読んだタイトルだけ並べても寂しい&よくわからないので、せっかくだし自分の振り返りをかねて簡単に解説をつけてみる。これはよかったランキングではなく、単純に写真の左から、おおむね読んだ順に並べています。
今年1年ジョルジュ・バタイユという男に狂うきっかけになった本。ブランショのことはずっと気にはかけていたのだが読む機会がなく、本当に何となく書店で目があったので手に取った。タイトルの通り〈共同体〉がテーマとなっており、主に1930年代のバタイユの共同体の試みについて書かれた「否定的共同体」と、マルグリット・デュラスの作品における男女の奇妙な関係性について書かれた「恋人たちの共同体」の二編が収められている。正直なところブランショによる本文自体は、政治的・思想的な背景もバタイユ/デュラスについても無知だった私にとってはそこまでよくわからなかったのだが、訳者の西谷修による解説がかなりわかりやすく整理されており、クソバカな私にも「あ、バタイユとブランショがBLってことですね」と即座に理解できた。西谷修はエティエンヌ・ド・ラ・ボエシの『自発的隷従論』のあとがきでもボエシとモンテーニュの関係性に言及してるけど、おそらくBLの才能があるんですよね。信頼できる。この本はひとまず西谷修によるあとがきのところだけでも読んで欲しい。
バタイユはその後政治から撤収するが、それは共同体の断念ではなく、共同体を国家に収束させてしまったあらゆるものに抗して共同体を見出そうとする試みだった。そして孤独の果てに、〈内的体験〉のうちに彼はむしろ無いという形での〈共同体〉を見出すのである。あるいはそれはブランショとの出会いだったといっていいかもしれない。戦後、大戦明けの祭りのような雰囲気の中で、多くの人々が再びさまざまなグループを形成した(実存主義、共産主義、ペルソナリズム等々)が、おそらくどんなグループ内の一致よりもはるかにたがいの思考を親しく響き合わせたブランショとバタイユは決してグループを組むことはなかった。それは、彼らの〈共同性〉が一定の思想、傾向を共有する個的な存在間の連帯ではなく、むしろそのような共有を断念したときに現われる直かの接触、あるいは相互の限界をあらわにする〈分割〉以外に何ものをも共有しない〈共同性〉だったからである。彼らの間にはある原則を基にした擬制の共同体はない。ただ、「終わりなき対話」があるだけである。
西谷修「ブランショと共同体––あとがきに代えて」『明かしえぬ共同体』
ブランショ=バタイユの思考には弁証法的総合への契機はない。彼らによれば、徹底的な異議申立てをつらぬこうとするふたつの思考が語り合うとは統一・綜合へと高まってゆく弁証法的対話ではなく、いわば言葉を「ともに–あいだに–もち支える」対話というかたちをとる。「絶えず深まってはゆくが、一致という事のない相互了解、埋められてはならず、それどころか告示されてもならぬ断絶に基礎を置いた相互了解」。言ってみればそれは、二人の対話者がたがいに向き合うのではなく、いわばともに肩を並べて広大無辺な捉ええぬ《外=夜》に向かい、無限に向かって骰子をふるように、かわるがわる言葉を発する事にほかならず、この思考の賭博者たちは《外=夜》との関係において限りなく孤独であり、またその営みを通じて「来歴もなく逸話もない」徹底した無名性へと導かれる。こういう思考の賭博者、思考の冒険者たちを互いに関係づけているものこそが、《友愛》という美しい言葉で名付けられるべきだとブランショは語るのである。
清水徹「《解説》モーリス・ブランショ」『筑摩世界文学体系82・ベケット・ブランショ』
ほら〜〜〜めっちゃBLじゃない?? ベッタベタにサン=テグジュペリの言葉を借りますけど、「愛はお互いを見つめ合うことではなく、ともに同じ方向を見つめることである」のであって、つまりこれはもうLoveじゃん…? Loveなんだよな…。
おおむね読んだ時系列順に並べたので突然話が変わるけど、今年は英語の勉強も頑張った。英会話だけ通っても一向に上達しないので、勉強するのって大事なんだな〜〜ということが身にしみてわかった一年でした。とはいえ語学の勉強ってつまらないですよね(私だけか?)。まずは自分を「英語勉強するのって楽しい!」という気持ちにすることが大事だなと思って読んだ本。これはマジでスーパー面白い(声出して笑える)し、特に英米文学好きな人はぜひ読んで欲しいんですよね。レイモンド・カーヴァー、フランク・オコナー、ジョージ・エリオット、ドリス・レッシング、ヘンリー・ジェイムズ、バーナード・マラマッド、ヴァージニア・ウルフ、メアリー・シェリー…。これら英米文学の作家が、どんな意図を持って、どんな効果を出したいがために「どんな文法をつかっているのか?」という解説本。なんとなく英語ってストレートで・シンプルで・フェアーな印象があったけど、英語でこんなに嫌味ったらしく遠回しに意地悪言ったりできるんだな〜と感銘を受けて、よくよく考えてみれば英国人って性格悪いもんね!!!嫌味だし!!(※偏見)と今まで読んできたイギリス文学を思い出して笑ってしまった。そりゃ英語、得意でしょうよそういうの…。しかし冒頭でとりあげられている、昔イギリスで流行っていた文章を書く際のマナーを示した「英語文章マニュアル」(かなり笑える)は多くは大陸(フランス)からの輸入・翻訳本だったらしく、嫌味ったらしい英語表現の起源はフランスの可能性もあるっぽい。話はややずれるが、文庫クセジュの『英語語源学』でも、いかにフランス語由来の語彙が英語を豊かに・華やかにしたかということを得意げにしたためてられており、心が温まる。
その寄与に含まれるのは、行政の語彙(※実際の語彙が列挙される)、そして司法の語彙(※略)、それにもちろん軍事用語である(※略)。同様に多くの証拠が拾い出されるのは、贅沢な服装(※略)および貴族的な娯楽(※略)である。
物質的な快適さは明らかに豪華さを伴う。住居の模様替えや装飾が念入りに行なわれる(※略)。食事も凝ったものになる(※略)。文化的な水準は芸術と科学の語彙によって文証される(※略)。
ジャン=ジャック・ブランショ『英語語源学』森本英夫・大泉昭夫 訳,文庫クセジュ,白水社
フランス人が自国の文化と言語についてとにかく誇りを持っている様子がひしひしと伝わってきてしまいますね。まるでフランス語が英語圏の文化的水準を押し上げたかのような物言いである。はぁおもしろ。
アメリカの伝統ある辞書「ウェブスター」の編纂をしている編集者によるエッセイ。辞書の編集ってこういう風にされるんだな〜という様子がわかるのと、ネイティブの英語話者でも「これが他動詞なのか自動詞なのかわからない」みたいなことが割とよく起きるっぽいということがわかって安心した(「他動詞テスター」というその動詞が他動詞なのかどうか確認ができるツールなどがあるらしい)。あとは「moist」という語彙は英語話者からするとめっちゃキモいwordらしい、とか「へぇ〜」っていう細かい話がいろいろあって楽しい。ただそういう面白エピソードだけじゃなく、語彙について語るということは、当然文法に基づき、品詞を分類したり文章を解釈するということになるし、そしてその背景には英語という「言語」がどのように成り立ち、何を目指し、どのような欲望にまみれながら、現在の地位を築いてきたのかという圧倒的な歴史が立ち現れる。言語における「帝国主義」も非常に気になるトピックですよね。(継続検討)
英語という言語はどうやら論理的体系を有していないようで、その語彙にしても理路整然と思考する人たちとの何世代にもわたる交流のなかで発展したものとは言い難い。洗練された科学的手法らしきものをもってすれば、ありのままの言語から系統だった、明快ななにかが現れるなどと望むべくもない。我々が相手にするのは、一貫性に欠けた雑多な寄せ集めでありながら、あくまでも整然としたコミュニケーションたらんとする不屈な骨格を保つ言語なのであり、その骨格に支えられた身体たる語釈もおのずとそのような状況を反映することになる。
フィリップ・バブコック・ゴーブ , メリアム・ウェブスター社内文書「語釈の技法」メモ 『ウェブスター辞書 あるいは英語をめぐる冒険』エピグラフより
英語を勉強している日本語のネイティブスピーカーからすると、英語が論理的体系を有してないってそんな、英語でそうなら日本語は一体どうなっちゃうんですか????という気持ちになってしまう。日本語はほんとうに改めて考えると「運用でカバー」みたいなのが多すぎると思うし、日本語の仕様全然わかんない。まあ全然仕様がわからないのに使えるというのがすなわち「母語」であるということなんだけど…。『ことばの発達の謎を解く』は、幼児がどうやって母語を習得するのか?どうして大人が外国語を習得するのは難しいのか?ということを、子どもを対象にした実験を通して解明していく、、という本で、すこぶる面白かったんだけど日本語という言語が曖昧すぎてめちゃくちゃ不安を覚えてしまった。
言語のことをいろいろ考えていて、やっぱ今の日本の現状のヤバさの一端って日本語という言語自体にも責任があるのでは??と思って読んだ本。たしかこれは西谷修の『夜の鼓動にふれる ─戦争論講義』(※これもめちゃくちゃ面白い本でした)に出てきたんだけど、導入で「戦争」とは何かという定義を確認する際に、日本語にはもともと歴史上使われていた戦に関する語彙として「乱」「役」「変」などがあって、それぞれ明確な意味上の違いがあるのに日本語の辞書だとそのへんをちゃんと書いてないんだよね!!と西谷修は嘆いていて(私は手元に日本語の辞書がないので確かめられないが)、前述の『ウェブスター辞書』を読んだ直後の私は「語彙の起源/初出とかを記録してないなんて、そんないい加減な辞書/言語ある??」とひっくり返ってしまった。で、この本である。
「社会」「個人」「近代」「美」「恋愛」「存在」「自然」「権利」「自由」「彼・彼女」という、今では学問・思想の基本的な用語になっているこれらの語彙ついて、その起源を探ろうという試み。はじめの6つ(社会〜存在)については幕末から明治時代にかけて翻訳のために造られた新造語であり、あとの4つ(自然〜彼・彼女)はもともと歴史のあった日本語に翻訳の新しい意味を与えられた言葉であるという。もともと日本語に存在していなかった語彙は、つまりはその語彙が表すもの・対応する現実が日本には存在していなかったということだ。たとえば「社会」という語彙が society の翻訳語として日本語に新しくできたからといって、それで突然日本に society たる「社会」が存在するようになったということではないわけで、そう言われてみると日本社会がいま抱えている問題も実は死ぬほど根深いものなのかもしれないなと思った。日本には明治時代ぐらいまで「個人」も「近代」も「美」も「恋愛」も「存在」もなかったんだから。
今年はヨーロッパの「近代化」についてもぼちぼち勉強したのですが、そうすると「日本っていったいいつ近代化したんだ??」という疑問が普通に湧いてきて、(日本史は手付かずなので想像で言うけど)まぁ明治〜大正時代あたりに急ピッチでやったのかなーという感じですけど、基本的にそれが舶来の文化を受け入れて消化し、頑張って追いつくという過程だったんだとすると、自分たちの内側から必然に駆られて生み出したものではないわけだから、そういう意味で実際のところ日本は「近代化」していなかったのかもしれないなと思った。まぁそもそも「近代」という概念自体、ヨーロッパ中心的なのでそれが全世界に適用できるという考え方自体に問題がありますけどね。これはオクタビオ・パスの『泥の子供たち―ロマン主義からアヴァンギャルドへ』がその辺りにも触れていてよかった(はず)。
しかし Twitterとかでたまに「差別する自由!!!」みたいな腐った言説を見かけたりしますけど、その訳のわからない寝言の根も実は「自由」という言葉が本来の日本語として長らく持ってきた意味と・舶来の概念の翻訳語としての意味が二重になっているがゆえの曖昧さに由来してるのかもな〜〜などと思いました。私たちはそんなに長く生きていないのに、言葉自体がずっっっと長く保ってきた歴史的な意味・および雰囲気を無意識にでも受け継いでいるんだなあと思って不思議な気持ちになった。言語…謎だ…。
はい、満を持して登場、2020年私の心を掴んで離さなかった男ことジョルジュ・バタイユです。バタイユ関連の著作ばっかりにするのもなーと思い、絞った結果これにした。『有罪者』でもよかったんだけど、多分わたしがよく引き合いに出す「自分で思いついた命題に大ウケして爆笑した後、突然全てがわからなくなって恐怖に襲われ、思わず抽斗の取っ手に掴まってやりすごす」バタイユがこれに出てきた(はず)なのでこれにしました。あっっ嘘ごめんやっぱりそれは『有罪者』の方でした〜〜。もう『有罪者』とこれ2冊セットでいいかな?『内的体験』はバタイユの「無神学大全」(言わずもがなトマス・アクィナスの『神学大全』のパロディ)の第一巻で、初版は第二次世界大戦中の1943年に出版されたもの。(第二巻が『有罪者』で、1944年に出版)
私は、ほとんど道義的責任があるかのように、他者たちを気にかけている! ある女性が、最悪なものへの坂道を滑り落ちそうになっているが、私には勇気がなくて、その女性にも坂道にも耐えられない!
ジョルジュ・バタイユ『有罪者』江澤健一郎 訳,河出文庫,河出書房新社
は〜〜〜バタイユはおもしれー男だな本当に。普通に好き。酔ってるからあまり真面目に解説ができなくて恐縮ですが、『内的体験』と『有罪者』はバタイユの手記がベースになっているので、論理的な構成がしっかりしている類のものではなく、彼の日記や悲鳴や思索や祈りや鋭い洞察や絶叫がアフォリズム的に並べてある感じの著作なので、割とメンタル弱った時とかにパラパラ目につくところを読むだけでも助かる。あ、あと『内的体験』はブランショのことをよく引き合いに出しているので、彼からの影響・関係性を感じられてニマニマできるところが良いですね。『明かしえぬ共同体』でバタイユに興味を持って、バタイユの予備知識皆無でいきなり読んだのがこれだったのもあり余計に何言ってるのか不明だったし、おもしれ〜だけで終了したところが大きいが、一通り伝記や解説系の本や他の著作も読んだ上で改めて読むと発見が多そう。
バタイユ関連でよかったのは他にM・シュリヤの『G・バタイユ伝(上・下)』、ちくま新書の酒井健『バタイユ入門』、もう少し引いた視点で相対的にバタイユの存在が見えるのは中公新書の酒井健『シュルレアリスム 終わりなき革命』、本人の著作で面白いのは河出文庫の『ドキュマン』、ちくま学芸文庫の『純然たる幸福』はデュラスとの対談や、インタビューがあるのと、エッセイ風のものと真面目なヘーゲル論とか全体的にバランスよく盛られていて意外と入門にちょうど良い感じがするな。
両眼がその愛の対象のほうへ行くようにして、もし私が夜のほうへ行くことをしなかったとしたら、ある情熱の期待がその夜を求めなかったとしたら、夜は単に光の欠如にすぎなかったであろう。眼球の飛び出した私の視線が夜を見出し、そこに沈み込む一方、叫びに至るまで愛された対象は悔いを残さぬのみならず、もう少しで私は、それなしでは何はともあれ私の視線が「眼球の飛び出す」ことにも、夜を見出すことにもならなかったろう、あの対象を、忘れるところだった––見損なうところだった。堕落させるところだった。
ジョルジュ・バタイユ『内的体験』出口裕弘訳
毎年八月になると(『八月の光』を読もう…)と思って早数年、2020年になってようやく読めました(八月じゃなかったけど)。やーーーーー傑作だった。私の人生の小説ランキング1位はガブリエル・ガルシア=マルケス『百年の孤独』ですが、トップ5には間違いなく入るなと思いました。すごい小説ですよこれは。
彼女を眠らせずにいたのはそんなことのせいではなかった。それは闇の中から出てくる何か、大地の、夏そのものの中から出てくる何かだった。それが恐ろしくて惨めだというのも、実は直観的に、それが何も自分に害毒を与えないものだと知っていたからだ。それは彼女を占領し完全に出し抜きはするがけっして害を与えず、それどころか彼女を救って生活から恐怖を消し、平凡に、いや前よりも良い暮しをさせる何かなのだ。ただ恐ろしいことに彼女は救われるのを欲していなかったのだ。
「あたしまだ祈る用意がないわ」、目を大きく見開いて、静かに頑に、女は独り言を口にし、その間、窓からは月光が差し込んできて、部屋を冷たくて取り返しのつかぬ何か––ひどい後悔に駆りたてる何かで満たしていた。「神様、まだあたしがお祈りせねばならぬようにはしないでください。神様、もう少しだけあたしを地獄においてください。ほんのもう少しだけ」
ウィリアム・フォークナー『八月の光』加島祥造訳
ジョー・クリスマスと、ジョアナ・バーデンが泥沼の恋愛というか、夜の暗闇の中でドチャクソにセックスするパートがとにかく良いよね。文学上の好きなセックスシーントップ5にも入る(1位はこれも『百年の孤独』で、あとはケルアックの『オン・ザ・ロード』にも好きなセックスシーンがある)『八月の光』についてブログ書きたいな〜〜と思ってたのに結局書けなかったな。すでにバタイユに呪われた状態で読んだので、『八月の光』も(バタイユだ…)となりましたね。『明かしえぬ共同体』はジャン=リュック・ナンシーの『無為の共同体』の論旨を概ねなぞっているものらしいんですが、めちゃくちゃざっくり言うと、〈共同体〉に属していないという点でのみ繋がっている共同体、「いっさいの社会的関係の外でこそ生きられる出来事」として、ただ裸形の人間たちが共に存在することに対して新しく〈共同体〉の名前を与えようとしていて、それって『八月の光』の登場人物たちに言えそうなことだなと読んでいて思ったんだよな。『八月の光』の主要登場人物たち、一人残らず共同体から疎外されて孤独に生きている人間たちなので…。
あとジョアナ・バーデンがやたら「光」と一緒に描かれているというか、光で照らしたり・照らされたりするシーンが印象的で、その対比としての「闇」、「夜」の中でのクリスマスとの関係性(というかセックス)も、どうも「夜の思想家」と呼ばれたバタイユを思い出してしまうよね!! 「視覚」という西洋の特権的な認識方法とは別の、直の「触れ合い」を通じた交流。「光」は「視覚」で物事を把握するための条件で、視覚の特権性は「認識する主体」が「把握される対象」から距離を保ち、距離が「認識する主体」を守ることによって保証されている。光のない「夜」の中では、その視覚の優位性が奪われ、距離を廃絶した触れ合いのみがあり、「主体」も「客体」も混ざり合うことで「認識する主体」の主体性は奪われ、触発変容される危険にさらされる…。この手の話も西谷修の『夜の鼓動にふれる ─戦争論講義』を読むとわかりやすい。図書館で借りて読んだので手元にないんだけど、良い本だったので買おうかな〜。ちなみにバタイユとフォークナーは誕生日も亡くなった日も妙に近くて、今のところバタイユがフォークナーに言及している文章などは発見していませんが無茶苦茶同時代の人だったんだな〜とは思った。
まずこの本はタイトルの時点で最高だよね。COOL。サイードの高弟で文化研究/ポストコロニアル批評の領域で、「宗教」を世俗的な身振りの一つとして捉えて論じている。宗教だけじゃなく、オカルティズムとか神智学についても「オルタナティブな知の系譜」として触れているので、テーマとして完全に興味深いな〜〜〜という本なんですけど読んだのが6月…?とかでいかんせん内容をほぼ失念していますよね。何もかも忘れるので生きるのが辛い。
古い信仰を捨てない限り近代的人間にはなりえない、神への信仰を保ちながら近代世界を十全に生きることはできない、信仰者は近代的人間たりえない、ゆえに「神の死」こそが近代の展望を開く鍵である
『異議申し立てとしての宗教』
これはマジでただ私がひっかかった部分なだけでこの本の主要な箇所でもなんでもないんだけど、前に友人が話していた「近代的自我」について果たして私は持っているだろうか…と悶々としていたタイミングで読んだので「だから私は近代的人間じゃないのか〜!」と納得してしまった(近代的人間じゃないのかよ)。「神への信仰」といって良いかははなはだ疑問だが、割と素朴に「神」という存在はいてほしいと思ってるところはあるからな。この本マジで全然解説できなくて恐縮だけど私もまたそのうち読みます。
解説が加速度的に雑になってきていますね。(2020年が終わろうとしているので)(※結局間に合わなかった 2021/1/1追記)
これもさぁ、完全にテーマからして面白いじゃん? 16,17世紀にヨーロッパで行われていた「魔女狩り」は、近代資本主義社会の準備に不可欠なムーブメントだったというやつ。めちゃくちゃ面白かった。
ちなみに映画の『ウルフ・ウォーカー』はみなさんみました? かなりテーマが重なっていて、近代化に伴う自然破壊・女性を家庭に押し込め、無償の家事労働に従事させることによる地位の切り下げ・「ウィッチクラフト(魔術)」の否定と破壊…とかまさにこの本で読んだやつ…となったし、こんなにヘヴィーなテーマをあんなに美しいアニメーションで、かつ女と女の友情譚として描いちゃいますかあ??すごいな〜〜!!(良い意味) と感動した。贅沢を言えば突っ込みどころも無くはないのだが、しかし良い映画だったな。『キャリバンと魔女』はなかなか分厚いし、とりあえず『ウルフ・ウォーカー』みようぜ。
今年は全体的に小説をあまり読めなかったんだけど、これは久しぶりに「読み終わるのが惜しい」タイプの本だった。灰色の街、金属とコンクリート、妙に抽象化された物質から色だけが鮮やかに浮かび上がり、一滴のメランコリーがかすかに表面を濡らす。工業化され、粗悪品に囲まれる生活・味気のない人生で、人々は砕けた心を抱えながらロマンスを待ち望む。論考のような硬質な文体ながら拭いがたい悲しみに浸かっていて、読んだのが秋だったのもあり、ひどく物悲しくなったのを覚えている。
肝心なのは次のことだ。人生はどのような経過をたどるのだろう、どこまでも凡庸な人生になにが起こりうるのだろう、どのように無から––空色の空気から、触れられた物やべたつく退屈さから、平凡なひとつの出会いから––人間の運命が生じるのだろう?
デボラ・フォーゲル『アカシアは花咲く』加藤有子 訳
デボラ・フォーゲルは、現ウクライナの西部国境地帯にある街に同化ユダヤ人の家庭に生まれ、家庭ではドイツ語とポーランド語を話していたが、イディッシュ語を学び、執筆言語として選択した。『アカシアは花咲く』を1935年に出版し、その後はニューヨークのイディッシュ語文芸誌に作品を執筆し、モダニズム文学の最前線に参加していたが、1941年に勃発した独ソ戦下で住んでいた街がナチス・ドイツに占領され、ユダヤ人一掃作戦により1942年に母、夫、息子とともに射殺された。
いや、小説を読んでいて、美しい文体だけど描かれている街の様子はなにやら重い雰囲気だし、暗さは感じていたけどさ、読み終わった後に著者の来歴読んで息を飲んでしまったよ。こんなに素晴らしい小説を書ける人がさ、40歳ほどの若さで射殺なんて、ね。ナチス、ファシズム、レイシズム、マジで許さじ……。
青山ブックセンターに行ったらなぜかこの本が平積みされており、帯に「幻視する彼女たちの語りを、バタイユ、ラカン、イリガライ、フーコーらの所論、そしてチカーナ・フェミニズムの言論/実践と読み合せながら、霊性とセクシュアリティとポリティクスとを切り結ばせる」と書いてあったので、完全に私の読むべき本だ…となった。やっぱり本屋はこういう予期せぬ出会いがあるのが良いですよね。
「スピリチュアル」という観念が個人の救済や「癒し」として了解されがちなこの地とは異なり、米国における、特にアフリカン・アメリカンの女性たちのなかで実践されてきたスピリチュアリティは、社会やコミュニティに関する運動と直接結び合って形成されてきた。この理由を歴史的な背景や文化的な差異から説明するのは容易なのかもしれないが、しかし重要であるのは、一見すると相反するようにも考えられるスピリチュアリティとポリティクスとが、なぜに強く連動されるのかを理解することだろう。そのうえでこそ、スピリチュアリティというものが彼女たちのコミュニティで果してきた役割を考え、さらには「霊」という思想そのものの輪郭を浮き上がらせることが可能となるに違いない。
杉浦勉「黒いスピリチュアリティ」『霊と女たち』
わたしがフェミニズム、政治と関連する形としてやたらと「スピリチュアル」を考えていたのは、まさにアフリカン・アメリカンの女性、ベル・フックス(私は『アート・オン・マイ・マインド』を一番おすすめする)や藤本和子さんの『塩を食う女たち』に強く影響を受けているからなんだなと思い起こした。『ヒップホップ・レザレクション』はもっと「宗教」寄りになるが、それでも「スピリチュアル」なものと政治的な活動が連動していた良い例だと思うし、なぜ彼らが「霊」を必要としたかというのは非常に重要だと思うんだよね。
だって自由だから!
身体がどうなろうと生きてさえいれば
頭で何を考えても 心で何を想っても
それだけは
それだけは 自由だもの…
なおいまい『ゆりでなる♥えすぽわーる』
『ゆりでなる♥えすぽわーる』読みました??????百合漫画ですけども、最高ですね。唐突ですけど、ここには通底するものがあると思うんだよね。
しかし『霊と女たち』いやかなり良い本だな。今年一番よかった本かも。スペインの異端審問、アフリカン・アメリカンのスピリチュアリティ、イスラム神秘主義、バタイユ、フーコー、フェミニズム…今年私が勉強してきたことの総まとめ感がある。本当にありがとうございます。改めて読み返そう…。
はい、だいぶ雑ですが2020年読んでよかった本ベスト10でした。
10冊分解説しようと思ったらそれなりの時間がかかるということがわかった(普通に考えてそれはそう)。2021年も読むぞ&もっと忘れないようにするぞ。