私個人としては新年度でもなんでもないが、世間的にはそんなタイミングなわけで物事を仕切り直してまた始めるにはいい機会なのだろう、と思ってまた日記を書き始める。
Twitterも前ほど熱心にやらなくなってしまったし、日記も書いていないものだから文章力が落ちているのは勿論のこと、生活から乖離した:抽象的な、形而上的な物事を考えたり持論を展開する筋力が何よりも落ちている気がしていて、それは即ち私を私たらしめていたはずのものがいつの間にか抜け殻になっていたような、そんな危機感を覚えていた/いる。
収容所では、肉体の維持が最も重要となる。だが、肉体にのみ関心を向ける生き方は、多くの場合、人間の尊厳を傷つける。まさに「人はパンのみにて生きるわけではない」のであり、精神的活動がなければ日々はただ生存の連続にすぎなくなってしまう。精神の活動こそが、今日を昨日と区別し私を他者と区別する。
ジョゼフ・チャプスキ『収容所のプルースト』岩津 航 訳,共和国
折に触れて『収容所のプルースト』の、おそらく確か解説にあったこの文章を思い出す。そうなんだよな、「精神的活動」がなければそれはただの生存でしかなく、昨日も今日も明日も変わらず淡々と時だけが流れ、私が他の誰かではない「私」であるということが、よく分からなくなってしまう。だからこそ改めて「私」を、私が好きだった私の形を取り戻すために、また文章を書こうと思っているわけだけれど、本屋をぶらぶらしていてなんとなく手にとった『文章表現 四〇〇字からのレッスン』でも「私たちは日々人間として生きていますが、生きていることの喜びの根底にあるのは、自分がこの世にかけがえのないものとして存在するという自覚です」とあって、おそらく本当にそうなんだろうなぁと思った。ただの自己満足だとしてもこうして文章を書いたりしているのは、それが生きることの喜びで、それがなければ生きてる意味なんて全然ないように思えるからなのだ。
しかし生きていること/人生の意味って本当になんなんだろうね。but これについて書き出すとびっくりするほど暗い人間っぽくなってしまうので本日は割愛。
私たちにはまだ思考し、そのときの状況と何の関係もない精神的な事柄に反応することができる、と証明してくれるような知的努力に従事するのは、一つの喜びであり、それは元修道院の食堂で過ごした奇妙な野外授業の間、私たちには永遠に失われてしまったと思われた世界を生き直したあの時間を、薔薇色に染めてくれた。
ジョゼフ・チャプスキ『収容所のプルースト』岩津 航 訳,共和国
第二次世界大戦下のポーランド。ソ連の捕虜が収容されていた元修道院で、捕虜たちは明日への希望も持てない中でなんとか精神の荒廃から身を守ろうと、持ち回りで自分の得意分野について講義の時間を持つことにした。そこの捕虜の一人だったチャプスキがプルーストの『失われた時を求めて』について講義をしたときのノートを元にしたのが、この『収容所のプルースト』。勿論手元に著作なんてない状況下で、チャプスキは全て自分の記憶を頼りにストーリーを語り、引用し、解説する。本人によれば、これは文学批評ではなく、もう二度と生きて読み返せるかどうかも分からなかった、自分にとって大切な作品の思い出なのだという。
零下40度にもなる壮絶な環境での労働の後、疲れ切っているはずなのに食堂に詰めかけて『失われた時を求めて』についての講義をみんなで聞くなんて、本当に信じがたいことだし、普段は役に立たないとか言われてるかもしれないが、こうやって我々を生かしてくれるのが文学の力なのだなと改めて感動してしまった。生きるためにはパンだけでなく、薔薇も求めなくては。生きることは薔薇で飾られねばならない(ウィリアム・モリス)。というが、飾りどころか私にとっては文学や芸術こそがパンみたいなところはあるんですけれどね。それを分かってくれる人というのは存外少なくて悲しいですが。
とりあえず精神の荒廃を防ぐために、精神的活動をアクティベートしていくぞという決意表明日記でした。