」で、国家に反抗できる強い個人を作るというようなところにあって、国家が国民に対して「必要ならば革命を起こせ」というようなことを教えるなんて信じがたいな〜〜〜 特にこの日本に生きている身としては。。。と感動した。日本は学校教育を通して「自分では何も考えず、上の言うことは絶対なので疑問を持たず、規則にしっかり従える人間」を作ろうと思ってるとしか思えないもんね、そんなん長期的に国家の衰退しか招きませんよねえ。こうやって国家とか言い出すと今度は「国家」とは…ってなって、結局またヘーゲルを読もうという話になるんだよな。
ちなみにこの本を読まなくても著者へのインタビューの記事も面白かったのでそれだけでもどうぞ。「論理的思考」の落とし穴――フランスからみえる「論理」の多様性
フランスの論理と比較される形で出てきた「アメリカの論理」(論証構造)は、いわゆる5パラグラフ・エッセイで、よくある「主張」→「エビデンス×3」→「主張の確認」というスタイルなのだけど、確かにこれだと片側の主張のみだけで成立するから「エビデンス」さえ集めてしまえば「論理的に正しい」ことになってしまう危うさがあるんだよな。昨今の陰謀論も、一応これに則って(支離滅裂だとしても)「エビデンス」持ってくるからそれなりに「論理」があるように見えてしまう、否定するのがダルい、反対意見と平行線を辿ってしまう、となっているのでは?? と思った。フランスの論理で物事を考えていたら陰謀論ハマらなそうな気がするんだけど、フランスでも陰謀論って流行ってるのかな〜。
もっと講義で聞いたヘーゲルとニーチェの話しようと思ってたのに何故か論理的思考の社会的構築の話になってしまった。まぁヘーゲルはこれから読むところなのでまだ何の話もできないが、まぁニーチェも生きるということとは「力」を肯定することだと言っているし、「否定的なものをはっきりと直視し、そのもとに足を停める」力を付けて頑張って生きていくぞという感じだ。