今日はもともと全然違うことについて書こうと思っていたのに、突如膀胱炎と思われる下腹部の痛みに襲われ、おちおち読書もしていられない状態に陥ったので気を紛らわすための文章を書くことにする。
私は読んだ本の引用やら思いついたことのメモやらデートの議事録やらは全てevernoteにまとめているのですが、彼氏氏がNotionを推してくるので特にこだわりがあるわけでもないし乗り換えようかな〜と話したところセットでNotionの活用法noteを教えてくれた。https://note.com/shiratoriyurie/n/nb798567dc116
滅茶苦茶便利そうだな〜と思ったし、恋と仕事と東京とオタクと趣味を頑張るフルスタックエンジニアはやはりこれぐらいタスク管理をしっかりしないとダメだなと素直に思ったのですが、それと同時に下腹部の痛みが襲ってきたのでタスクを整理してこなしていきたい気持ちとは裏腹に、ただひたすらに痛みに苛まれ、唇を噛み、突っ伏し、身を捩り、この時が過ぎ去ることを神に祈ることしかできない。すみません、こういう「辛さを耐え忍ぶ」のもタスクとして処理できますか?????????
人間は…というと主語がデカくなりすぎるので普通に「私は」と言いますが、しばしば suffer するしかない時間というのがあると思うんですけど、そういう部分はどうやってやりすごしているんだ?? suffer ってタスク???どうやったら完了になるんだ??とりあえずGoogle カレンダーに “suffer” って入れておけばいい?? そもそもそういう事態に陥らないように、タスク管理以前に体調管理を完璧にこなすというのは言うまでもないことです〜という感じ?? みなさんは致死量ギリギリの毒をいつでも躊躇いなく飲める状態をキープしてるキルア=ゾルディックなんですか??
体調がやられると普通にメンタルも沈むので、タスケテ…タスケテ……と思いバタイユに手を伸ばす。こういうノリでバタイユに助けを求めるの久しぶりだけど、本来バタイユは私にとってそういう存在なんである。しかしマジで何? つっら。こんなの予定になかったんですけど。エリ・エリ・レマ・サバクタニじゃん、こんなのは。つらすぎて思わずジーザス・クライスト・スーパースターのサントラを聴き始めた。人生で初めて「イエスが十字架にかかって助かる」みたいな気持ちになってきたけど、冷静に考えてキリスト教って健全じゃないだろ、本当に何なの? まあ今私は冷静じゃないので普通に助かるけど…。
人間は、権利の主体であるだけではなく、生命の力としての発言し行動する権力を奪われるかもしれない人格でもある。弱さは、主体の能力いかんにかかわらず、理由なくのしかかる負担だ。「予知されることのない弱さの可能性を受容すること、そういった弱さに対して長期的な選択や戦略を見出すこと、それは、女性たちが、あらゆる時代において経験してきた問題だ。弱さを生み出す暴力にさらされるという事実は、列強の植民地支配において、最もあからさまになった。」フェミニストの倫理とは、ジュディス・バトラーによれば、女性史をみれば明らかなのだが、人びとの弱さを引き受け、生きる保証をあたえ、その人びとの責任を引き受けることだ。
ファビエンヌ・ブルジェール『ケアの倫理 ––ネオリベラリズムへの反論』原山哲・山下りえ子 訳,文庫クセジュ,白水社
ちょうど「倫理」が目下のテーマで『ケアの倫理』を読んでいたので、あーーーほんとうにそういうことだよね、と勝手に腑に落ちた。イケイケIT業界びと、大変合理的だしキラキラしており有益な情報をどんどんシェアしており本当に素晴らしいと思うけど、個人的には時々ちょっと「ウッ」ときたりするのだが、ポイントがなんとなくわかった気がする。現代社会をサバイブしていくためには、自分自身の目的を追求する・自律したリベラルな「個人」であることが求められるし、普通に前提とされているわけで、それが「できない」のは基本的に「個人の能力の問題」とされる。そのへんがね……まぁこれは別にIT業界に限った話じゃなく現代社会の問題点なんですけど。本来人間は、理由なく突然「弱さ」がふりかかってくる可能性がある脆弱な存在なのに、割と忘却されがち。まだ読んでる途中だけどたぶんこれ滅茶苦茶良い本ですね。
自分が辛くて何もままならないのと・合理的で有能な人間を目の当たりにしたせいで(有用性の限界…)という気持ちになってバタイユの『呪われた部分』を読もうと思って探したけど、まぁ見つからないよね。本棚もう一個導入しないともう本が片付かなくてだめだ。代わりにバタイユが突然恐怖に襲われて抽斗の取っ手につかまってやり過ごすやつ読んで元気だそう。