2022-4-24_人間の条件

恋人と別れたことによって私のOSに強制再起動がかかったようで、頭がすっきりして再び考えるべきことが脳内を駆け巡るようになり、これがあるべき姿だ!と思ったのも束の間、また精神が淀んできた。と言うか、きちんと「孤独」になり切れていないのがおそらく問題なのだと思う。

ハンナ・アーレントによれば人間が独りでいる状態にも3種類あって、「孤独(Solitude)」「孤立(Isolation)」「孤絶(Loneliness)」に分けられるらしい。
「孤独」は1人でいるけれど、思考し、自分と共にいること。もう一人の自分と対話することで、その対話を通じて「世界」と繋がりを持てている状態だという。この営みを通じて人間はアイデンティティを確立し、世界に現れる自己というものが出来上がる。
「孤立」は人と人とが共同で活動する契機が奪われた状態、連帯して政治的な活動などを行うことができないように一人一人が孤立させられていることで、専制的な政府が目指すところである。仕事をしている人間もこれにあたるらしいが、ネガティブな意味だけでなく、人間が何かを生産するには他者から守られ、孤立することが必要になる場面もあるとアーレントは言っている(らしい)。
そして最後の「孤絶」は「見捨てられていること」とも訳されていて、これは「孤独」になることもできていない状態で、一人でいても自己と対話することもできず、思考が断絶されて結果的に自己の喪失にもつながってしまう。

「見捨てられている(lonely)」状況においては、人間は自分の思考の相手である自分自身への信頼と、世界へのあの根本的な信頼というものを失う。人間が経験するために必要なのはこの信頼なのだ。自己と世界が、思考と経験をおこなう能力が、ここでは一挙に失われてしまうのである。

ハンナ・アーレント『全体主義の起源 Ⅲ』

これじゃ〜〜〜〜〜ん!まさに、と思わず膝を打ったよね。すごく打った。
早く元気だすぞ!と思うあまり、マッチングアプリに勤しんでいたけど、故に「孤独」になりきれず・とはいえ人とじっくり向き合うこともできず、結果的に「lonely」な状況に自分を追い込んでいたよね、と反省した。マッチングアプリで一人一人に返事してるだけで余暇の時間が全部終わるからな、そんなん自己と対話できなくて当たり前なのよ。

マッチングアプリやってると、本当に人がいっぱいいるし、それぞれの人間に「人格」があるのか疑わしい気持ちになるというか、人間に見えなくなってくるんだよな。もちろん一人一人が独自の人生を歩んできて、それぞれ特別なオンリーワンの世界に一つだけの花…であることは間違いないはずなんだけど、めちゃくちゃ画一的な人間ばっかりじゃない?とゲンナリしてしまう。全員旅行が好きだし、NetflixかアマプラかYoutube見てて、最近はキャンプに行ったりジムに行ったり料理をしてみたりしているからな。いや、私がある程度条件で絞ってしまったが故にこうなっているのか?? 私の求める条件を満たす人間は、自動的にこういう行動をとるように最適化されてしまうのだろうか??

誕生から死まで、日曜から土曜まで、朝から晩まで、すべての活動が型にはめられ、あらかじめ決められている。このように型にはまった活動の網に捕らわれた人間が、自分が人間であること、唯一無二の個人であること、たった一度だけ生きるチャンスをあたえられたということ、希望もあれば失望もあり、悲しみや恐れ、愛への憧れや、無と孤立の恐怖もあること、を忘れずにいられるだろうか。

エーリッヒ・フロム『愛するということ』鈴木晶訳,紀伊国屋書店

マッチングアプリ再開して、複数のアプリを適当に登録してありがたいことに3000ぐらいは「いいね」もらったと思うけど、その中で「面白そうな人間」本当に数人しかいないもの。なんていうか「人間」が居なさすぎない? 仕事も娯楽も感情さえも型にはめられたように見える人たち。実際に個別に向き合えばそうではないことがわかるかもしれないけれど、とてもそんなことができないような目まぐるしい市場に身を置かざるを得ない現代の恋愛、険しすぎる。

まぁこんなこと書いてる私自身がオリジナルな「人間」として存在できているのか、型にはまっていないのか、面白い人間であるのか、というのは常に反省しなくてはいけないことだし、油断して「lonely」な状態になっていると自己を喪失してしまうので、意識的に「孤独」であらねばならないね。そして誰か人と共にいることになったとしても、ずっと「孤独」でい続けなければいけないし、今度こそそれを手離さないようにしようと思う。

しかしアーレント全く読まずにこれ書いたけど、「人間」が世の中に居なさすぎるような気がするし、ここで『人間の条件』でも読もうかな…(ヘーゲルを読め)

2022-04-14_鎮痛剤

失恋の痛手がボディーブローのように効いてきたというか、精神的にはむしろ淀みから抜け出たようなある種爽やかな軽快さがあったりするのだけれど、フィジカルの方にダメージがダイレクトに来ていてライフポイントがジワジワと削られているのが今。お願い!死なないで城之内! と思いながらゴールデンカムイを読むことで辛うじて人間の形を保っているが、しかしその一方で、本当は気を紛らわせている場合ではなく、できるだけこの強烈な痛みや感情が去ってしまう前に、薄まってしまう前に、それを直視して味わい尽くしておかなければとは思っている。

以前のわたしは、生理痛やその他頭痛や何か痛みがあるときに、すぐ鎮痛剤を飲むことに妙な抵抗があって・なるべく痛みを痛みのままにさせておきたいようなところがあった。いつの間にかすっかりそんな気力が衰えたのか、仕事を優先するためのプラクティカルな理由からか、躊躇いなく痛み止めを飲むようになった。なんとなくこれは、今の私の精神的な痛みに対する態度と通ずるものがあるような気がしている。

これはまたお馴染みの脱線なんだけど、人間は鎮痛剤を飲むと他者の痛みへの共感も薄まるらしい。ついでに他者への共感性が高い人間はその分ストレスを感じやすく、結果的に不親切になりやすいらしいので、そういう人は鎮痛剤を飲むと共感が薄まっていい感じになるかもしれないよねと思った。会社に一見人当たりがよくていつもニコニコしてるんだけどその実めちゃくちゃ失礼で仕事のできないおじさんがいるんだけど、あの人ももしかしたら周囲に気を遣いすぎてストレスを感じて結果的に不親切&仕事ができない状態になっているのだとしたら、鎮痛剤を投与することで共感性が薄まって仕事ができるようになるのではなかろうか…とまぁまぁ真剣に考えたりしていた。でも鎮痛剤はあくまで「他者の痛み」に対する共感を薄めるものだから、あまり意味はないのだろうか?

「痛み」と向き合うということを考える時、いつもわたしは『ハチミツとクローバー』のはぐちゃんが、大怪我を負った後に鎮痛剤を使わず全身の痛みに耐えながら自分の手の先の感覚があるか探り当てようとする場面を思い出す。鎮痛剤を使えば耐え難い痛みを抑えることはできるけれど、同時に感覚も麻痺してしまうから、己の感覚の微かな印を、一筋の希望もまた紛れて見失ってしまうことを彼女は恐れて、必死に痛みに向き合っていたんだよね。

気を紛らすためにインスタントな慰めを求めても却ってゲンナリしたり神経をすり減らすことになるから良くないな〜と思っていたけど、それよりももっと悪いのは、むしろ本当に「慰め」がすぐに手に入ってしまって、何の反省もなく手元にあったはずの痛みを忘れてしまうことだろうなと思う。

わたしはすぐに空元気を出して動き回る人間だけど、少し落ち着いて男を殺す小説を書く準備をしようね。

2022-04-09_弁証法とフランスの論理

もう既に何がきっかけだったか思い出せなくなっているけれど、突然目が覚めたような思いがして、諸悪の根源は、自分自身と向き合わずにただひたすら「気をまぎらわす」ことに努めていたことだと気がついた。こんなことわざわざ言うなんて、正直ダサいし馬鹿みたいで恥ずかしいけれど、まぁそんなダサくて馬鹿みたいで恥ずかしいのが今の自分なのだから、つらくてもまずはそこを受け入れましょうね。

精神の生(Das Leben des Geistes)とは、死を避け、荒廃から己れを清らかに保つ生ではなく、死のただなかに己れを維持する生である。精神がその真理を獲得するのは、ただ絶対的な四分五裂のただなかに自己自身を見出すことのみによっている。精神がこういう力であるのは、われわれがあるものについて「これは無である」とか「これは偽である」とか言って、ただちにそれを片付けて何か他のものに移っていくときにするように、否定的なものから目を背ける肯定的なものとしてではない。そうではなくて、精神がこういう力であるのは、否定的なものをはっきりと直視し、そのもとに足を停めることのみによっている。この足を停めることこそ、否定的なものを存在へと逆転させる魔力なのである。この魔力は、さきに主体(Subjekt)と呼ばれたものと同じものである。

ヘーゲル『精神現象学』序文

ヘーゲルは私からすると「友達の友達の友達」とか「曽祖父」ぐらいの距離感にいる人で(むしろもっと遠いのでは?)、名前はよく出てくるけど実際には何も読んだことはなく・まぁ流石に読むこともないのではないかと思っていた。が、朝カルで高橋哲哉の「現代思想と「犠牲の論理」」の講義で引用されていたのが上記の文章で、はーーー今の私に必要なことっぽい…と反省したし、最近やりとりをしている人も「It’s never too late to try…」「You can start with Phenomenology of spirit」とか煽ってくるので性懲りもなくヘーゲルにも手を出すことにした。

ちなみにこの間読んだ『「論理的思考」の社会的構築 フランスの思考表現スタイルと言葉の教育』が滅茶苦茶面白かったんだけど、これによればフランスの「論理的思考」=論文の構成は、すごく弁証法的なんだよね。与えられたテーマに対して、必ず「正」の立場と「反」の立場から論証を試みた上で、その両者を超える「合」を目指していくというスタイル…。この本で取り上げられているのはフランスのバカロレア試験での小論文と、そしてその準備としてのフランスの教育カリキュラムについてで、すべての教育はそのスタイルで論証できるようになるために組み立てられていると言ってもいいぐらいで、その無駄のなさ、合理性が感動的ですらある。

そもそものフランスの国としての教育の理念が「市民の育成」で、国家に反抗できる強い個人を作るというようなところにあって、国家が国民に対して「必要ならば革命を起こせ」というようなことを教えるなんて信じがたいな〜〜〜 特にこの日本に生きている身としては。。。と感動した。日本は学校教育を通して「自分では何も考えず、上の言うことは絶対なので疑問を持たず、規則にしっかり従える人間」を作ろうと思ってるとしか思えないもんね、そんなん長期的に国家の衰退しか招きませんよねえ。こうやって国家とか言い出すと今度は「国家」とは…ってなって、結局またヘーゲルを読もうという話になるんだよな。

ちなみにこの本を読まなくても著者へのインタビューの記事も面白かったのでそれだけでもどうぞ。「論理的思考」の落とし穴――フランスからみえる「論理」の多様性

フランスの論理と比較される形で出てきた「アメリカの論理」(論証構造)は、いわゆる5パラグラフ・エッセイで、よくある「主張」→「エビデンス×3」→「主張の確認」というスタイルなのだけど、確かにこれだと片側の主張のみだけで成立するから「エビデンス」さえ集めてしまえば「論理的に正しい」ことになってしまう危うさがあるんだよな。昨今の陰謀論も、一応これに則って(支離滅裂だとしても)「エビデンス」持ってくるからそれなりに「論理」があるように見えてしまう、否定するのがダルい、反対意見と平行線を辿ってしまう、となっているのでは?? と思った。フランスの論理で物事を考えていたら陰謀論ハマらなそうな気がするんだけど、フランスでも陰謀論って流行ってるのかな〜。

もっと講義で聞いたヘーゲルとニーチェの話しようと思ってたのに何故か論理的思考の社会的構築の話になってしまった。まぁヘーゲルはこれから読むところなのでまだ何の話もできないが、まぁニーチェも生きるということとは「力」を肯定することだと言っているし、「否定的なものをはっきりと直視し、そのもとに足を停める」力を付けて頑張って生きていくぞという感じだ。

2022-04-04_彗星とこねこ

なかなか日記を書けなくなったのは、家でPCを開くことのハードルが上がったためだと考えられるので、試しにiPhoneから日記を書けるものかやってみる。文章の練習をピアノの練習になぞらえるなら、当然鍵盤を叩くようにキーボードを叩きたいものだけれど背に腹はかえられない。

薄々予感はしていたものの、やはり別れた方がいいのかもしれない、という話を日曜日に彼からされた。正直なところ私もずっともやもやしていて・そうすべきなのかもしれないとは思っていたから、(それでも私から彼を手離すということには、どうしても踏み切れなかったから) それではここでお別れとしましょうということにした。もやもやした状態を続けていくよりはすっきりして良かったなぁと素直に思ったし、意外と全然元気だな〜と思っていたが、その夜はどんなに湯船に浸かっても・白湯と麻黄湯を飲んでも・暖房を付けてライトダウンを羽織っても、身体の芯が凍ったようでまったく暖まらず、凍りついた身体の中でかろうじて拍を打つ自分の心臓を抱えるようにして、ただただ部屋の暗がりを眺めていた。思わず泣きついた友人には、「明日のことは考えず、震えながら日記なり何なりを書き殴ったほうがいい」と言われたので、眠る努力よりは眠らない努力に力を傾けたけれど、何かを考えたり書いたりするよりも明らかにバグっている身体感覚を味わっているうちに夜は更けていき、いつの間にか眠りについていた。

実のところその夜の時点で「絶対に明日は会社休む」と決意していたので、朝起きてまだ凍りついている身体を確認し、速やかに病休の連絡を入れた。本当のところなら忌引きの特別休暇として5日間ぐらい休みたいところですよ。パートナーを無くしたわけなんだから。

母親に関するあれこれで有休をほとんど使い尽くしてしまっていたから有休を取るのは久しぶりで、その上何の用事もない、無為に過ごせる休日! 雨も降っていて引き続きあまりにも寒いので、ブランケットにくるまりながら猫を膝で寝かせ、こないだ箱買いしたムーミンを読み始める。そして明るいうちからもう一度お風呂を沸かして、前に友人にもらったバスオイルを入れてしっかり浸かると、ようやく少し身体の芯がほぐれてきたような気がした。明るい時間に入るお風呂は身体と精神に良い。

だれだって、自分のねこがどこにいるのか、たしかなことは知りません。たしかなのは、ものすごく自分をすいていてくれるということを、態度でしめされることだけです。

ヤンソン『ムーミン谷の彗星』下村隆一訳,講談社文庫,p187

とりあえず1作目?のムーミン谷の彗星を読み終えたけれど、スニフとこねこの関係がすごく良かったし、こねこの振る舞いが本当に猫で (それはそう) 猫への愛しさが一層増した。どんなに遠く、知らないところまで旅をして、人と出逢い、彗星のことを知り、地球の終わりを目前にしたとしても、このちいさくて自分勝手でただ態度で愛を示してくれる生きものがそばにいてくれるということが1番重要なことだった。

ほんとうに、わたしのねこが今わたしのそばにいてくれてマジで助かってるし、絶対守るし私も愛を態度で示すからね…となったのでした。

2022-04-02_新生活

私個人としては新年度でもなんでもないが、世間的にはそんなタイミングなわけで物事を仕切り直してまた始めるにはいい機会なのだろう、と思ってまた日記を書き始める。

Twitterも前ほど熱心にやらなくなってしまったし、日記も書いていないものだから文章力が落ちているのは勿論のこと、生活から乖離した:抽象的な、形而上的な物事を考えたり持論を展開する筋力が何よりも落ちている気がしていて、それは即ち私を私たらしめていたはずのものがいつの間にか抜け殻になっていたような、そんな危機感を覚えていた/いる。

収容所では、肉体の維持が最も重要となる。だが、肉体にのみ関心を向ける生き方は、多くの場合、人間の尊厳を傷つける。まさに「人はパンのみにて生きるわけではない」のであり、精神的活動がなければ日々はただ生存の連続にすぎなくなってしまう。精神の活動こそが、今日を昨日と区別し私を他者と区別する。

ジョゼフ・チャプスキ『収容所のプルースト』岩津 航 訳,共和国

折に触れて『収容所のプルースト』の、おそらく確か解説にあったこの文章を思い出す。そうなんだよな、「精神的活動」がなければそれはただの生存でしかなく、昨日も今日も明日も変わらず淡々と時だけが流れ、私が他の誰かではない「私」であるということが、よく分からなくなってしまう。だからこそ改めて「私」を、私が好きだった私の形を取り戻すために、また文章を書こうと思っているわけだけれど、本屋をぶらぶらしていてなんとなく手にとった『文章表現 四〇〇字からのレッスン』でも「私たちは日々人間として生きていますが、生きていることの喜びの根底にあるのは、自分がこの世にかけがえのないものとして存在するという自覚です」とあって、おそらく本当にそうなんだろうなぁと思った。ただの自己満足だとしてもこうして文章を書いたりしているのは、それが生きることの喜びで、それがなければ生きてる意味なんて全然ないように思えるからなのだ。

しかし生きていること/人生の意味って本当になんなんだろうね。but これについて書き出すとびっくりするほど暗い人間っぽくなってしまうので本日は割愛。

私たちにはまだ思考し、そのときの状況と何の関係もない精神的な事柄に反応することができる、と証明してくれるような知的努力に従事するのは、一つの喜びであり、それは元修道院の食堂で過ごした奇妙な野外授業の間、私たちには永遠に失われてしまったと思われた世界を生き直したあの時間を、薔薇色に染めてくれた。

ジョゼフ・チャプスキ『収容所のプルースト』岩津 航 訳,共和国

第二次世界大戦下のポーランド。ソ連の捕虜が収容されていた元修道院で、捕虜たちは明日への希望も持てない中でなんとか精神の荒廃から身を守ろうと、持ち回りで自分の得意分野について講義の時間を持つことにした。そこの捕虜の一人だったチャプスキがプルーストの『失われた時を求めて』について講義をしたときのノートを元にしたのが、この『収容所のプルースト』。勿論手元に著作なんてない状況下で、チャプスキは全て自分の記憶を頼りにストーリーを語り、引用し、解説する。本人によれば、これは文学批評ではなく、もう二度と生きて読み返せるかどうかも分からなかった、自分にとって大切な作品の思い出なのだという。

零下40度にもなる壮絶な環境での労働の後、疲れ切っているはずなのに食堂に詰めかけて『失われた時を求めて』についての講義をみんなで聞くなんて、本当に信じがたいことだし、普段は役に立たないとか言われてるかもしれないが、こうやって我々を生かしてくれるのが文学の力なのだなと改めて感動してしまった。生きるためにはパンだけでなく、薔薇も求めなくては。生きることは薔薇で飾られねばならない(ウィリアム・モリス)。というが、飾りどころか私にとっては文学や芸術こそがパンみたいなところはあるんですけれどね。それを分かってくれる人というのは存外少なくて悲しいですが。

とりあえず精神の荒廃を防ぐために、精神的活動をアクティベートしていくぞという決意表明日記でした。