21-01-25_命の光、腰の炎(1)

「我が命の光、我が腰の炎。我が罪、我が魂」といえば『ロリータ』の冒頭ですが、今日は「男の性欲(マスターベーション)と女の生理」の話がツイッターで(また)燃えているのを目にし、そのとき当たり前のことかのように無視される女の性欲とマスターベーションに思いを馳せていたところにツイステッドワンダーランド君の新ストーリーがぶっ込まれたので精神に混乱をきたしてしまった。最近ささやかに推していた推しカプが無慈悲な公式によって爆散したのである。しかしまぁ「命の光、腰の炎」って推しと性欲の話だと思えばこんなに今の精神状況にぴったりなフレーズはないな。ロリータといえば「魅惑の狩人」ですしね…。ウッッッッ ルーク・ハント…。わたしはロリータのことをロードムービーの一種だと思ってる節があるので、ロリータのことを考えるとアメリカを車で旅してモーテルに泊まってまわりたい気持ちしかなくなってしまうが、今日はそこに脱線しないようにひとまず「性欲」に集中したい。

女の性欲を管理するベールの向こうには、政治のほんとうの目的が隠されている。それは、男らしさを非社会的で衝動的かつ暴力的なものにすることだ。レイプはなによりもまず、「男の性欲は本人にはどうすることもできず、男はそれを制御することができない」という認識を伝える媒体の役割を果たす。「娼婦がいるから、レイプが増えずに済んでいる」といまだによく聞く。まるで、男は我慢することができないから、どこかで発散する必要があると弁護するかのように。これは人為的につくられた政治的信念であって––世間が私たちにそう信じ込ませようとするような––自然なものでも本能的なものでもない。もしほんとうに、テストステロンのせいで男が制御不能の衝動をもった動物なのだとしたら、男たちはレイプするのと同じくらい気軽に殺人も犯しているはずだ。しかし実際にそうではない。男らしさについての言説は、暗黒時代の遺物そのものだ。レイプという非難されるべき行為、語られることのないこの行為は、男らしさの根底をなすさまざまな信念をつくりあげている。

ヴィルジニー・デパント『キングコング・セオリー』相川千尋 訳,柏書房

なんか急にレイプの話を引用してしまったが、今日炎上していた「男の性欲と女の生理もどうしようもなく訪れるという意味では共通性がある!!」ってやつも「男の性欲はどうしようもなく訪れて、発散する必要があるんです!!!」っていう家父長制社会によって構築されて勝手に社会的な了解とされているものであって、それが風俗や浮気やレイプの言い訳として利用される常套句であり根底にある信念だから怒られているんだろという。えっマジで女の生理とどのへんに共通性があるって???? I beg your pardon????? いまもう一回当人のついった^見に行ったら自分に同情して・擁護してくれる人たちのツイートRTして「わかってくれる人はわかってくれてるからいい」「一つの考察を日常の合間に行っているだけなのに、寄ってたかって罵詈雑言を言うという暴力性〜」とか言ってて眩暈がしちゃった。ゲロ。Fu*k.(※ちなみにNetflixの卑語の歴史のやつかなり面白いです)

なぜ男性が「男の性欲」と「女の生理」を並べたがるのかというのは、シスジェンダー女性である私には謎だし想像でしか述べられないが、「女は生理でこんなにつらい思いをしている!!!」ということに対して「男だって同じぐらいつらいことありま〜〜す!!!ぴっぴろぴ〜〜〜!!!」と主張することで、ある種の公平感を演出して自らの罪悪感を紛らわしたいということなんじゃないんですかね。そんなものをこちらは全く要求していないし、実際のところ全然比較になっていない「公平感」、気休め、それも特に害を被っていないマジョリティ側の精神をヨシヨシするためだけの。人間、基本的に罪悪感が嫌いだし、自分に罪悪感を覚えさせるものを嫌悪する傾向があるよね、フェミニストが嫌われるのってそういう理由も大きいだろうなと思っている。良心的で理知的なリベラル男性もジェンダーの話になると途端にバグったりするのも、普段自分は「理解があるリベラルな人間」だと認識していたところに、突然自分が認識していなかった「特権」を持っていて実は「構造的な加害者」だったのだということを思い知らされ・断罪されている気分になるというというのが、かなりダメージになるんでしょうね。知らんけど。

ジェンダーに限った話ではなく、基本的に「マジョリティ」側の人間が「マイノリティ」が声を上げたときにやたら過敏な拒否反応を見せたりするのも、同じメカニズムだと思う。人間誰しもマジョリティ的な側面とマイノリティ的な側面があると思うし、自分が「構造的な加害者」になっていることは常にありえるので、そこは注意していないといけないし真摯に受け止める必要はあると思うんだけど、ある人間がたまたまマジョリティに属しているのは基本的にその人間の責任ではないし、別にそのこと自体を非難されているわけではないはずなんですよね。だから別に罪悪感を感じて取り繕う必要だって本来はないはずなんだけど、自分がマイノリティであったり・そういったことに意識的であると自認している場合、その自認とのギャップが大きくなりやすいので同時にダメージも大きくなるし、なんかこうバグってクラッシュしてしまうんでしょうね。その仕組みも気持ちもわからなくはないが、しかし良心的で信頼できそうな人間がそういう反応を見せるのがこちらとしてもショックなので、やっぱりフェミニズムとかジェンダーの話とかに触れるのって怖いな、最近は思ってしまっている。

おっと全然性欲の話じゃなくなってしまった上に0時を回ってしまった…。
性欲と推しの話、明日に続く(続け)。

21-01-20_Well-Architected World

書きたいことはここ数日いろいろあったはずなのだが、考えても考えてもその場でふっと蒸発してしまうような状態が続いていて、寝る前にパソコンの前に向かう頃には何を書こうと思っていたのかまるで覚えておらず呆然とするばかり。この思考の揮発性はいったい何なのか、と絶望しつつ、仕方がないので久しぶりに毎晩小説を読んでいる。

今読んでいるのは1916年にイギリスで出版されたローズ・マコーリーの『その他もろもろ』というディストピア小説で、国民を知力で階級分けをして・一定レベルに達していない人間の結婚や生殖を禁止したり・税金の負担割合を変えたりする、言ってみれば「低知能差別」の世界の話なのだが、オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』に比べればディストピアとしての完成度は低いし途中からふつうに「人間が恋してIQが下がる話」になってきてウケると同時に身につまされています。

『すばらしい新世界』といえば、こないだツイッターの人が「子供は国が専用の施設で培養しながら育てることにして家族制度は解体してこう」みたいなこと言ってて、それはもろに『すばらしい新世界』だね…!となった。『すばらしい新世界』はほんとよく設計された「すばらしい新世界」なんだよな。Well-Architected って感じだし、そのうちAmazonが作ってくれそう。

「すばらしい新世界」ではすべての子供は工場の瓶で培養されて、生まれる前から階級に分けられた上でそれぞれの階級に必要な数だけ生産される。最上級の階級はアルファで次点がベータ、どちらも容姿は美しく、知的な教育を受けており政府省庁の職員、大学教授などの職についている。そして労働者階級のガンマ、デルタ、エプシロン。彼らは1つの受精卵から大量に子供を作る技術によって大量に生産されており、下の階級に生まれるほど容姿も醜くなり、着る服も決まっているのですぐに見分けられるようになっている。さらにこの世界の人間たちはどの階級であろうと例外なく、工場で叩き込まれた教育によって生理的に下層階級を嫌悪するように条件づけられている。ただ、それぞれの人間は自分の境遇にすっかり満足するようにこれもまた条件づけられているため、自分の階級や仕事に不満を抱くこともなく、漏れなく全員幸福に生きている。もし少しでも不安な気持ちや悲しい気持ちを感じれば、政府から支給されている「ソーマ」を飲めばすぐに気分は晴れやかになり、夢のような心地になることができる。「家族」というものはないので全員が独立した個人であり、「万人は万人のもの」というスローガンのもとフリーセックスが奨励され、恋人ができずにセックスにあぶれてしまうような人間もいない。一人の人間と長く付き合うことはおかしいとされ、いろんな人間と楽しいだけの付き合いをする。「恋人」も「家族」も、強い執着は激情を呼び、不幸のもとなので不健全なのだ。平和で安定したすばらしい新世界には、つらいことも悲しいことも何もない。死ぬまで若く、病気もせず、適度で満足できる仕事をし、誰でも好きな人間とセックスし、すこしでも気持ちに影がさせばソーマを飲み、とにかく楽しく死ぬ日までを過ごす。なんてすばらしい新世界!

「ねえ、君」とムスタファ・モンドは言った。「文明は崇高や悲壮を全然必要としないんだよ。そういうものは政治の貧困の徴候なんだ。わが国のように正しく組織された国では、だれも崇高だったり悲壮だったりする機会をもつことはないのだ。そういう機会が生じ得るには、その前に事態が徹底的に不安定でなくちゃならない。(中略)しかし、今では戦争などというものはない。人がだれかをあまり愛しすぎないように最大の注意が払われている。いずれに忠誠を尽くすべきかなどということは起らない。人は為さねばならぬことをせずにはいられないように条件づけられている。そして為さねばならぬことは概してとても楽しいことであり、たいていの自然の衝動を自由に発揮することが許されているので、じっさい抵抗すべき誘惑など少しもない。そしてまたもし何か不幸な偶然からたまたま不愉快なことでも起ったところで、そのときには、いつもちゃんとソーマというものがあって人に事実から逃避させてくれる。怒りを静め、敵と和解させ、我慢づよく辛抱させてくれるソーマがいつも控えている。昔は、大変な努力をし、長年苦しい修養をして、やっとそういうことがやれたのだ。ところが今じゃ、半グラム錠二つ三つ吞み込めば、それで万事めでたしだ。今ではだれだって徳高く振舞えるのだ。人は少なくともおのれの道徳の半分だけは瓶に入れて持ち歩きできるのだ。涙を交えぬキリスト教––ソーマはまさにそれなんだよ」

ハックスリー『すばらしい新世界』村松達雄 訳,講談社文庫

世界総統の一人であるムスタファ・モンドと、「文明国」の外で育ち、たまたまシェイクスピアを読んで育った野蛮人との議論の箇所が見所ですが、野蛮人がいかにこの世界の欺瞞を破ろうとしても、すべては「世界の安定」「人間の幸福」のため、それより優先されるものが他にあるだろうか? 野蛮人は正直まったく歯が立たない。文学?詩?神?真理?愛? それが世界を安定させ、人々を幸福にさせることにどれだけ寄与する?このうまく設計され、稼働している文明を犠牲にしてでも必要なものだろうか? 世界国家の標語は「共有・均等・安定」、結構じゃないか。今の世界よりよっぽど良い。女が完全に妊娠・出産から解放されているのも素晴らしい。今の世界だってこれほどハッキリしていないとはいえ「階級」はあるし、死ぬほど不平等なくせに表面上は個人の努力でなんとかされることになっており、もし何かしら厳しい状況に陥ってしまってもそれは本人の努力不足で「自己責任」ということにされるのだから。世界総統に野蛮人はすっかり言い負かされたような形になり、最終的に「不幸になる権利」を要求して去っていくのだった…。まぁわたしも野蛮人と同じく個人としては「不幸になる権利」を求めたいところだけど、ではそれをこの「文明国」で、まったく心から満足して生きている人間たちの幸福を犠牲にしてでも必要だと主張できるか?と言ったら難しいんだよな。なんかソ連でスターリン体制が崩壊し、ペレストロイカが始まって発禁になってたパステルナークとかが読めるようになって知識人たちは喜んだけど、ソーセージもまともに食べられなくなった…みたいなのを思い出しますね。まぁ今の日本はあらゆるディストピアの悪いところだけ集めてみました!みたいな有様で(というか本来「ディストピア」は「一見ユートピアに見えるけど実は違う世界」だったはず)言論の自由も怪しいし、この飽食の時代に餓死する人間だって出ているし、マジでどうなってしまうんだこの国。と私は怯えて生きているが、大多数の人間は依然として政治にまったく興味もないし、「愉しみながら死んでいく」んでしょう、もちろん、「愉しみながら」死ねるのはごく一部の特権的な立場の人間だけでしょうが。

『愉しみながら死んでいく』でポストマンは、オルダス・ハクスリーが『すばらしい新世界』で描いたディストピア図(薬物と軽薄なエンタテインメントで麻痺した人々が催眠性の人生を送る)と、ジョージ・オーウェルが『一九八四年』で創作した世界(人々はビッグブラザーの抑圧的な専制支配の下で暮らす)とを比較した。(中略)

ポストマンが言うには、ハクスリーのディストピアは二〇世紀後半にすでに実現しつつあった。全体主義国家に対するオーウェルの懸念がソ連に当てはまる一方で、西側のリベラル民主主義国家への脅威(これが一九八五年のことだったと覚えておいてほしい)は「あからさまにつまらない事柄」によって麻痺するあまりに、責任ある市民として関与できない人々をめぐるハクスリーの悪夢によって象徴されているとポストマンは主張した。

ミチコ・カクタニ『真実の終わり』岡崎玲子 訳,集英社

『真実の終わり』は「トランプのもたらしたもの」についての解説と考察としてすごい面白い本ではあるんだけど、なぜかデリダを筆頭にするポストモダニズムが諸悪の根源とされていて最悪なので人に薦められない。というかそもそも、ここまでデリダについておかしなこと言われるとその他の部分の信憑性も疑わしくなるわ。もし皆さんも読むならその前にデリダに入門して、理解を深めた後にこれを読んでブチ切れるようにしてくださいね。

ねえ、今日ぜんぜんこんなに『すばらしい新世界』について書く予定じゃなかったのに間違えて書いちゃった。おかしいな〜〜 これもIQが下がってるせいなのか? さくっと文章のリハビリかねて軽い日記書いて『その他もろもろ』を読み終えようと思ってたのに。リハビリ継続していこうね。

21-01-13_幸福の代償

愉しく、平穏で幸福な週末の代償として順調にIQが下がっているのですが、結構マジで危機感を覚えてきた。そしてこれもIQが下がった影響か知らないが 何もしてないのに(※何かはした)WordPressがおかしくなってしまい、原因はわからないし・ググってもWordPress使ってる人間にはバカしかいない様子だし・泣きながらデータエクスポートしてWordPress丸っと削除して再インストールしてなんとかなった。俺はすぐに力技でなんとかする。

昔はデートの議事録を書いたりしていたが、気がつくと時間が飛んでいて週末が終わっているので議事録をつけるとかいうどころの騒ぎではない。ほんとうに真剣に困っています。恋愛は油断すると無限に時間が溶けるので、「形而上で愛し合える遠恋こそ至高」と言っていた友人の正しさを思い起こす。しかしすでにここまでIQが下がってしまうとおそらく会わなくとも(むしろ会わないほうが)ぼーっとして時間をつぶすので、すでに手遅れ・打つ手なし。

そしてあの素敵な、あちこちを軽やかに動き回っていたクララ・ヴェストフが静かになってしまい、かつての、嵐の風のようなさざめきも彼女からは聞かれなくなってしまった……。こんなことがあっていいはずがない。少なくとも、こんな状態が続いてはいけないんだ。

インゲ・シュテファン「クララ・ヴェストフ=リルケの生涯と作品」『才女の運命 男たちの名声の陰で』松永美穂 訳,フィルムアート社

週末に料理をしたり、皿を洗ったり、掃除をしたりしていて、ふと(こういうことに満足感を覚えていると自分がだめになってしまうな)と直感した。多分いままでの人生で恋人のために家事をするという経験をほとんどしてこなかったせいで物珍しさがまだあるのと、「家事をしない女」として蔑まれてきた(そもそもしない自分が悪いのだが)コンプレックスに対する「いや私もふつうにできるやんけ」という満足感があり、予想外にかなり気分がよくなってしまったのだ。自分がこんな風に感じるとは思っていなかったからショックだったし・即座に警戒態勢に入った。

「恋人のために」というところが既にかなり怪しくない?? 思うに片付けとか掃除とかって、その場にいる人間の中で〈気になる〉閾値が低いほうが気になるが故にやるんであって、単に自分のためなのにそれを「相手のため」とか言って転嫁すると碌なことにならない予感がする。勿論もっと純粋に「相手のため」に何かするということはあるだろうけど、それもまた相手から見返りを求める気持ちに繋がってしまうと不穏だ。というか人間であれば繋がらざるをえないはずだし、そもそもそのために尽くすのでは? 見返りを求めない純粋な「献身」なんてあり得るのか? 特に二者間の関係性の中で? これはまさに「贈与論」の話になるので、「贈与日記」というタイトルの意味が突然増してきたな。

まぁとにかく私は、見返りを求める気持ちがあって「相手に尽くす」のってかなり身勝手な行為なんじゃないかと思ってしまう。頼んでないのに勝手に尽くしてきて「私はこんなにあなたに尽くしてるのに!!」って爆発するみたいなのは困るよね。頼んでないのに着払いで大量にピザが届いちゃったみたいな感じ(?) これは近くにいるスーパー献身的なタイプの女の破局パターンを見ていて学習した内容であって、私はそもそも他人に尽くしたことがないような気がするので、どちらかというと私はそんなことに気を揉んでないでまずは素直に「相手のため」のことをもっと考えろよという気はしている。

なんか書きたいことが全然思い浮かばなくて、日記すら書けなくなってしまったかもしれない…と落ち込んでいたが、勉強したい気持ちも回復してきたので安心した。幸福は幸福なので、それはより一段と良いものになるよう大切にしつつ、自分の中の嵐の風のようなさざめきも凪いでしまわないようにバランスを取っていきたいところ。

21-01-05_2021年にやりたいこと100

Notion調べながらいろいろ触ってるんだけどかなり良さげな感触があるので、薦められた記事の通り(前回の日記参照)プライベートと仕事のタスクをまとめてNotionで管理するチャレンジをしてみようと思い、まずは今年やりたいWish List の書き出しをやってみた。100個も無理じゃん?と思ったけど実際やってみたらありすぎて後から削ったりしたけどやっぱりもっとあるな、100個じゃ足りないです(ここに書いたやつを全部やってから言え)。やりたいことの粒度がバラバラだけど、タスクに落とす段階で細分化します。とか言うと(ウワ〜〜〜〜〜〜〜〜意識が高そう!)ってなっちゃうけど、単なる自意識と倫理観を切り分けて適宜現実と折り合いをつけてやってくというのも今年の大きな課題です。いい加減大人になろうね…。

  1. 5kg痩せる
  2. 日記を継続する
  3. 個人サイトのTwitterカード設定する
  4. 個人サイトリニューアル
  5. 個人サイトの作り方について簡単なガイド書く
  6. 読んだ本をまとめたページ作る
  7. 過去の旅行まとめたページ作る
  8. zine創刊する
  9. ネットプリントを試す
  10. バタイユについての文章を書く
  11. キャンプに行く
  12. キャンプ用の可愛い服・グッズ買う
  13. 燻製する
  14. 球根を育てる
  15. ハーブを栽培する
  16. 自分のナイフを手に入れる
  17. 可愛いマグカップを買う
  18. コーヒーを豆から挽いて淹れる
  19. 『Cooking for Geeks』を読む
  20. Cooking for Geeks 内にある実験(レシピ)を試す
  21. 風味について学ぶ/試す
  22. レシピを見ずに作れる料理を習得する
  23. 餃子を作る
  24. スパイスからカレーを作る
  25. 美味しいものをお取り寄せする
  26. 行ってみたかったレストランに行く
  27. 長座前屈でちゃんと前屈できるようになる
  28. 踊る
  29. クイーンズギャンビット完走
  30. チェスの定石を学ぶ
  31. 尻を育てる
  32. まつ毛を育てる
  33. 良い色つきリップを買う
  34. 目元の美容液を買う
  35. カラーマスカラをちゃんと使う
  36. 服を整理する
  37. ネイビーのステンカラーコートが欲しい
  38. かわいいレインシューズを買う
  39. 汎用性の高いかわいい傘を買う
  40. 良い服用のブラシを入手する
  41. 服をできるだけ自宅で洗う技術を身につける
  42. 白い服の白さをキープする
  43. 自分に似合うジーンズがあるのか検討する
  44. スニーカーを買う
  45. 良い靴を買う
  46. 靴も整理する
  47. 古い香水を処分する
  48. 良い香水を買う
  49. 髪の毛にインナーカラーを入れる
  50. ピアスを増やす
  51. デザインの基礎を学ぶ
  52. 広告・webデザインの良いと思ったものストックする
  53. バナー・広告クリエイティブの作成をある程度テンプレ化する
  54. 仕事に関する本を毎月1冊は読む
  55. 仕事に関する勉強もちゃんと記録する
  56. 舐められないように迫力を出していく
  57. 『コレラの時代の愛』を読む
  58. 『アブサロム、アブサロム!』を読む
  59. ニーチェの入門書的なものを読む
  60. フーコーに入門する
  61. ラカンに再挑戦する
  62. 法哲学に入門する
  63. 言語学の本を読む
  64. フランス語勉強する
  65. ジョジョを履修する
  66. 友人の薦める漫画を読む
  67. 友人の薦める映画を見る
  68. SFを読む
  69. 献血をする
  70. ボランティアとか何らかの支援活動に参加する
  71. 自分の好きな系統の音楽に使われる形容詞の傾向を掴む
  72. 舞台を見に行きたい………
  73. まだ行ったことのない美術館に行く
  74. 英語の勉強の習慣を取り戻す・継続する
  75. 推しの絵を描く
  76. 絵の練習をしてちょっとしたイラストをスッと描けるようになる
  77. 字を綺麗にする
  78. お金のことをちゃんと考える/やる
  79. 倫理的葛藤/罪悪感と現実の折り合いを付ける
  80. 倫理観と自意識を切り分ける
  81. 自分の不安の原因と向き合う
  82. 自分の欲望と向き合う
  83. セックスに真剣に取り組む
  84. スマホと適切な距離を置く
  85. 映画を週に1本観る
  86. 漢方の本ちゃんと読む
  87. 運転…
  88. 精神的なモヤモヤの暫定対策/恒久対策を定める
  89. 持続可能性について学ぶ
  90. エシカルな消費活動を心がける
  91. 入れたいタトゥーを考える
  92. タトゥーシールを使う
  93. 歯のホワイトニングをする
  94. 婦人科検診に行く
  95. 冷え性を改善する
  96. 気遣いを頑張る
  97. 「ケア」について勉強する
  98. ディテールまでちゃんと妄想する
  99. 二次創作/小説を書く
  100. 人に連絡をする

Evernoteからの移行とか、まだこれからいろいろ整理してくけど、とりあえずデータベースが簡単に作れて・ビューを切り替えられるのすごくよさそうじゃない???去年は読んだ本とかスプレッドシートにまとめてたけど全部Notionにします。タグつけてソートしたり、読みたい本/積ん読/進捗把握したりいろいろできそう。

>Notion機能レビュー。必要な情報をこれひとつで管理する5つの方法
https://note.com/yriica/n/nc079db469d47

全然日記じゃないけど今日はこれで終わり・整理するぞ!!

2020年読んだ本ベスト10

読んだタイトルだけ並べても寂しい&よくわからないので、せっかくだし自分の振り返りをかねて簡単に解説をつけてみる。これはよかったランキングではなく、単純に写真の左から、おおむね読んだ順に並べています。

モーリス・ブランショ『明かしえぬ共同体』西谷修訳, ちくま学芸文庫, 筑摩書房

今年1年ジョルジュ・バタイユという男に狂うきっかけになった本。ブランショのことはずっと気にはかけていたのだが読む機会がなく、本当に何となく書店で目があったので手に取った。タイトルの通り〈共同体〉がテーマとなっており、主に1930年代のバタイユの共同体の試みについて書かれた「否定的共同体」と、マルグリット・デュラスの作品における男女の奇妙な関係性について書かれた「恋人たちの共同体」の二編が収められている。正直なところブランショによる本文自体は、政治的・思想的な背景もバタイユ/デュラスについても無知だった私にとってはそこまでよくわからなかったのだが、訳者の西谷修による解説がかなりわかりやすく整理されており、クソバカな私にも「あ、バタイユとブランショがBLってことですね」と即座に理解できた。西谷修はエティエンヌ・ド・ラ・ボエシの『自発的隷従論』のあとがきでもボエシとモンテーニュの関係性に言及してるけど、おそらくBLの才能があるんですよね。信頼できる。この本はひとまず西谷修によるあとがきのところだけでも読んで欲しい。

バタイユはその後政治から撤収するが、それは共同体の断念ではなく、共同体を国家に収束させてしまったあらゆるものに抗して共同体を見出そうとする試みだった。そして孤独の果てに、〈内的体験〉のうちに彼はむしろ無いという形での〈共同体〉を見出すのである。あるいはそれはブランショとの出会いだったといっていいかもしれない。戦後、大戦明けの祭りのような雰囲気の中で、多くの人々が再びさまざまなグループを形成した(実存主義、共産主義、ペルソナリズム等々)が、おそらくどんなグループ内の一致よりもはるかにたがいの思考を親しく響き合わせたブランショとバタイユは決してグループを組むことはなかった。それは、彼らの〈共同性〉が一定の思想、傾向を共有する個的な存在間の連帯ではなく、むしろそのような共有を断念したときに現われる直かの接触、あるいは相互の限界をあらわにする〈分割〉以外に何ものをも共有しない〈共同性〉だったからである。彼らの間にはある原則を基にした擬制の共同体はない。ただ、「終わりなき対話」があるだけである。

西谷修「ブランショと共同体––あとがきに代えて」『明かしえぬ共同体』

ブランショ=バタイユの思考には弁証法的総合への契機はない。彼らによれば、徹底的な異議申立てをつらぬこうとするふたつの思考が語り合うとは統一・綜合へと高まってゆく弁証法的対話ではなく、いわば言葉を「ともに–あいだにもち支える」対話というかたちをとる。「絶えず深まってはゆくが、一致という事のない相互了解、埋められてはならず、それどころか告示されてもならぬ断絶に基礎を置いた相互了解」。言ってみればそれは、二人の対話者がたがいに向き合うのではなく、いわばともに肩を並べて広大無辺な捉ええぬ《外=夜》に向かい、無限に向かって骰子をふるように、かわるがわる言葉を発する事にほかならず、この思考の賭博者たちは《外=夜》との関係において限りなく孤独であり、またその営みを通じて「来歴もなく逸話もない」徹底した無名性へと導かれる。こういう思考の賭博者、思考の冒険者たちを互いに関係づけているものこそが、《友愛》という美しい言葉で名付けられるべきだとブランショは語るのである。

清水徹「《解説》モーリス・ブランショ」『筑摩世界文学体系82・ベケット・ブランショ』

ほら〜〜〜めっちゃBLじゃない?? ベッタベタにサン=テグジュペリの言葉を借りますけど、「愛はお互いを見つめ合うことではなく、ともに同じ方向を見つめることである」のであって、つまりこれはもうLoveじゃん…? Loveなんだよな…。

阿部公彦『英語文章読本』研究社

おおむね読んだ時系列順に並べたので突然話が変わるけど、今年は英語の勉強も頑張った。英会話だけ通っても一向に上達しないので、勉強するのって大事なんだな〜〜ということが身にしみてわかった一年でした。とはいえ語学の勉強ってつまらないですよね(私だけか?)。まずは自分を「英語勉強するのって楽しい!」という気持ちにすることが大事だなと思って読んだ本。これはマジでスーパー面白い(声出して笑える)し、特に英米文学好きな人はぜひ読んで欲しいんですよね。レイモンド・カーヴァー、フランク・オコナー、ジョージ・エリオット、ドリス・レッシング、ヘンリー・ジェイムズ、バーナード・マラマッド、ヴァージニア・ウルフ、メアリー・シェリー…。これら英米文学の作家が、どんな意図を持って、どんな効果を出したいがために「どんな文法をつかっているのか?」という解説本。なんとなく英語ってストレートで・シンプルで・フェアーな印象があったけど、英語でこんなに嫌味ったらしく遠回しに意地悪言ったりできるんだな〜と感銘を受けて、よくよく考えてみれば英国人って性格悪いもんね!!!嫌味だし!!(※偏見)と今まで読んできたイギリス文学を思い出して笑ってしまった。そりゃ英語、得意でしょうよそういうの…。しかし冒頭でとりあげられている、昔イギリスで流行っていた文章を書く際のマナーを示した「英語文章マニュアル」(かなり笑える)は多くは大陸(フランス)からの輸入・翻訳本だったらしく、嫌味ったらしい英語表現の起源はフランスの可能性もあるっぽい。話はややずれるが、文庫クセジュの『英語語源学』でも、いかにフランス語由来の語彙が英語を豊かに・華やかにしたかということを得意げにしたためてられており、心が温まる。

その寄与に含まれるのは、行政の語彙(※実際の語彙が列挙される)、そして司法の語彙(※略)、それにもちろん軍事用語である(※略)。同様に多くの証拠が拾い出されるのは、贅沢な服装(※略)および貴族的な娯楽(※略)である。
物質的な快適さは明らかに豪華さを伴う。住居の模様替えや装飾が念入りに行なわれる(※略)。食事も凝ったものになる(※略)。文化的な水準は芸術と科学の語彙によって文証される(※略)

ジャン=ジャック・ブランショ『英語語源学』森本英夫・大泉昭夫 訳,文庫クセジュ,白水社

フランス人が自国の文化と言語についてとにかく誇りを持っている様子がひしひしと伝わってきてしまいますね。まるでフランス語が英語圏の文化的水準を押し上げたかのような物言いである。はぁおもしろ。

コーリー・スタンパー『ウェブスター辞書 あるいは英語をめぐる冒険』鴻巣友季子・竹内要江・木下眞穂・ラッシャー貴子・手嶋由美子・井口富美子 訳,左右社

アメリカの伝統ある辞書「ウェブスター」の編纂をしている編集者によるエッセイ。辞書の編集ってこういう風にされるんだな〜という様子がわかるのと、ネイティブの英語話者でも「これが他動詞なのか自動詞なのかわからない」みたいなことが割とよく起きるっぽいということがわかって安心した(「他動詞テスター」というその動詞が他動詞なのかどうか確認ができるツールなどがあるらしい)。あとは「moist」という語彙は英語話者からするとめっちゃキモいwordらしい、とか「へぇ〜」っていう細かい話がいろいろあって楽しい。ただそういう面白エピソードだけじゃなく、語彙について語るということは、当然文法に基づき、品詞を分類したり文章を解釈するということになるし、そしてその背景には英語という「言語」がどのように成り立ち、何を目指し、どのような欲望にまみれながら、現在の地位を築いてきたのかという圧倒的な歴史が立ち現れる。言語における「帝国主義」も非常に気になるトピックですよね。(継続検討)

英語という言語はどうやら論理的体系を有していないようで、その語彙にしても理路整然と思考する人たちとの何世代にもわたる交流のなかで発展したものとは言い難い。洗練された科学的手法らしきものをもってすれば、ありのままの言語から系統だった、明快ななにかが現れるなどと望むべくもない。我々が相手にするのは、一貫性に欠けた雑多な寄せ集めでありながら、あくまでも整然としたコミュニケーションたらんとする不屈な骨格を保つ言語なのであり、その骨格に支えられた身体たる語釈もおのずとそのような状況を反映することになる。

フィリップ・バブコック・ゴーブ , メリアム・ウェブスター社内文書「語釈の技法」メモ 『ウェブスター辞書 あるいは英語をめぐる冒険』エピグラフより

英語を勉強している日本語のネイティブスピーカーからすると、英語が論理的体系を有してないってそんな、英語でそうなら日本語は一体どうなっちゃうんですか????という気持ちになってしまう。日本語はほんとうに改めて考えると「運用でカバー」みたいなのが多すぎると思うし、日本語の仕様全然わかんない。まあ全然仕様がわからないのに使えるというのがすなわち「母語」であるということなんだけど…。『ことばの発達の謎を解く』は、幼児がどうやって母語を習得するのか?どうして大人が外国語を習得するのは難しいのか?ということを、子どもを対象にした実験を通して解明していく、、という本で、すこぶる面白かったんだけど日本語という言語が曖昧すぎてめちゃくちゃ不安を覚えてしまった。

柳父章『翻訳語成立事情』岩波新書, 岩波書店

言語のことをいろいろ考えていて、やっぱ今の日本の現状のヤバさの一端って日本語という言語自体にも責任があるのでは??と思って読んだ本。たしかこれは西谷修の『夜の鼓動にふれる ─戦争論講義』(※これもめちゃくちゃ面白い本でした)に出てきたんだけど、導入で「戦争」とは何かという定義を確認する際に、日本語にはもともと歴史上使われていた戦に関する語彙として「乱」「役」「変」などがあって、それぞれ明確な意味上の違いがあるのに日本語の辞書だとそのへんをちゃんと書いてないんだよね!!と西谷修は嘆いていて(私は手元に日本語の辞書がないので確かめられないが)、前述の『ウェブスター辞書』を読んだ直後の私は「語彙の起源/初出とかを記録してないなんて、そんないい加減な辞書/言語ある??」とひっくり返ってしまった。で、この本である。

「社会」「個人」「近代」「美」「恋愛」「存在」「自然」「権利」「自由」「彼・彼女」という、今では学問・思想の基本的な用語になっているこれらの語彙ついて、その起源を探ろうという試み。はじめの6つ(社会〜存在)については幕末から明治時代にかけて翻訳のために造られた新造語であり、あとの4つ(自然〜彼・彼女)はもともと歴史のあった日本語に翻訳の新しい意味を与えられた言葉であるという。もともと日本語に存在していなかった語彙は、つまりはその語彙が表すもの・対応する現実が日本には存在していなかったということだ。たとえば「社会」という語彙が society の翻訳語として日本語に新しくできたからといって、それで突然日本に society たる「社会」が存在するようになったということではないわけで、そう言われてみると日本社会がいま抱えている問題も実は死ぬほど根深いものなのかもしれないなと思った。日本には明治時代ぐらいまで「個人」も「近代」も「美」も「恋愛」も「存在」もなかったんだから。

今年はヨーロッパの「近代化」についてもぼちぼち勉強したのですが、そうすると「日本っていったいいつ近代化したんだ??」という疑問が普通に湧いてきて、(日本史は手付かずなので想像で言うけど)まぁ明治〜大正時代あたりに急ピッチでやったのかなーという感じですけど、基本的にそれが舶来の文化を受け入れて消化し、頑張って追いつくという過程だったんだとすると、自分たちの内側から必然に駆られて生み出したものではないわけだから、そういう意味で実際のところ日本は「近代化」していなかったのかもしれないなと思った。まぁそもそも「近代」という概念自体、ヨーロッパ中心的なのでそれが全世界に適用できるという考え方自体に問題がありますけどね。これはオクタビオ・パスの『泥の子供たち―ロマン主義からアヴァンギャルドへ』がその辺りにも触れていてよかった(はず)。

しかし Twitterとかでたまに「差別する自由!!!」みたいな腐った言説を見かけたりしますけど、その訳のわからない寝言の根も実は「自由」という言葉が本来の日本語として長らく持ってきた意味と・舶来の概念の翻訳語としての意味が二重になっているがゆえの曖昧さに由来してるのかもな〜〜などと思いました。私たちはそんなに長く生きていないのに、言葉自体がずっっっと長く保ってきた歴史的な意味・および雰囲気を無意識にでも受け継いでいるんだなあと思って不思議な気持ちになった。言語…謎だ…。

ジョルジュ・バタイユ『内的体験』出口裕弘訳, 平凡社ライブラリー, 平凡社

はい、満を持して登場、2020年私の心を掴んで離さなかった男ことジョルジュ・バタイユです。バタイユ関連の著作ばっかりにするのもなーと思い、絞った結果これにした。『有罪者』でもよかったんだけど、多分わたしがよく引き合いに出す「自分で思いついた命題に大ウケして爆笑した後、突然全てがわからなくなって恐怖に襲われ、思わず抽斗の取っ手に掴まってやりすごす」バタイユがこれに出てきた(はず)なのでこれにしました。あっっ嘘ごめんやっぱりそれは『有罪者』の方でした〜〜。もう『有罪者』とこれ2冊セットでいいかな?『内的体験』はバタイユの「無神学大全」(言わずもがなトマス・アクィナスの『神学大全』のパロディ)の第一巻で、初版は第二次世界大戦中の1943年に出版されたもの。(第二巻が『有罪者』で、1944年に出版)

私は、ほとんど道義的責任があるかのように、他者たちを気にかけている! ある女性が、最悪なものへの坂道を滑り落ちそうになっているが、私には勇気がなくて、その女性にも坂道にも耐えられない!

ジョルジュ・バタイユ『有罪者』江澤健一郎 訳,河出文庫,河出書房新社

は〜〜〜バタイユはおもしれー男だな本当に。普通に好き。酔ってるからあまり真面目に解説ができなくて恐縮ですが、『内的体験』と『有罪者』はバタイユの手記がベースになっているので、論理的な構成がしっかりしている類のものではなく、彼の日記や悲鳴や思索や祈りや鋭い洞察や絶叫がアフォリズム的に並べてある感じの著作なので、割とメンタル弱った時とかにパラパラ目につくところを読むだけでも助かる。あ、あと『内的体験』はブランショのことをよく引き合いに出しているので、彼からの影響・関係性を感じられてニマニマできるところが良いですね。『明かしえぬ共同体』でバタイユに興味を持って、バタイユの予備知識皆無でいきなり読んだのがこれだったのもあり余計に何言ってるのか不明だったし、おもしれ〜だけで終了したところが大きいが、一通り伝記や解説系の本や他の著作も読んだ上で改めて読むと発見が多そう。

バタイユ関連でよかったのは他にM・シュリヤの『G・バタイユ伝(上・下)』、ちくま新書の酒井健『バタイユ入門』、もう少し引いた視点で相対的にバタイユの存在が見えるのは中公新書の酒井健『シュルレアリスム 終わりなき革命』、本人の著作で面白いのは河出文庫の『ドキュマン』ちくま学芸文庫の『純然たる幸福』はデュラスとの対談や、インタビューがあるのと、エッセイ風のものと真面目なヘーゲル論とか全体的にバランスよく盛られていて意外と入門にちょうど良い感じがするな。

両眼がその愛の対象のほうへ行くようにして、もし私がのほうへ行くことをしなかったとしたら、ある情熱の期待がその夜を求めなかったとしたら、は単に光の欠如にすぎなかったであろう。眼球の飛び出した私の視線がを見出し、そこに沈み込む一方、叫びに至るまで愛された対象は悔いを残さぬのみならず、もう少しで私は、それなしでは何はともあれ私の視線が「眼球の飛び出す」ことにも、夜を見出すことにもならなかったろう、あの対象を、忘れるところだった––見損なうところだった。堕落させるところだった。

ジョルジュ・バタイユ『内的体験』出口裕弘訳

ウィリアム・フォークナー『八月の光』加島祥造訳, 新潮文庫, 新潮社

毎年八月になると(『八月の光』を読もう…)と思って早数年、2020年になってようやく読めました(八月じゃなかったけど)。やーーーーー傑作だった。私の人生の小説ランキング1位はガブリエル・ガルシア=マルケス『百年の孤独』ですが、トップ5には間違いなく入るなと思いました。すごい小説ですよこれは。

彼女を眠らせずにいたのはそんなことのせいではなかった。それは闇の中から出てくる何か、大地の、夏そのものの中から出てくる何かだった。それが恐ろしくて惨めだというのも、実は直観的に、それが何も自分に害毒を与えないものだと知っていたからだ。それは彼女を占領し完全に出し抜きはするがけっして害を与えず、それどころか彼女を救って生活から恐怖を消し、平凡に、いや前よりも良い暮しをさせる何かなのだ。ただ恐ろしいことに彼女は救われるのを欲していなかったのだ。
「あたしまだ祈る用意がないわ」、目を大きく見開いて、静かに頑に、女は独り言を口にし、その間、窓からは月光が差し込んできて、部屋を冷たくて取り返しのつかぬ何か––ひどい後悔に駆りたてる何かで満たしていた。「神様、まだあたしがお祈りせねばならぬようにはしないでください。神様、もう少しだけあたしを地獄においてください。ほんのもう少しだけ」

ウィリアム・フォークナー『八月の光』加島祥造訳

ジョー・クリスマスと、ジョアナ・バーデンが泥沼の恋愛というか、夜の暗闇の中でドチャクソにセックスするパートがとにかく良いよね。文学上の好きなセックスシーントップ5にも入る(1位はこれも『百年の孤独』で、あとはケルアックの『オン・ザ・ロード』にも好きなセックスシーンがある)『八月の光』についてブログ書きたいな〜〜と思ってたのに結局書けなかったな。すでにバタイユに呪われた状態で読んだので、『八月の光』も(バタイユだ…)となりましたね。『明かしえぬ共同体』はジャン=リュック・ナンシーの『無為の共同体』の論旨を概ねなぞっているものらしいんですが、めちゃくちゃざっくり言うと、〈共同体〉に属していないという点でのみ繋がっている共同体、「いっさいの社会的関係の外でこそ生きられる出来事」として、ただ裸形の人間たちが共に存在することに対して新しく〈共同体〉の名前を与えようとしていて、それって『八月の光』の登場人物たちに言えそうなことだなと読んでいて思ったんだよな。『八月の光』の主要登場人物たち、一人残らず共同体から疎外されて孤独に生きている人間たちなので…。

あとジョアナ・バーデンがやたら「光」と一緒に描かれているというか、光で照らしたり・照らされたりするシーンが印象的で、その対比としての「闇」、「夜」の中でのクリスマスとの関係性(というかセックス)も、どうも「夜の思想家」と呼ばれたバタイユを思い出してしまうよね!! 「視覚」という西洋の特権的な認識方法とは別の、直の「触れ合い」を通じた交流。「光」は「視覚」で物事を把握するための条件で、視覚の特権性は「認識する主体」が「把握される対象」から距離を保ち、距離が「認識する主体」を守ることによって保証されている。光のない「夜」の中では、その視覚の優位性が奪われ、距離を廃絶した触れ合いのみがあり、「主体」も「客体」も混ざり合うことで「認識する主体」の主体性は奪われ、触発変容される危険にさらされる…。この手の話も西谷修の『夜の鼓動にふれる ─戦争論講義』を読むとわかりやすい。図書館で借りて読んだので手元にないんだけど、良い本だったので買おうかな〜。ちなみにバタイユとフォークナーは誕生日も亡くなった日も妙に近くて、今のところバタイユがフォークナーに言及している文章などは発見していませんが無茶苦茶同時代の人だったんだな〜とは思った。

ゴウリ・ヴィシュワナータン『異議申し立てとしての宗教』三原芳秋 編訳,田辺明生・常田夕美子・新部亨子 訳,みすず書房

まずこの本はタイトルの時点で最高だよね。COOL。サイードの高弟で文化研究/ポストコロニアル批評の領域で、「宗教」を世俗的な身振りの一つとして捉えて論じている。宗教だけじゃなく、オカルティズムとか神智学についても「オルタナティブな知の系譜」として触れているので、テーマとして完全に興味深いな〜〜〜という本なんですけど読んだのが6月…?とかでいかんせん内容をほぼ失念していますよね。何もかも忘れるので生きるのが辛い。

古い信仰を捨てない限り近代的人間にはなりえない、神への信仰を保ちながら近代世界を十全に生きることはできない、信仰者は近代的人間たりえない、ゆえに「神の死」こそが近代の展望を開く鍵である

『異議申し立てとしての宗教』

これはマジでただ私がひっかかった部分なだけでこの本の主要な箇所でもなんでもないんだけど、前に友人が話していた「近代的自我」について果たして私は持っているだろうか…と悶々としていたタイミングで読んだので「だから私は近代的人間じゃないのか〜!」と納得してしまった(近代的人間じゃないのかよ)。「神への信仰」といって良いかははなはだ疑問だが、割と素朴に「神」という存在はいてほしいと思ってるところはあるからな。この本マジで全然解説できなくて恐縮だけど私もまたそのうち読みます。

シルヴィア・フェデリーチ『キャリバンと魔女』小田原琳・後藤あゆみ 訳,以文社

解説が加速度的に雑になってきていますね。(2020年が終わろうとしているので)(※結局間に合わなかった 2021/1/1追記)
これもさぁ、完全にテーマからして面白いじゃん? 16,17世紀にヨーロッパで行われていた「魔女狩り」は、近代資本主義社会の準備に不可欠なムーブメントだったというやつ。めちゃくちゃ面白かった。
ちなみに映画の『ウルフ・ウォーカー』はみなさんみました? かなりテーマが重なっていて、近代化に伴う自然破壊・女性を家庭に押し込め、無償の家事労働に従事させることによる地位の切り下げ・「ウィッチクラフト(魔術)」の否定と破壊…とかまさにこの本で読んだやつ…となったし、こんなにヘヴィーなテーマをあんなに美しいアニメーションで、かつ女と女の友情譚として描いちゃいますかあ??すごいな〜〜!!(良い意味) と感動した。贅沢を言えば突っ込みどころも無くはないのだが、しかし良い映画だったな。『キャリバンと魔女』はなかなか分厚いし、とりあえず『ウルフ・ウォーカー』みようぜ。

デボラ・フォーゲル『アカシアは花咲く』加藤有子 訳,松籟社

今年は全体的に小説をあまり読めなかったんだけど、これは久しぶりに「読み終わるのが惜しい」タイプの本だった。灰色の街、金属とコンクリート、妙に抽象化された物質から色だけが鮮やかに浮かび上がり、一滴のメランコリーがかすかに表面を濡らす。工業化され、粗悪品に囲まれる生活・味気のない人生で、人々は砕けた心を抱えながらロマンスを待ち望む。論考のような硬質な文体ながら拭いがたい悲しみに浸かっていて、読んだのが秋だったのもあり、ひどく物悲しくなったのを覚えている。

肝心なのは次のことだ。人生はどのような経過をたどるのだろう、どこまでも凡庸な人生になにが起こりうるのだろう、どのように無から––空色の空気から、触れられた物やべたつく退屈さから、平凡なひとつの出会いから––人間の運命が生じるのだろう?

デボラ・フォーゲル『アカシアは花咲く』加藤有子 訳

デボラ・フォーゲルは、現ウクライナの西部国境地帯にある街に同化ユダヤ人の家庭に生まれ、家庭ではドイツ語とポーランド語を話していたが、イディッシュ語を学び、執筆言語として選択した。『アカシアは花咲く』を1935年に出版し、その後はニューヨークのイディッシュ語文芸誌に作品を執筆し、モダニズム文学の最前線に参加していたが、1941年に勃発した独ソ戦下で住んでいた街がナチス・ドイツに占領され、ユダヤ人一掃作戦により1942年に母、夫、息子とともに射殺された。
いや、小説を読んでいて、美しい文体だけど描かれている街の様子はなにやら重い雰囲気だし、暗さは感じていたけどさ、読み終わった後に著者の来歴読んで息を飲んでしまったよ。こんなに素晴らしい小説を書ける人がさ、40歳ほどの若さで射殺なんて、ね。ナチス、ファシズム、レイシズム、マジで許さじ……。

杉浦勉『霊と女たち』インスクリプト

青山ブックセンターに行ったらなぜかこの本が平積みされており、帯に「幻視する彼女たちの語りを、バタイユ、ラカン、イリガライ、フーコーらの所論、そしてチカーナ・フェミニズムの言論/実践と読み合せながら、霊性とセクシュアリティとポリティクスとを切り結ばせる」と書いてあったので、完全に私の読むべき本だ…となった。やっぱり本屋はこういう予期せぬ出会いがあるのが良いですよね。

「スピリチュアル」という観念が個人の救済や「癒し」として了解されがちなこの地とは異なり、米国における、特にアフリカン・アメリカンの女性たちのなかで実践されてきたスピリチュアリティは、社会やコミュニティに関する運動と直接結び合って形成されてきた。この理由を歴史的な背景や文化的な差異から説明するのは容易なのかもしれないが、しかし重要であるのは、一見すると相反するようにも考えられるスピリチュアリティとポリティクスとが、なぜに強く連動されるのかを理解することだろう。そのうえでこそ、スピリチュアリティというものが彼女たちのコミュニティで果してきた役割を考え、さらには「霊」という思想そのものの輪郭を浮き上がらせることが可能となるに違いない。

杉浦勉「黒いスピリチュアリティ」『霊と女たち』

わたしがフェミニズム、政治と関連する形としてやたらと「スピリチュアル」を考えていたのは、まさにアフリカン・アメリカンの女性、ベル・フックス(私は『アート・オン・マイ・マインド』を一番おすすめする)や藤本和子さんの『塩を食う女たち』に強く影響を受けているからなんだなと思い起こした。『ヒップホップ・レザレクション』はもっと「宗教」寄りになるが、それでも「スピリチュアル」なものと政治的な活動が連動していた良い例だと思うし、なぜ彼らが「霊」を必要としたかというのは非常に重要だと思うんだよね。

だって自由だから!
身体がどうなろうと生きてさえいれば
頭で何を考えても 心で何を想っても
それだけは
それだけは 自由だもの…

なおいまい『ゆりでなる♥えすぽわーる』

『ゆりでなる♥えすぽわーる』読みました??????百合漫画ですけども、最高ですね。唐突ですけど、ここには通底するものがあると思うんだよね。

しかし『霊と女たち』いやかなり良い本だな。今年一番よかった本かも。スペインの異端審問、アフリカン・アメリカンのスピリチュアリティ、イスラム神秘主義、バタイユ、フーコー、フェミニズム…今年私が勉強してきたことの総まとめ感がある。本当にありがとうございます。改めて読み返そう…。

はい、だいぶ雑ですが2020年読んでよかった本ベスト10でした。
10冊分解説しようと思ったらそれなりの時間がかかるということがわかった(普通に考えてそれはそう)。2021年も読むぞ&もっと忘れないようにするぞ。