ここ数ヶ月私を苦しめていた英会話レッスンをようやく今日で終わらせることができた。記念すべき最後のレッスンには勿論、私が去年バカみたいに熱をあげていた彼を指名した。最後のレッスンだから今更テキストをやるというのもバカらしくフリートークにしたけれど、特にこれといって話したいこともなかったので謎に列車についてあれこれ話していたら時間が終わった。「See you soon!」だってさ。
しかし今になって私はとても寂しくて、それはこれから先おそらく彼にはもう会うことはないだろうということではなくて、あんなに好きだった人が好きな人でなくなってしまったこと、目の前で机に突っ伏して泣きたくなるぐらい好きだったのに彼の顔を見てももう何とも思わないこと、嵐のようだった感情が去ってしまったこと、そしてこの先彼のこと/彼に関する思い出をどんどん忘れてしまうだろうこと、そんなことは分かりきったことで・覚める前から知っていたことだけれど、それでも寂しく、とても悲しい。
恋愛というものは常に一時の幻影で、必ず亡び、さめるものだ、ということを知っている大人の心は不幸なものだ。
坂口安吾「恋愛論」
若い人たちは同じことを知っていても、情熱の現実の生命力がそれを知らないが、大人はそうではない、情熱自体が知っている、恋は幻だということを。
お前はまたすぐにそうやって坂口安吾の恋愛論だな??という感じだが、分別のある大人なので恋が始まるや否や/いやむしろ始まる前から/というか常にこのことを考えてしまう。こんなことはわかっているから、情熱的な恋愛感情を抜きにして良い関係を築けるような人と長く安定した付き合いをしたいものだと思っていたのだが、私はまた馬鹿みたいに恋愛に夢中になっているという有様です。はは、馬鹿は死ななきゃ治らないので仕方がない。
去年恋愛に思い悩んで『パイドロス』を読んだ時、始まりの論調は「恋している人間は狂人だから、むしろ恋していないまともな人間と付き合うべきである」という内容だったので本当にそうですね〜〜と反省を促されてよかったのだが、ソクラテスが突然それを全否定して「神から授けられる狂気は、人間から生まれる分別よりも立派」と主張し始めるので当時は頭を抱えてしまったのだが、神由来のものの方が愚かな人間の限界ある理性を働かせて捻り出したものより良いものであるというのはまぁ確かにそうなのかもしれない。『パイドロス』適当に読み返してたら肉体のことを「身につけて持ちまわっている汚れた墓」呼ばわりしてて笑ってしまった。私は墓に滅法弱くて、レトリックに墓を持ち込まれると本当に笑ってしまうんですよね。(ティーンエイジ墓場パーティー、墓のようなコーヒーなど)
スウェーデンの漫画家リーヴ・ストロームクヴィストの『21世紀の恋愛』を昨晩読んで、なぜ現代において恋愛をすることが難しくなってしまっているのかフェミニズム的な視点から考察されていて非常に面白かったんだけど、これでも要は「恋愛とはそもそも狂気なので、条件に合う人を探すというマッチングアプリのような合理的な方法では難しいですよね」という話をしていて、やはり紀元前からそれを見抜いていたソクラテスの慧眼ぶりには目を見張るものがありますね。ところでルー・ザロメが「ニーチェを狂わせたという功績でこの本の導師となっている)と紹介されていて、前に読もうかな〜と思っていたこの本でも読もうかなという気になった。
19世紀の男らしい振る舞いは、強い感情を感じてそれを表現できること、誓いを立てて身を固めることを躊躇わないこととあって、例としてマンの『ブッデンブローク家の人々』の間抜けで情熱的なプロポーズシーンが紹介されてておかしかったのでこれも読みたいが、その前にお前は『魔の山』を読破しましょうね。
それにしても日記をつけるというのも19世紀の男の典型らしいので、かなり私は19世紀の男らしさを体現しているのではないかという気がしてきたのだった。