21-02-01_叶えられた祈り

詩とは欲望のままとどまる欲望への、実現した愛である

ルネ・シャール「断固たる配分」

あらゆる欲望を欲望のまま留まらせず、欲望が芽生えるやいなや即座に充足させてしまうような週末を過ごしていて、ふとこの一節を思い出した。私はもともと詩的な人間ではない自負があるが、それにしてもあまりにも不満がなく・平穏で・幸福で、祈りはすぐに叶えられる、詩が生まれようもない生活で、これではまさにあの恐ろしい「すばらしい新世界」だ。詩も、文学も、真理も、神もいらない世界。

「ところが、わたしは愉快なのがきらいなんです、わたしは神を欲します、詩を、真の危険を、自由を、善良さを欲します。わたしは罪を欲するのです」
「それじゃ全く、君は不幸になる権利を要求しているわけだ」とムスタファ・モンドは言った。
「それならそれで結構ですよ」と野蛮人は昂然として言った。「わたしは不幸になる権利を求めているんです」

ハックスリー『すばらしい新世界』松村達雄 訳,講談社文庫

願ってもない幸運に恵まれながら、不幸になる権利を要求する私はあまりにも自己中心的且つ捻くれている人間かもしれないし、そんな素行ではすぐにでも願ったとおりの不幸が叶えられてしまうかもしれない。そしてその叶えられた祈りのうえに、より多くの涙が流される。はい、御察しの通りわたしはカポーティの『叶えられた祈り』が、特に一章が大好きなんですよね。一章が、というより書き出しが、「まだ汚れていない怪獣」のくだりが大好きだ。わたしもまだ汚れていない怪獣を探しに行きたいし、その過程で汚れてしまった怪獣にも会いたい。そして田舎に引っ越したい。

わたしが幸福の只中でこれほど不安になるのは・思わず「不幸になる権利」と呼ばれるものを求めずにいられないのは、まさにこの幸福を手離したくないが故なので何かをひどく間違えているような気がするが、これは私がわたしであるための切実さなのだ。私は恋愛となるといつも感情に引きずられて・常日頃の自らを損なってしまって、その結果「当初相手が好いてくれた自分」の形を失ってしまい・それ故相手からの好意もまた失ってしまうように感じていて、だから自分が恋愛によって変わってしまうことがとても怖いのだ。それこそ恋愛の醍醐味だし、わたしの望むところのはずなのにな。

最近の反省として、すぐに抽象化や一般化をして何かを取り出そうとする、パターンを見出そうとするのがよくないのではないか、というのがある。いま私が抱えている問題の恐れも、過去の恋愛における失敗から私が勝手に取り出したパターンに過ぎなくて、それの回避に躍起になること自体には実際のところ何の必然性もないのではないか。しかしこれが所謂「過学習」ってやつなのだろうか、とか考え出すと今度は学習データがやっぱり足りないんじゃないかみたいな話になってしまって、また間違った方向の努力に駆け出してしまうので安直なアナロジー・ドリブンな思考をほんとうにやめようね、それが楽しくて生きている部分は確かにあるのだが…。私はわたしが可愛いので楽しみを奪うのは忍びないけれど、一人でオモチャで遊ぶことより優先すべきことがあるのかもしれない。

冒頭に引用したルネ・シャールは、ブランショとバタイユが自著の中で割と引用することの多い詩人なので詩集を買って読んだりした。でも持ってる詩集の翻訳より、モーリス・ブランショが『終わりなき対話』の中で引用している翻訳の方が印象深かったのでそっちを引用した。ブランショかバタイユが引用してたんだよな〜〜〜とは思いつつ、すぐ『終わりなき対話』だと思い出せなくてバタイユの『内的体験』の中を探していたらやっぱりバタイユは滅茶苦茶良くて泣きたくなったので、その部分を引用して今日は寝ます。

さて、生きるとは君にとって、君のなかで統合されるいくつもの潮流や、つねに逃げ去ってゆく光の戯れなどだけを意味するわけではない。それはまた、一存在者から他の存在者への、君から君の同胞への、あるいは君の同胞から君への、熱や光の移行をも意味するのだ。(君に向かって注ぎ込まれるこの私の熱の伝染を、君が読み取るまさにその瞬間にあってさえも。)話される言葉、書物、記念碑的建築物、象徴、笑いなどは、この伝染、この移行のかずかずの道にほかならない。個別存在者などは大して重要なものではない。 –中略–  かくて私たちは、君も私も、私から君に向かって行く言葉、一葉の紙に印刷された燃え立つ言葉に比べてみれば何ものでもないのだ。なぜなら、私はただその言葉を書くためにのみ生きたのだし、その言葉が君に宛てられたものだとすれば、君はその言葉を聞くだけの力を持ったということで、これからも生きてゆくだろうから。

ジョルジュ・バタイユ『内的体験』出口裕弘訳,平凡社ライブラリー