できることなら「交換日記」をしたいのだが、あいにく「交換」する相手が見つからず、いつまでも交換が始まらないので一方的な「贈与」という形にすればいいのではないかという単なる思いつき。
ただの「日記」じゃ駄目なのかというと・結論としては駄目で、私がしたいのは個人で日記をつけることではなく、誰かに向けて書く/誰かから受け取って書く「交換日記」だからだ。
モースの『贈与論』は概要しか知らないしちゃんと読んでいないが、「贈与」は「贈与交換」であって、交換の一形態であるという。つまり「贈与日記」は「交換日記」の一形態なのだ。(屁理屈)
しかし「贈与交換」である「贈与」は果たしてほんとうに「贈与」と呼べるのか?
それは紛れもなくただの「交換」なのではないか? と疑問を呈したのは我らがデリダであって、(私は交換日記がしたいので贈与=交換で問題はないのだが)デリダ・ファンの私としては交換の一形態でしかない贈与もどきに「贈与」という名を与えていいのかという倫理的な葛藤は発生してしまう。
そして贈与といえば勿論バタイユの得意分野でもあるからして、ジャスト・アイデアで名付けた「贈与日記」だけれどもバタイユに呪われている私としてはもっと贈与について掘り下げて考えていく必要がありますね。相手のいない「交換日記」は成立するのか、そして「贈与」は「交換」でなく「贈与」たりえるのか、考えていきたいと思います。