2021-11-3(23)_神に祈れない

物心ついたときから生きることが怖かった私は、いつからか夜眠りにつく前に必ず「神さま」にお祈りをするようになった。その頃はまだ宗教なんてもののことも知らなかったけれど、どうやら「神さま」という超越的な存在がいるらしいことを何かで知って、迷わず神に頼ることに決めた。幼かった私には、この世で起こり得る災害や、事故や、事件や、病気や、死があまりにも恐ろしく、当時の私がそれらから身を守る手段として取り得ることは、神の恩寵を請う以外になかったのだ。私は生きていくにはあまりに無力でちっぽけで、眠る前に布団の中で宇宙のことを考えては、自分の存在の頼りなさ・儚さ・無意味さに打ちひしがれていた。壁に映る影も怖かったし、夢を見るのも怖かった。神さまへのお祈りも、まず「怖い夢を見ませんように」から始めた。

私は寝床に入る。天井の電灯が消され、暗闇の中に私はひとりぼっちになる。手を胸のうえに組み、私は〈お祈り〉を始める。
–火事になりませんように、地震がおこりませんように、泥棒が入りませんように、お父さんお母さんが死にませんように、淀のおじちゃんおばちゃんが死にませんように、常滑のおじちゃんおばちゃんも死にませんように、誰も病気になりませんように、神さまどうかお願いします–

谷川俊太郎「お祈り」『二十億光年の孤独』集英社文庫,2008年,P147

これを読んだ時、谷川俊太郎が幼い頃に唱えていたという「お祈り」が、私が祈っていたものと本当にそっくりでびっくりした。まぁ私はこれに加えて「神の幸せ」も祈ることで神に対して胡麻を擂ることも欠かさなかったが。それにしても、お祈りをしても不安が去らず、どうしようもなくなった時に布団から起き出して両親の姿を確かめにいくのも全く同じだし、お祈りをやめたが最後、神のご加護がなくなるのではないか・恐ろしいことが起きてしまうのではないかという恐怖を抱いたことも全く同じで、私は谷川俊太郎だったのかと思った。昔ほどの切実さは失われたとはいえ、今でもなんだかんだ眠る前のお祈りの習慣は抜けない。

だから『八月の光』を読んだ時、ジョアナ・バーデンが「祈れない」というのを不思議に思った。祈れない、とはどういうことなんだろう、どうして神に祈らずにいられるのだろう、と素朴に思っていた。だけどここ最近、人生で初めてうまく祈れなくなった。何を祈ったらいいのか分からなくて愕然として、祈れないことで神に見放されはしないかと不安を募らせた。

I prayed as two separate people, one still clinging to hope and the other praying for an end to the suffering Momma was enduring. I believe in many ways those prayers were selfish, I do not know if I was praying totally for Momma or the pain it was causing me.

Carol M.Gilligan “Watching Momma die” (English Edition)

最近状況も状況なものだから「ケア」についての本を読むことが増えて、よく言及されるキャロル・ギリガンの『もうひとつの声』を読まなきゃな〜と思いつつも絶版なのでいっそ英語版読むのはどうだろうと思ってkindleを探したら、”Watching Momma die” という身も蓋もないタイトルの本があったので現在進行で Watchしている私としてはこちらをまず読むことにした。基本的に共感の嵐で泣いてしまうので電車の中で読むこともできずなかなか捗っていないけれど、私が今祈れない理由もまさにこれなんだよな、と思って救われた。本当に「母のため」になることは何なのか分からないから神にお願いすべきことも分からなくて途方に暮れるし、もしかしたら母のためじゃなくて・自分にとって都合の良いことを考えているのかもしれないと思うと罪悪感でとても祈れたものじゃない。ベッドの中で手を胸の上で組み、(神さま…)と呼びかけておきながら絶句してしまい、気まずい沈黙を一人味わう。

そして私は初めて「祈れない」というジョアナ・バーデンの気持ちが少しだけ理解できたように思う。祈るという行為は、求めるものが明快で、後ろ暗くなく、心が定まっている場合にしか有効じゃないのかもしれない。そう思うとわたしの「お祈り」ってくだらないな、アファメーションと変わらない(※アファメーションを馬鹿にするわけではないが、少なくとも特に神聖なものではないの意)。むしろアファメーションは「自分がやる」ことを前提にしているのに比べて、祈りは他力本願である時点でただの甘えでは…?と思ったけど、そもそも自分の力でどうしようもないことについて幸運を願うのが祈りのような気がするからそこは他力本願で当然だったな。

わたしの「お祈り」が『フラニーとズーイ』に出てくるような「イエスとの一体意識を授かる」ためのイエスの祈りとは似ても似つかないものであることだけは確かだけれど、そもそものスタートから今に至るまで「キリスト教徒」であったことはないのだから、まぁイエスやキリスト教が求めるそれとは違ってもいたしかたないよな。でもフラニーが傾倒していた『巡礼の道』で一人のロシア人農夫が巡礼の道を歩むことになるきっかけとなった「休むことなく祈れ」という聖書の一節はわたしも好きだ。テサロニケの信徒への手紙の一節とあるから、おそらく有名な「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(テサロニケの信徒への手紙一 5章16-18節)の箇所だと思うんだよな。(※違うかも)いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさいはやや説教くささを感じるけれど、少なくともいつも喜んでいたいし絶えず祈れる状態ではいたいと思う。

2021-11-21_It’s so sad to watch a sweet thing die…

日記を書きたい書きたいと思いつつ書けない日々が続いた結果、渋滞した経験と感情と思考が玉突き事故を起こして最早何が起きていたのかわからない始末。事故現場たる私の脳内はどこから片を付けるべきか見当もつかないので、まずは散乱した思考の断片を端っこの方から摘み上げて並べてみることから始めよう。

恋人から事実上の別れ話をされたのが約2週間前、11/5の金曜日。
別れたいというわけではないらしいが、しばらく結婚する気はないし、そもそも自分がゆくゆく結婚というものをしたいかどうかもわからないから、もし私が早く結婚をしたいのであれば他の人を探した方が良いと思う、という話だった。
彼の最近の行動や様子を見ていてそんな気はしていたので特に驚きはなく、(向こうからこのタイミングでこの話をしてきたというのは意外だったけれど)めちゃくちゃ冷静に受け止め、お互いの人生における優先度やタイミングについては致し方ないし、私は結婚したいし子どもが欲しいので、合理的に考えればさっさと違う人を探すべきなのだろうね、と答えた。「合理的に考えれば」それが正しいし、お互いにきっと新しい人もいずれ見つかるのだろうし問題はないのかもしれないけど、「私」も「あなた」も一人しかいないというお互いのかけがえのなさというものが捨象されていて悲しいね、と言うと、恋人ははらはらと涙をこぼしていた。曰く、真剣に結婚について検討したのも、別れ話でこんな泣くのも初めてとのことだけれど、そんなんやっぱり私のこと好きなんだから観念して結婚しろと思ったけれど、泣き顔が可愛いなぁと思いながら黙って眺めていた。この人は普段から澄んだ綺麗な目をしているけれど、泣くと長い睫毛に滴が溜まって、それもまた綺麗なのだ。

本人に対しては「かわいいね」と言うことが一番多いけれど(実際に可愛いので)、彼を形容するなら「きれい」と言うのが本来正しい。長身ではないけれど、顔が小さくて手足の長いバランスの取れたプロポーションをしていて、ほっそりしているのに意外と筋肉もあって、皮膚は白くなめらかで毛並みも良い。骨も、筋肉も、皮膚も、体毛も、おそらく血も内臓も、彼を形作るすべてがきれいだなと思う。わたしはこの人の側にいることが、触れることが、そして隣で寝て・起きることがとても好きだ。夜寝る前に、暗闇の中でもほんのり白く浮かぶきれいな顔を眺めて、閉じられた瞳を縁取る長い睫毛をなぞるのが好きだ。朝起きて、日の光を浴びて透き通るようなきれいな顔を見るのが好きだ。ありふれた陳腐な表現だけど、一日の最後に目にするものと、次の日の最初に目にするものがこの人であって欲しいと思う。だけどそんな夜もあと何度過ごせるのだろう? と思うと悲しくて泣きたくなる。

Break my heart
I want to go and cry
It’s so sad to watch a sweet thing die
Oh Caroline, why?

Brian Wilson, Tony Asher「Caroline, No」The Beach Boys

ジム・フジーリの『ペット・サウンズ』を最近折に触れては読み返していて、全然失恋とか関係なく(というか予期していなかったし)ブログに書こうと思っていたのに、リアルに It’s so sad to watch a sweet thing die… となってしまって悲しい。わたくしは音楽の素養がないのがコンプレックスだし音楽については何もわからないが、何もわからなくてもビーチボーイズの『Pet Sounds』は本当に素晴らしいアルバムだと思うし Wouldn’t It Be Nice も God Only Knows も I’m Waiting for the Day も 本当に良くて泣いてしまうよね。

すべての曲は愛についての個人的なステートメントになっている。愛というものはどのような意味を持ち、人の人生のどの場所に埋め込まれていくか? それは人生のかたちを定めるのだろうか。そして愛が去ったとき、あとに何が残るのだろう?

ジム・フジーリ『ペット・サウンズ』村上春樹訳,新潮文庫,P 85

愛というものはどのような意味を持ち、人生のどの場所に埋め込まれていくのか…?????????? 愛が去ったとき、あとに何が、、、、残るのでしょう??
というかさ、冷静に考えて二人の間から愛は別に去ってないのに別れを検討しなくてはいけないの普通に謎だな。うっかり「合理的に考えて」納得しそうだったけど、全く納得いかないぜ。お前はわたしが好き、わたしはお前が好きなのだから、少なくとも愛のある限り末長く幸せに過ごすというのが合理的では? 理(ことわり)に合うのはよ…。

別れる前に恋人の素敵なところを書き残しておこう…という感傷的な気持ちで書き始めたけど書いてるうちにムカついて元気になってきたな。別れる前に…とか言わずこれから先もずっとお前のことをガンガン書いてやるからな、覚悟しておけよ。