できることなら「交換日記」をしたいのだが、あいにく「交換」する相手が見つからず、いつまでも交換が始まらないので一方的な「贈与」という形にすればいいのではないかという単なる思いつき。
ただの「日記」じゃ駄目なのかというと・結論としては駄目で、私がしたいのは個人で日記をつけることではなく、誰かに向けて書く/誰かから受け取って書く「交換日記」だからだ。
モースの『贈与論』は概要しか知らないしちゃんと読んでいないが、「贈与」は「贈与交換」であって、交換の一形態であるという。つまり「贈与日記」は「交換日記」の一形態なのだ。(屁理屈)
しかし「贈与交換」である「贈与」は果たしてほんとうに「贈与」と呼べるのか?
それは紛れもなくただの「交換」なのではないか? と疑問を呈したのは我らがデリダであって、(私は交換日記がしたいので贈与=交換で問題はないのだが)デリダ・ファンの私としては交換の一形態でしかない贈与もどきに「贈与」という名を与えていいのかという倫理的な葛藤は発生してしまう。
そして贈与といえば勿論バタイユの得意分野でもあるからして、ジャスト・アイデアで名付けた「贈与日記」だけれどもバタイユに呪われている私としてはもっと贈与について掘り下げて考えていく必要がありますね。相手のいない「交換日記」は成立するのか、そして「贈与」は「交換」でなく「贈与」たりえるのか、考えていきたいと思います。
2023-12-11_シュレディンガーの人間
トイレットペーパーに滲んだ血を見て、今月も人間に引き戻される。
子どもを持つための取り組み始めてから、およそ4週間ごとに区切られるバイオリズムの中で、そのうちの半分はシンプルに一人の人間であり、残りの半分は「妊娠しているかもしれない/していないかもしれない」人間でいる。箱の中では猫が生きているかもしれないし、死んでいるかもしれない。私のお腹の中では新しい人間が生じようとしているかもしれないし、していないかもしれない。毎月自分の身体の中でシュレディンガーの人間の実験が行われており、それを内包している私自身は単なる箱であるかもしれないし、一人の人間であるかもしれない。
4週間ごとに繰り返される期待と失望に揺られながら、今年はついぞ1ヶ月以上先のことを考えられないまま終わった。もし妊娠すれば、その翌月ぐらいからつわりがやってくるかもしれない、つわりがくればおそらく何も手につかなくなるだろう。そう思えば数ヶ月先の旅行の予定も、数ヶ月先の目標も、数ヶ月後に自分がどうなっているかわからない以上立てられなかった。何も先の見通しが立たないまま、今月のカレンダーだけを呆然と見ている。
月の半分しか一人の人間ではないと書いたけれど、正確にはそうとも言えない気がしている。
1週:生理(怠く、体調が悪い)
2週:卵胞を育てる(栄養に気を使い、運動をする。時折卵巣が腫れるのか、下腹部が張る感じがすることがある)
3週:受精の試み、着床を願う(栄養を取る)
4週:生理が来ないことを祈る(少しの体調の変化に敏感になる。最近はなぜか泣きたくなるほど眠くなる)
というサイクルを繰り返していて、人間が腹の中に生じていないことが確実なタイミングであっても、結局バイオリズムと卵子が中心の生活でしかない。体調が微妙だったり・お酒が飲めなかったり・先の予定がわからなかったりして、人と会うのも何かをするのも、なんとなく主体的になれず、ぼんやりとしていることが多い。己の主体性を卵巣と子宮に明け渡してしまったのかも。
バイオリズムに従って定期的にクリニックに行き、診察台で持ち上げられる度に藤本和子さんの不妊治療について書いたエッセイを思い出す。通い始めた頃はあの診察台で持ち上げられること、子宮の中を覗かれることに対してナイーブに傷ついていたりもしたけれど、最近ではもう慣れてしまった。というか、慣れるより他になかった。藤本和子さんは、診察台に上がることを屈辱的だとか恥ずかしいとか思いたくない、と書いていたけれど、そう「思いたくない」ということは強くそのように意思しないと、そのように思わざるを得ないということなのかなとも思う。「わたしたちに屈辱とか恥とか思わすなんて、陰謀にちがいないと疑ってしまうからだ」、と彼女は言う。
それから、あれはどういうわけだろう。診察台のちょうど中央あたりに、天井から吊ったカーテンが下りていて、診察を受けるわたしたちは上半身をカーテンのこちら側に置き、下半身をカーテンのあちら側に置くのだ。下半身を見せる恥ずかしさに顔を赤らめている女性の顔を医師が見ないでおいてくれる、という親切心のあらわれとして受け取るべきなのだろうか。「恥ずかしい」だろうと推量して、このみじめなカーテンがそれを柔らげてくれると独断するのは誰?
わたしたちは文字どおり、上と下に引き裂かれ、すっかり混乱してしまう。なにをもって、この汚らしい布切れで切り裂かれた存在を再統合したらいいのか。
藤本和子「ヨセフの娘たち」『砂漠の教室』河出文庫,P98
藤本和子さんのこのエッセイは素晴らしくて、彼女がこの経験を文章にしてくれたことについて本当に感謝の念に堪えない。不妊治療をする前の、「子どもを持ったらきっと自分は終りだ」という、子どもを持つということに対する恐れ。それでも、ふと、子どもをうむんだ、と決めたこと。不妊治療を受ける中での屈辱的な体験。(でも、これを屈辱的であると私が書くべきではないのかもしれない)医師への疑念と不信感。やるせなさ。先の見えなさと静かな諦念。
そして、女はそれらの経験や、あるいは女について語るための言葉をそもそも持っていないということ。女について語るための言葉ってなんなんだろうな、といつもならリュス・イリガライでも読みたくなってしまうところだが、ひとまず今は「女について語る言語」について考えることよりも、実際に私について、私が「女」であるということについて語ることを試みたほうがいいのかもね、
と、書きかけていたのが昨年の12月の下書きにあった。そしてここから半年近くが経ってもちっとも状況は変わっておらず、相変わらず先の予定を立てづらいまま、また今月のカレンダーを見ている。
下腹痛がやはりその月も妊娠せずつぎの月経が接近していることを予兆すると、わたしはじぶんの身の丈よりも高い葦草の群落に踏み込み迷ってしまったような気持になる。子供をうまなくたって全然かまわないと思うし、それでイッカンの終りだなどとは微塵も考えてない。それでも混乱する。
藤本和子「ヨセフの娘たち」『砂漠の教室』河出文庫,P110
今月も同じように下腹痛を感じ、ああ、と蹲りながら、この本のこの一節のことを思い出した。そして、この書きかけだった文章のことも。私もいま同じ葦草の群落にいる。
私は文章(特に日記)について、できるだけ開始地点から遠く離れた予想外の地点に辿り着くことを良しとしているので、こんな全然どこにも行けない文章なんて嫌だなと思って公開できなかったのだよな。そして今回も全然どこにも辿り着けそうにもない。が、いったんこれは現在地点ということで公開して区切りをつけて、次の日記からまたどこかに行けばいいよ、そうだよ。踊るんだよ。
2023-02-27_正気ではいられない
最近また本を読めるようになったことと、映画を見たり美術館に行ったりしたことから久しぶりに思考が活性化してきて楽しい一方で、それをいざ日記やそれ以外の文章として残そうとパソコンに向かった途端・億劫になり何も書けない…という日々を繰り返している。己の無力さにまた少し幻滅する。
この疑問は生きてると何度も湧き上がってきて、今日もまた考えていたんだけど、こんなに生きてて怖いのって私だけですか? こんなに色んなことが怖くてたまらなくて、一つ一つの怖さとまともに向き合っていたらとても正気ではいられないと思うんだけど、みんなよく普通に生きていられるなって思う。こないだ見たゾンビ映画の主人公が引きこもりで、「(ゾンビ関係なく)世界は怖いので家から出られず引きこもってた(から世界中にゾンビが蔓延しても感染せずに済んだ)」みたいなこと言ってたけど、いや本当にそうなんだよ… 世界は怖いから私だって本当なら家から出たくないんだよ…と心底共感したしストーリーの本筋とは特に関係なく心に残ってしまった。
私は失明するのが怖い。特に外を歩いてると、突然何かが飛んできて目が潰れる危険性がある気がして怖い。首とか手首とか、何か刺さったら死にそうな箇所を露出するのが怖い。手首の血管を見ていると気分が悪くなる。道を歩いてるとき、突然車が暴走して歩道に突っ込んできたらどうしよう…と思って怖い。電車に人がたくさん乗ってるのも怖い。特に電車内で刃物を振り回した人や放火した人が出た直後は本当に電車乗るのが嫌だった。いくらでも同じようなことが実行される可能性は消えてないので、その事実を忘却してるだけで普通に怖い。最近流行りの強盗が怖い。通り魔も怖い。夜道で謎に立ち止まっている人が怖い。最近会わないけど露出狂とか性犯罪者も怖い。いや怖くはないか?と思ったけど多分怖い。よくわからない身体の不調が怖い。伴侶が病を患うのが怖い。猫が衰えていくのが怖い。いつかまた一人になるのが怖い。何かを忘れるのが怖い、いつの日か何もかも忘れてしまうのが怖い。何もわからなくなって、私が私でなくなるのが怖い。そんな状態でも生きていたら怖い。そんな状態の私を看てくれる家族がいてもいなくても怖い。地震が怖い。台風と川の氾濫が怖い。火事も怖い。家や家財や本が全て燃えてしまうのが怖い。戦争が怖い、改憲が怖い、それを押し進めようとする今の政権が怖い、そしてそれに無関心な国民が怖い。政治の話をしても全然響かないしなんなら必死に否定してくる・ノンポリで新自由主義をすっかり内面化している友人が怖い。そういうことを考えると、友人と数えられる人の数がごっそり減ってしまって怖い。この世にまともな人ってほとんどいないのか?と思うと怖い。会社でも、無能(というか、マジでもう少し考えないんですか?)な人が多くて怖い。仕事ができない人を糾弾してしまいそうになる自分が怖い。自分もまた無能な人間の一人に過ぎないことが怖い。フェミニズムに対する憎悪や無関心が怖い。左派の男性ですら、そのトピックについてはマジで頓珍漢なこと言ってくるところが怖い。連帯する気力が失われる。それでも、そういった人たちの理解や協力を得られるように振る舞わなくてはならないのかもしれない、と思うと荷が重く、気は遠くなる。それでも自分はシスジェンダーのヘテロセクシャル女性で、かつ社会的にも比較的恵まれた状況に置かれているので、無自覚な特権で他者を傷つけているかもしれないことが怖い。文章を書くということも怖い。前にそれで人を傷つけて、関係性を損ねてしまったから。そのような形で発覚していないだけで、本当はもっと何かを損ねてしまっているかもしれない。こんな文章を書くよりも、もっと他にやるべきことがある気がするのに、それができない自分の無責任さが嫌になる。こんなに色んなことが怖いです、生きてるだけで頭がどうにかなりそうなんです、といったところで、ただの言い訳だなあと思う。政治や社会活動を頑張っている人たちからの目が怖い。あと無性にミノタウロスが怖い。小さい頃、ミノタウロスが怖くて深夜の台所に降りるのが怖かった、ここはクレタ島ではないし、ミノタウロスがいるはずもないのに。あとサブウェイも注文のシステムがいまだに怖くて利用できない。
2023-02-18_棍棒を持った男たち
われわれの世界には、何時でもどこでも、この棍棒を持った男たちが偏在している。われわれのほとんどは、彼らの存在を考えずに生きるためだけに、数限りない境界線や柵を越えることなど、考えることさえあきらめている。毎日どの大都市でも見かけられるように、ひもじさで倒れそうな女性が、食べ物の山から数メートル離れて立っている。だが、われわれにはそれを取って彼女にあげることができない。なぜなら棍棒を持った男たちが現れ、われわれを打つからである。
デヴィッド・グレーバー『アナーキスト人類学のための断章』P130,高祖岩三郎訳,以文社
ここのところしばらく元気がなく、藤井聡太の乙女ゲーをやることぐらいしかできていなかったのだが、ようやく本を読んだり考えたりできる程度に回復してきた。空気中にほのかに漂う春の気配のおかげだろうか?
斎藤幸平の『ゼロからの『資本論』』とグレーバーの『アナーキスト人類学のための断章』を読んだらアナーキーな気持ちになってきたので、そのテーマと態度を持ってしばらく読書に臨もうかなという感じ。先行してアナキズムに傾倒している(?)人間もちょうど家にいることだし…。
結婚して最も良かったことの一つは、お互いの蔵書を共有できるようになったことかもしれない。夫が歯を磨きながら私の本棚を眺めていたり、いつの間にか私の本を読んでいたりすることが、何気なく・しみじみと嬉しい。私も夫の本を勝手に読み、その本を通じて興味を持って・読みたいと思ったものが既に本棚に揃っている ということが多く、かなり助かっている。逆に私がなんとなく買って置いておいた本をなんとなく読んだ夫が、そこから良いアイデアを得たらしく「結婚してよかった…」としみじみ言っていたのも、気が合うな〜と思って良かった。
人と暮らすようになれば当然だが一人でいられる時間がほとんどなくなり、あらゆる人間の中でかなり気が合い・気を許せる相手とは言え、自分以外の他者がずっと共にいること由来の疲れというのは否めない。時折意味もなくぐったりしてしまう。とはいえ、やっぱりこうしてお互いに影響を受けたり/与えたりしながら変わっていくことは、他者と共に暮らすということの醍醐味だなと思う。自分一人でずっといると、自分自身からどこまで行っても離れられなくて、しんどくなる時あるものね。とはいえこれはたまたま気が合う人と結婚できたから成り立っているだけであって、本当に僥倖ですね。
ここまで書いてて思ったけど、これ「かなり気が合う人と一緒に暮らす」楽しさだから別に制度としての「結婚」とは何も関係ないな。「結婚して良かったこと」ではなかった。私は前から1対1の夫婦は家族として小さすぎると思っていて、別に複数の夫を持ちたいというわけではないけれど既存のモノガミーを中心とした体制に対するオルタナティブな在り方としてのポリアモリーが実践できたらいいのに、と思っている。でもその場合なら「ポリアモリー」とわざわざ言わず、単に「群れ」でいいのかもしれない。今日読んだグレーバーにもそんな話がちょうど出てきて、「それだよそれ〜」となった。
※ポリアモリーについてはこの記事が面白かった→ 「リアルポリアモリーとはなにか?」幌村菜生と考える“21世紀的な共同体”の可能性
グレーバーは、現代アクティビズムに必要な直接民主主義的な合議方法、集団的意思決定過程の実践的方法の核となるものとして、「類縁グループ」と「スポーク会議」という集合性を挙げている。類縁グループは4〜10人ぐらいの仲間からなる集合で、例えばエコ・フェミニスト・レズビアンであるとか、同じ地域出身であるとか、友人であるとか、なんでもいいらしい。この類縁グループが大規模な行動を起こす際の基本的単位となり、スポーク会議という行動前の大会議で合意形成を行う、という流れになる。今のところ私は具体的に何か「大規模な行動」をする気もできる気もしていないけれど、まずこの「類縁グループ」というのはいいよね、と思った。北米で有名な異教的アナーキズムの活動家によれば「類縁グループとは、お互いに共感を持ち、お互いの強さも弱さも知り、支えあい、そして政治/活動をやる(やろうとする)グループである」とのこと。類縁グループ… 実現したい! と思うけど、気難しくて人付き合いな苦手な人間がこの手のコミュニティを結成したり/維持したりするのって、かなり難易度が高いとも同時に思う。「気難しくて人付き合いが苦手な類縁グループ」を作ったらいいのか? それはちょっと「明かしえぬ共同体」っぽい。
グレーバーによれば、マルセル・モースは「革命的社会主義者」で古典的なアナーキスト的信条を持っていたとのことなので、昨年来のさまざまなお祝い等に対する返礼疲れ以来高まってきていた『贈与論』を読む機運がいよいよ熟してきたな。贈与日記のタイトルに恥じないよう、次はついに贈与論を読むか〜(『魔の山』もドメインに使ってるんだしちゃんと読もうね)
好きな男(ジョルジュ・バタイユ)の小説をはじめて読む
この記事は、ふくろうさんが主催している「海外文学 Advent Calendar 2022」12月18日のエントリーです。
おそらく文学フリマの脱稿ハイの余韻もあって、初めてアドベントカレンダーなるものに名乗りを上げてしまった。しかし困ったことに、ここ最近はまともに海外文学を読めていない。読んではいるけどあえて言及するほど心に残ったものがない、どころの騒ぎではなく、正真正銘全く読めていない。海外文学のトレンドも追えていないし、ガイブン好きを思わず唸らせるようなマニアックな作品も知らない。何について書いたものか困ったな〜〜〜と己の無計画さを反省しましたが、いっそ機会がなければ読まないような小説を読めばいいじゃない!と思い至り、ジョルジュ・バタイユの小説を一気読みすることにしました。よろしくお願いします!
好きな男の小説を読むとは
バタイユは一般的に作家というより哲学者/思想家として扱われているのだろうし、本人に至っては自分は哲学者ではなく・聖者であるとか狂人であるとか言っているが、少なくとも海外文学好きの私が初めてジョルジュ・バタイユという存在を知ったのは、フランス文学の作家としてだった。『眼球譚』『マダム・エドワルダ』『空の青み』…。映画の『ビフォア・サンライズ』でジェシーが電車の中で読んでいたのは『マダム・エドワルダ』だったし、いつかのクリスマス会で本を交換した時に、エキセントリックで魅惑的な女性からもらった本も『マダム・エドワルダ』だった。ずっとバタイユの小説は身近に感じていたし、実際に家の本棚にもあった、長らくあった。その上、私は思想家としてのバタイユのことが比較的かなり相当好きで、彼の小説以外の著作(『内的体験』『有罪者』『ドキュマン』『純然たる幸福』『宗教の理論』など)はそれなりに読んでいるし、ミシェル・シュリヤの上下巻ある伝記『G・バタイユ伝』も読んだ。バタイユの解説系の本もいくつか読んだ。私が生活、社会、人生に打ちのめされて呼吸ができなくなりそうな時、幾度となくバタイユの本に助けられて息を吹き返してきた。そんな感じで、これが結構なかなか大分好きなのである。なのに、バタイユの小説は1冊も読んできていなかったのです。
『マイ・ニューヨーク・ダイアリー』という、作家志望の女性がサリンジャーの出版エージェンシーで働きながら自分の夢を追いかける…的な映画の中で、同じく作家志望の男性と意気投合して交際を始めるんだけど、誕生日に彼が書いた小説をプレゼントされて読んでみたら最悪すぎて別れるエピソードがあり、思わずワァッ………(泣いてるちいかわの顔)ってなってしまったことを思い出し、バタイユの小説を読んでこなかった理由の一端もここにあるかもしれないと思った。バタイユのことは好きだが、バタイユの書いた小説はあまり好みでない気配がする。何度か読んでみようと思ったものの、あまり気乗りがしない。あらすじや、紹介文などを読んでも、やっぱり読む気がしない。大抵「猥褻」で「淫蕩」に耽り、「エロティックな偏執」や「サディスティックな瀆聖」に溢れているという…。まぁ一般的にはバタイユといえば「エロティシズム」なのかもしれないが、私は特にその部分に惹かれていたわけではなく、あまり興味がないし・むしろどちらかといえば嫌悪感すら覚えるような気がしていた。(だからこそ、そもそもバタイユが好きであることに対して疑念があったし、素直に「好きである」と認めるまでに実は時間がかかった。) だから、別に好きではなさそうな小説をあえて読まなくていいんじゃないかという実際的な言い訳と、バタイユのことが好きなのに彼の書いた小説を読んで辟易するようなことがあったら切ないなというエモーショナルな恐れとがあり、敬遠してきたのだった。
とはいえそんなに「バタイユが好き」というのなら当然小説だって読むべきなのではないか? という当然の発想と、自分の好きな部分だけを取り上げて・それ以外の好みでなさそうな部分を無視するというのは向き合い方として不誠実なのでは?という反省などがあり、せっかくの機会だから今まで避けてきたバタイユの小説を一気に読むか!と思い至ったのでした。ある人の文章が好きであるということ/ある文章を書いた人のことが好きであるということ/好きである人の書いた文章を読むということ、というのは近いようでそれぞれ少しずつ異なる体験だと思う。元々文章を読んで好きになった人(バタイユ)の文章を、好きである人の書いた文章として初めて読むということは、読書体験にどのような影響を与えるんだろうか。そんなことを考えて読んだ『マダム・エドワルダ』『目玉の話』(眼球譚)『青空』について書きたいと思います(前置きが長くなったね)。
『マダム・エドワルダ』
『眼球譚』と並ぶバタイユの代表作で、主人公が出会った娼婦のマダム・エドワルダとの一夜の出来事を描く短編。わたしは光文社古典新訳文庫の中条省平訳で読みました。訳者による解説によれば「ヘミングウェイを思わせる、接続詞や副詞を節約するバタイユのハードボイルドな文体の最高の例」とのことで、エロティックな場面はあれど(っていうかそれしかないけど)基本的に登場人物の行動やセリフを軸に淡々と描写されるので、ねっとりとした厭らしさはあまりなく、すっきりとした味わい。バタイユがヘミングウェイのことを好きだったらしく、それを意識して書かれたようだが、「くだくだしい心理描写をせずに、行動を外からの視点で簡潔に記述する」行動主義的文体になっているかというと正直怪しく、突然()で括ってそれまでの文章と断絶して本音を白状するやつが合間合間に挟まってくる。この()で括られた補足、弁明、感情の吐露が書き手であるバタイユのものなのか、あくまで主人公によるものなのか? というのは定かではないが、「限りなくバタイユ本人っぽい」というのがわたしの感想です。
(続ける? そうしようと思ったがもうどうでもいい。興味がなくなったのだ。ものを書くときわたしの胸を締めつける思いについてはすでに語った。すべてがばかげているのではないか? それとも意味があるのだろうか? そう考えると気分が悪くなる。
ジョルジュ・バタイユ「マダム・エドワルダ」『マダム・エドワルダ/目玉の話』中条省平訳,光文社古典新訳文庫
〜中略〜
そして、いまのところは、無意味だ! 「無意味」氏がものを書く。この男は自分が狂人であることを承知している。恐ろしいことだ。だが、この男の狂気、この無意味は——突然「確かな」ものとなって——それこそが「意味」になるのだろうか?)
ヘミングウェイが好きでハードボイルドな文体を心がけるけど、結局耐えきれずに全然いつものバタイユが出ちゃってるバタイユかわいいね。「『分かっている』というのなら、神は豚だ」と言い放つところも、「神」をできるだけ下卑たものに喩えたがるシリーズの新しいやつ〜!!となってただのバタイユ・ファン目線でキャッキャしてしまった。バタイユのファンじゃない人が読んでどう思うのか/読むべきなのかは正直微妙なところだなと思いました。
『目玉の話』
従来『眼球譚』という生田耕作訳のタイトルで知られてきた小説だが、原題は Histoire de l’ œil で単に「目の話」とか「目の物語」などがふさわしいということで平易な『目玉の話』としたらしい。『マダム・エドワルダ』とはかなり文体が異なり、(これは訳者の人のこだわりもあって一層際立っているのかもしれないが)語り手が聞き手に物語を読み聞かせるようなスタイルで話が展開されていく。耐えかねて突然()で割り込んでくるバタイユも息を潜めていて、こちらの方が普通の小説として読みやすい気がした。まぁ書かれてる内容は全然「普通」とは言えないのだが…。
『目玉の話』は主人公とヒロインのシモーヌを中心に、性的な放埒や狂気、暴力、自殺、殺人などが相次いで発生する「現代において唯一、サド侯爵の書物に匹敵するともいえる異様な小説」だと訳者は解説で述べているが、実際に読んだ感想としては、少年少女ワクワク変態アドベンチャー小説という感じだった。主人公とヒロインが若いからか、翻訳が平易でやさしい文体だからか、確かにエロティック(というか変態的)なシーンが続発するのだが、思ったよりマイルドで口当たりも悪くなく、読みやすいという印象。(私の感覚が麻痺してしまったのだろうか?)
ほかの人びとにとって、宇宙はまともなものなのでしょう。まともな人にはまともに見える、なぜなら、そういう人びとの目は去勢されているからです。だから人びとは淫らなものを恐れるのです。雄鶏の叫びを聞いても、星の散る空を見ても、なにひとつ不安など覚えない。要するに、味もそっけもない快楽でないかぎり、彼らは「肉の快楽」を味わうことができないのです。
ジョルジュ・バタイユ「目玉の話」『マダム・エドワルダ/目玉の話』中条省平訳,光文社古典新訳文庫
〜中略〜
私は人とは反対に、普通の放蕩ではぜんぜん満足できません。なぜなら、普通の放蕩はせいぜい放蕩を汚すだけで、いずれにせよ、真に純粋な気高い本質は、無傷のまま残されるからです。私が知る放蕩とは、私の肉体と思考を汚すだけでなく、放蕩を前にして私が思い描くすべてを汚し、とりわけ、星の散る宇宙を汚すものなのです…。
『目玉の話』の物語は唐突な形で終わりを迎え、その後に「思い出したこと」というタイトルの、今までのストーリーとは毛色の違う章が用意されている。この章を語っているのが『目玉の話』をずっと語ってきた主人公と同一なのか、あるいは作者であるバタイユなのか、ここもまた定かではないのだが、素直に『目玉の話』を書いた理由と自らの強迫観念について暴露するバタイユの語りのように思えた。バタイユが『目玉の話』を書いたのは1927〜28年、30歳の頃で、当時バタイユは友人らの薦めで精神分析治療を受けており、分析医であったアドリアン・ボレルの薦めで小説を書き、『目玉の話』の原稿も書き進めるごとにボレルが目を通したという。この作業を通じてバタイユは「解放された」と言っている。梅毒で四肢が不随になった盲目の父親を持つこと、父親が用を足す時に剥く白目を忘れられないこと、母親が精神に不調を来し自殺未遂をしたこと。バタイユはこうした自伝的な事実を、変形させてフィクションとして生み出すことでなんとか生き延びたのだと思う。そのことを思うと、単なる偏執的なポルノ小説だとも思えなくなってしまうのだった。
ふだんは、私はこんな思い出にこだわることはありません。そうした思い出は、長い歳月が経って、私を傷つける力を無くしてしまったからです。時が思い出をくすませたのです。変形され、もうそれとはわからなくなり、その変形のさなかで淫らな意味を帯びたときだけ、それでも生命をよみがえらせるのです。
ジョルジュ・バタイユ「目玉の話」『マダム・エドワルダ/目玉の話』中条省平訳,光文社古典新訳文庫
『青空』
わたしは晶文社からでている天沢退二郎役で読みましたが、河出文庫ではタイトルが『空の青み』だったもの。書かれたのは1935年頃、スペイン内戦そして第二次世界大戦を前にした不穏な状況の中で書かれ、そのままお蔵入りになっていたものが1957年に初めて出版された。この作品の主人公とその置かれた状況はかなりバタイユ本人に近いもので、民主的共産主義サークルに出入りしていた頃に出会ったコレット・ペニョと、シモーヌ・ヴェイユをモデルにしたと言われているヒロインたちが登場する。ミシェル・シュリヤは伝記の中で「『青空』は、バタイユという人間の忠実でかつ完全に調子の狂った模写であり、虚構であると同時に現実でもあるといった作品」と評しているが、実際一読して「めちゃくちゃバタイユ(本人の話)じゃん…」となったし、『マダム・エドワルダ』『目玉の話』より私が親しんできたバタイユの他の著作の語り口に近いものがあり、ニコニコしながら読めた。
主人公(トロップマン)はダーティという名の美しく淫らな女性に夢中になっているが、彼女があまりにも「純真」であるために、彼女の前では不能になってしまう。ダーティの他にも彼に献身的に尽くす愛人グゼニーと、そしてダーティとは違う形でトロップマンから崇拝されているラザールという3人の女性たちを中心に物語は進行していく。パリでの日々、病気(インフルエンザ?)で死にかけるトロップマン、そして今にも内戦が始まりそうな不穏な空気のバルセロナに移動し、ダーティとの別れで幕を閉じる…。物語終盤のダーティとの墓地での情事、そして駅での別れのシーンがなんとなく『ビフォア・サンライズ』を彷彿とさせた。
『青空』はシモーヌ・ヴェイユをモデルにしたヒロインが出てくるということで1番読みたかったもので、実際1番面白かった。バタイユとシモーヌ・ヴェイユは「民主的共産主義サークル」という、フランス共産党を追放された面々が創設した、社会批評誌を刊行するサークルに共に出入りしており、1934年頃には頻繁に会って議論をしていた「茶飲み友達」だったらしいんですね。私はヴェイユのことも好きだったので意外なつながりに喜んでしまったし、(とはいえ二人がそんなに気が合うとも思えないな…)の直感通り思想的には二人は相容れず、サークルの分派活動をしようというバタイユの誘いをにべもなく断っている。こういう仲がいいんだか/悪いんだか、相手のことは評価するけどどうしても気が合わない、みたいな人たちが一緒にいるのって個人的に大好物なんですよね。「仲が悪いって”百合”じゃない?」という『ゆりでなる♡えすぽわーる』の名言を思い出してしまう。そういうわけでバタイユとヴェイユは百合っぽい。(?)
全体的な感想
というわけで、当て所なくつらつらと書き連ねてしまいましたが、目標としていたバタイユの小説3つを無事読了することができました。実際に読んでみた感想としては、全体的に「思ったより全然悪くないが、それほど良くもない」という感じだったな…。心配していた「好みでない/いやな小説を読んで作者であるバタイユのことをちょっと嫌いになる」みたいなことは起こらなかったので安心したのだけれど、むしろバタイユのことが好きで・ある程度知っていたからこそ楽しめた側面が強く、バタイユのことを知らない人が読んで楽しめるのかは全般的に疑問だった。猥褻なものが好きな人は単純に楽しめる可能性ももちろんあるだろうけども…。
バタイユの著作には大きく分けて3つの著作群があり、1つが『内的体験』や『有罪者』などの神秘的で論理的な整合性を欠く思想的文章群。2つ目が『呪われた部分』や『エロティシズムの歴史』など、より学問的で論理的な文章群。そして3つ目が今回読んだ『マダム・エドワルダ』『青空』などの小説群。今回読んで思ったのは、バタイユは小説を書くために小説を書いていたのではなく、あくまで彼が書かずにはいられなかったものが、小説という形をとったのだろうなということ。『マダム・エドワルダ』における()による割り込みや、『目玉の話』の物語の最後に突然出てくる別の語り手の存在など、純粋に小説として成立しているかも危ういような作品群だったと感じた。それだからか「小説」としては完成度が低く感じるというか、評価はイマイチになってしまうのだけれど、逆説的に私はやはりバタイユのことが好きだなと改めて感じることになった。
バタイユは、職業的な作家ではもちろんなく、哲学の体系だった教育を受けた哲学者でもなく、ただ書かずにはいられない人だった。一度知ったらその背景を抜きにバタイユの文章を読めなくなるような壮絶な生い立ちを持ち、彼は生きていくためには文章を書くことが必要だった。そして、私が思うのは、彼は文章を書くことで人と通じ合いたかったのだと思う。時代や環境がそうさせた面もあったかもしれないが、民主的共産主義サークルへの参加や、『ドキュマン』や『クリティック』誌の創刊、アセファルや社会学研究会の創設など、バタイユは書くことを通じた共同体の形成を幾度となく試みていた。「自分が生きていくために書く」といっても個人の満足にとどまるのではなく、それを誰かに届けたい、誰かに理解してもらいたいと痛切に感じていたのではなかろうか。むしろ、生きていくためには、人との交流が必要で、そのための手段としてバタイユは書くということを選択していたとも言えるのかもしれない。だから、バタイユは実は誤解されることを恐れていたのではないかとも思う。小説であろうとお構いなく()で割り込んで補足したり、弁明したりするバタイユの癖は、書いた途端に自分の元を離れ誤解される運命にあるテキストを捕まえ、自分の本音を添えずにはいられないバタイユの不安の現れのように感じる。
私はバタイユの、そうした人間味が好きなのだと思う。小説や、論文を書く上では本来あってはならない「弱さ」であり「甘さ」かもしれないが、私がバタイユを読んで心が安らぐのは、言葉にできない体験をなんとかして言葉にしようとする彼の苦心と、そしてそれをきちんと他者に届けたいと思っている彼の希求を感じるからなのだと思う。他者とのコミュニケーションへの渇望を感じる文章を読むことは、寂しい時にとても慰めになるものなのだ。最後に、私がとても好きなバタイユの文章を引用して終わりたいと思います。
さて、生きるとは君にとって、君のなかで統合されるいくつもの潮流や、つねに逃げ去ってゆく光の戯れなどだけを意味するわけではない。それはまた、一存在者から他の存在者への、君から君の同胞への、あるいは君の同胞から君への、熱や光の移行をも意味するのだ。(君に向かって注ぎ込まれるこの私の熱の伝染を、君が読み取るまさにその瞬間にあってさえも。)話される言葉、書物、記念碑的建築物、象徴、笑いなどは、この伝染、この移行のかずかずの道にほかならない。個別存在者などは大して重要なものではない。
ジョルジュ・バタイユ『内的体験』出口裕弘訳,平凡社ライブラリー
〜中略〜
かくて私たちは、君も私も、私から君に向かって行く言葉、一葉の紙に印刷された燃え立つ言葉に比べてみれば何ものでもないのだ。なぜなら、私はただその言葉を書くためにのみ生きたのだし、その言葉が君に宛てられたものだとすれば、君はその言葉を聞くだけの力を持ったということで、これからも生きてゆくだろうから。
2022-06-28_Fatal error
躁かな?と疑うぐらい元気いっぱいに「すべて」をやりながら過ごしていますが、「すべて」をやっていると当然考えること・やることの総量が膨れ上がるので本日早速パンクしそうになり、柄にもなくやる気になっている仕事の山積みのタスクを全てスライドさせて頭を抱えながら定時で帰ってきた。脳内の散らかりようが酷くて、このままだとエントロピーが近いうちに最大化して熱力学的な死を迎えそう…!という危機感から久しぶりにwordpressを開いたら「致命的な誤り」というタイトルだけの下書きがあり、何らかのメッセージ性を感じて続きを書き始める。
fatal error はPHPなどのプログラムの処理が失敗して終了するような「致命的なエラー」のことを指すらしいのだが、響きに妙な甘美さを感じてメモっていたのだ。「fatal」は「致命的な:死が不可避であることを暗示する」の意だけれど、同時に「運命の、宿命的な」の意でもあるし、よく考えなくても femme fatale の fatale と同じ語源だし(ラテン語:fātālis)免れがたい魅力があるのは当然だった。どうでもいいけどCambridge Dictionary が勝手に気を利かせて教えてくれたところによると、中国語だとfemme fatale は禍水紅顏(红颜祸水)だそうです。いいねえ禍水、さすが美人を傾城と呼ぶ言語。禍水で傾城で傾国の女として生きたい。そして leading men into danger したり causing their destruction となったりしたいね。deconstruction でもいいけどさ。
fatal といえばちょうど今日考えていたけど、「運命」って割とありふれていて、犬も歩けば棒に当たるって感じで運命に当たるもんだなって。運命は棒。ちなみにここで勢いよく脱線すると中国語で棒は「すごい」みたいな意味らしいので、つまり棒棒鶏って「すごいすごい鶏」(めっちゃ偉大な鶏?)ってことじゃん!って発見して嬉しくなりました。やっぱ中国語勉強したいな、妙に詩的な中国語のレビューを目にしてからずっと思っている。
犬も歩けば当たる運命ですが、久しぶりにマッチングアプリに取り組み、大勢の人間とやり取りをして電話をしたり会ったりしている中で、私が相手に運命を感じることもあれば・相手が私に運命を感じていることもあって、でもそんな勝手な「運命」なんて fatal でも何でもなく、命を落とすこともなく変わらず日々は続行されていく。過去に感じた「運命」も実はそんなに大層なものじゃなくて、たまたま道端でぶつかった謎の棒みたいなものだったのかもしれない…とここまで書いてから、過去の自分が男性のことを「棒」呼ばわりしたりしていたな…ということを思い出してうっかり下品な方向に足を踏み外してしまうところだった!危ない危ない!と思いつつ、ここはいっそ踏み外していく。
男のことを「棒」呼ばわりするのは安部公房っぽさがあって嫌いではないというか割と好きなのだが、その一方で中国語で「棒」がすごいとか偉大みたいな意味であるということを踏まえるとそう呼ぶのも癪に感じてしまう。なあに?この誰にも理解されない無駄な葛藤。こういうことを無駄に考えたりしていると人生の複雑さを無駄に増加させることができます。無駄ってつくづく人生の豊かさだよね、俺はこうして豊かに生きていきます。皆さんも人生どんどん歩いて棒にぶつかっていってくださいね、良きにせよ悪しきにせよ豊かにはなると思うので。
2022-06-01_理性と欲望
ずっと日記を書きたいと思っていたのに気付けば光の速さで五月が終わっていて、時の流れの残酷さに目眩を覚える。基本的に元気に楽しく過ごしているが、絶望的な、あまりに絶望的な気分もかなりの頻度で顔を出してくるので、情緒は急上昇・急降下・急旋回を繰り返していて本当に生きてるだけで一人スペースマウンテンの趣きだし、ここには心臓が弱い人間用の途中退出口も用意されていないのだった。
今日は午後休をとって前から見たかった『言葉と行動』を見に行った。原題は “Les choses qu’on dit, les choses qu’on fait” で、ほぼそのままではあるけど『私たちが言うこと、私たちがすること』だ。人間言うこととやることは違う、というか、理性によって制御される言葉/欲望によって突き動かされる行動 の対比ということかな。私はそれこそ人間の理性によって積み重ねられてきたあらゆる知の営みを敬愛しているし、そうしたことについて言語で表現したり、コミュニケーションを取ることが何より大きな喜びなのだけれど、しばしば理性を圧倒する欲望に全てを薙ぎ倒されたり引きずり廻されたりしてボロボロになってしまうので、恋愛って本当にそう……と半分遠い目になりながら見ていた。
これは直球にステレオタイプな感想ではあるけれど、本当にフランス人は年齢も配偶者・恋人の有無も関係なく常に恋愛に積極的でブラボーだなと思った。さすがアムールの国、学ぶべきことが非常に多い。フランス人のような恋愛に対する態度を日本人も全員身につければもっと生きやすくなるんじゃないかと思いますよね。「好意を抱いたのにそれを伝えないなんて勿体無い・むしろ失礼」ぐらいのスタンスだし、「われわれは欲望の前に無力・そもそも欲望は罪ではない」と欲望を肯定していくし、「既に恋人がいるとしても、彼女に対するこの感情を諦めるというのも違う・何せ人間は自由だから…」とか言って、それはもうみんな好き放題ですよ。もちろんその裏では、ズタズタに傷ついている人間も当然発生しているのだが。
パートナーがいようとお構いなしに「出会ってしまった恋愛」に対して向かっていく人たちを見て、坂口安吾が『恋愛論』で書いてたのってこういうことだよなと思っていた。「私は弱者よりも、強者を選ぶ。積極的な生き方を選ぶ。この道が実際は苦難の道なのである。なぜなら、弱者の道はわかりきっている。暗いけれども、無難で、精神の大きな格闘が不要なのだ。」って下り。美しい出逢いに、人生における喜びに、躊躇いなく手を伸ばすこと。「愛」の価値を認めていなければできないことだと思う。それにしても本当に恋愛って「命懸けの飛躍」だな。(そして思い立って柄谷行人の『探究Ⅰ』を読み出す)
「共通点で恋愛相手を選ぶなんて不道徳よ、それは愛ではなく資本の構築に過ぎない」と言っている女がいて感心したけれど、それはそれとして熱情がいずれ冷めることは避けられないのであって、やはり理性的に分かり合えること、共通点があることは大事だよね…と思いながら、今まさに自身の恋愛について吟味している。先日会った人とともこの「理性と欲望の乖離問題」について話したのだけれど、理性的判断=損得勘定と捉えられてしまい、そうではないんだよ… その理性の働きの話ではないのだよ… と思わず不愉快になってしまった。身体的な快楽に対するものとしての、プラトニックな精神的繋がりの話をしているんだ私は。
その人と「アプリは市場であって、ここで愛を見つけるなんて不可能なことのように思える」「一体どうやって人は人のことを好きになるのか」なんて話をしていたけれど、その実わたしは人を好きになるとはどういうことなのか、身を以て分かっているのだ。今話しているあなたではない他の人に、特別な嬉しさと苦い不安を抱いていることを私は知っている。
欲情だけでは続かないし、理性だけでは始まらない。理想を言えば当然両方要求したいところなのだけれど、どちらか一方を満たす人と出会うことすらかなり困難だ。だけれど両方が揃った時の喜びはそれはもう格別で、脳はビカビカと光り、胸には炎が燃え、それを知ってしまったら後戻りはできない。何かを知るということは、知る前の自分にはもう二度と戻れないということだ。そして私がやるべきことは、寂しさから逃れるために慰めを求めることではなく、恐れずに自分の本当に欲しいものに手を伸ばすことだ。
君は君自身の渇望のもたらした結果を単純にどこかに放り出して、あっさり退出することなんてできないんだ。原因と結果だよ。なあ、原因があり、結果があるんだ。君に今できるただひとつのことは、唯一の宗教的行為は、演技をすることだ。もし君がそう望むなら、神のために演技をすることだ。もし君がそう望むなら、神の俳優になることだ。それより美しいことがあるだろうか? もし君がそう望むなら、少なくとも君はそれを試してみることができる。試してみることには何の不都合もない」。
J.D.サリンジャー『フラニーとズーイ』村上春樹訳,新潮文庫,p286
今日は良い映画を見てすっかり心が満たされていたのになぜかその後『まじめな会社員』を読んでしまい、げんなりしてしまった。同じ作者の「普通の人でいいのに!」は炎上に近い受容のされ方だったと記憶しているけど、少なくとも私は「普通の人」では駄目なんだと分かっている。だから私の現状は、私の渇望のもたらした結果として受け入れている。だから、それを放り出して退出することなんてできない。原因と結果だよ。なあ、原因があり、結果があるんだ。そう、演技をするんだ、ザカリー・マーティン・グラス! いつでもどこでもお前が望むままに、そうしなくてはならないとお前が感じるのであれば。しかしやるからには、全力を尽くしてやってくれ、ということなんだよな。
2022-04-30_Forever Memories
もう既に恋人関係は終えた元彼に、私の最後のわがままとして、木綿のハンカチーフの代わりに「私たちの良かった頃、いつも過ごしていた通りの普通の週末」を要求した。久しぶりに夜は一緒に料理をすることにしたので、駅前のいつものスーパーで待ち合わせる。いつも通り、彼は少し遅れてくる。
前に同じようにスーパーで待ち合わせた時、遅刻してくる彼に対して私は妙にイライラしていて、合流したら冷やかに皮肉の一つでも言ってやろうと不機嫌に待ち構えていたのだが、センターパートの前髪に私の好きなメタルフレームの眼鏡、私の好きなバンドカラーの黒いシャツ、そしてなぜか小脇にラ・フランスを抱えて少し嬉しそうに登場した彼を見た瞬間、あまりにも好きで、綻ぶ口元を隠すために咄嗟に顔を背けたことを思い出す。その存在を認めただけですぐに許してしまったことが悔しくて、むくれながら肩に頭突きを食らわせたような気がする。
前日に話していた通り、ポルトガル料理を2品–タコのリゾットと、あさりと豚肉のアレンテージョ–を作るための材料をカゴに入れていく。それと翌日の朝ごはん用の食料も。広くて品揃えのちょっと変わったスーパーで、私はここで一緒に買い出しをするのが好きだったのだけれど、ここでこうやって買い物をするのも最後か…と当たり前に寂しくなる。私は「これが最後だから〜」「私と〜するラストチャンス」「最後に〜」とか、とにかくこれが我々の「最後」なのだということを声高に唱えていたのだけれど、彼は「それぐらいは、また今度したらいいんじゃない」とか「やり残したことがあったら、またすればいいでしょ」とかぬけぬけと言うから、なんだか呆れてしまった。お前と結婚して、一緒に生活をして、子を育てるのをやり残しているんだが??? やるか????
スーパーだけでは材料が揃わなかったのでカルディによって調味料を買い足す。なんとなく美味しそうだったスイカのパックジュースを自分の分だけカゴに入れていたら、会計の寸前に俺もやっぱり飲みたいと言って同じジュースを持ってくる。なぜかスイカジュースが計3個になったので「えっ 今日3人いるの??? …もしかして、私が3Pしたいと言っていた夢を最後に叶えてくれるために…??」と感激していると、「それは流石にホスピタリティがありすぎるでしょ…」と苦笑って流された。しかしこれもワンチャン「やり残したこと」として後日回収可能なのだろうか? 彼は賢いはずなのだが時々言うことがガバガバすぎるので、悪い人間につけ込まれないか心配になっちゃうな。世の中は私のように善良な人間ばかりではない。
買い出しを終えていつもの坂道を上って家に向かう。何を話していたかは覚えてないけど、坂の途中にある自販機を覗いたら、よくお風呂上がりに飲んでいたCHILL OUT ドリンクが自販機から消えていたので寂しい気持ちになる。ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし…。
早速手分けして夕飯の支度を進める。玉ねぎをみじん切りにするシーンがあったので、これもラストチャンス!と叫んで、刻んだ玉ねぎ周辺の空気を煽って彼を泣かせようとする。黒目がちな瞳と長い睫毛に溜まる涙。私は涙を流しながら玉ねぎを刻む彼を眺めてお酒を飲むのが大好きだったのだ。
クリスマス前に、台所で洗い物か何かをしながら別れ話の続きをしていたときは、玉ねぎがなくても君はめちゃくちゃ泣いて、顔を埋めた私のトップスをびしゃびしゃにしていたね。多分君が一番泣いたのはあの時だった。
この日の献立のレシピをチョイスしたのは彼だったのだが、全然レシピを読んでいなかったらしく、タコのリゾット50分ぐらい煮るよ と言ったらビビりだして急遽パスタに変更になった。本当にそういうところがある。
あさりと豚のアレンテージョと急遽変更になったタコのパスタが無事出来上がり、ディナーとする。いつもなら映画やらドラマやら何か適当に流したりすることも多かったけれど、せっかくだし今日はやめておくかということで喋りながら夕飯にありつく。が、急に悲しくなったのかここで私に「全然食べられない」が発動してしまい、まじで全然食べられなかった。「全然食べてもらえなくてパスタ担当大臣として悲しい(悔しい?)よ…」と嘆いていて申し訳なかったが、まじで食べられなかった。
そういえば popIn Aladdinにカラオケ追加されたよと言うので、マイクはないが謎にカラオケをする。aikoのカブトムシを歌っているところを動画に撮られたが、絶対にブサイクなので嫌だった。前にOculusやってるところも撮られたが、間抜けだしブサイクなので変なところばかり動画に撮るのをやめろという感じだった。(Oculusの動画はその後見返して笑われていた)。カラオケも行きたいねと言っていたのに、コロナだしなあとか躊躇していたらコロナが終わる前に恋愛が終わり、まじで「コロナの時代の愛」だったなこの恋愛は。『コレラの時代の愛』は途中で挫折して積んでいるけれど、コレラの時代の愛みたいに、70代になってからまた結ばれたりしないだろうか、我々は?
悲しいなあと思いながらも最後の「いつもの週末」を湿っぽくするのが嫌で、泣くのはなんとか堪えていたのだが、w-indsのForever Memoriesをカラオケで入れたら突然スイッチが入って号泣してしまい、w-indsで号泣する女は流石におかしいだろと言って(私は泣きながら)二人で爆笑してしまった。
何よりも大切だった 誰よりも愛してた
w-inds「Forever Memories」作詞:葉山拓亮
この恋を守りたかった いつも夢を見ていた
たとえ離れて暮らしても あの瞬間の二人は
いつまでも 輝いたまま 今日の日を照らすよ
※ここでw-indsの歌詞を引用するのもダサすぎるが、念のため引用しておきます、参考までに。いやしかしいい歌だよね…。
こうやって記録に残すつもりだったし、我々の恋愛の総決算・総集編として振り返りをしっかりして色々本音を聞き出そうと思っていたんだけど、何か聞こうとすれば泣いてしまうことが分かって、「いつもの週末」を台無しにするのが嫌なものだから結局ほとんど何も聞けなかった。(w-indsで号泣はしたけど)
一応振り返りをしようとデートなどの記録を辿ったけれど、「出来事」で振り返ろうとしても「どこどこに行った」とか「何何をした」とか、コロナ禍でほとんど出かけていなかった私たちに出来事はそう多くなかった。やっぱりこの週末みたいに、一緒に料理をしたり、何かを見たり、ゲームをしたり、歌ったり、踊ったり、ふざけたり、ゴロゴロしたり、笑ったり、眠ったり、後から振り返ると「何をしてたか」なんて思い出せないような、特筆すべきこともない平穏な週末が私たちの関係の中心で、書き残すのが難しい空気や感覚的なものを愛していたんだなと思った。
初めての時の硬い不器用なキス、滑らかな手のひら、撫で方、肌の匂い、眉毛、私の口癖の物真似、抱きしめる力の強さ、骨張った大きな手、時々少し高くなる声、アンニュイなキメ顔とファンサ、妙に動きのダサいダンス、私に嫌がらせをした後に見せるとびきりの笑顔、こういうことを全部覚えていられる自信がない。きっと全部忘れてしまうのだろう、それがとても寂しい。
ふと『チェンソーマン』でマキマさんがデンジの指を噛んで、「デンジ君の目が見えなくなっても 私の噛む力で私だってわかるくらいに覚えて」と言っていたシーンを思い出しながら、この人にこうやって抱きしめられるのはこれが最後なのだと、この絡めた足の重さを、私を抱く腕の重さを、なんとか忘れまいと強く願いながら味わっていた。
眠る前に彼の顔を眺めるのが好きだったと、前にもここで書いた気がするけれど、最後の夜だというのに彼の顔を眺めた覚えがない。今後の恋愛のアドバイスとして「男が眠りたがっていたら、寝かせてあげたほうがいい」と言われたにもかかわらず、ピロートークをねだって遅くまで起きていた気がするが、最後の最後にまた私は号泣して、抱きしめて宥めてもらい、その後は曖昧だ。ほとんどそのまま眠ってしまったんだろうか? 何かでまた笑ったような気もするし、笑った後に号泣したような気もする。
翌朝はまた朝食にオムレツを作ってもらって、いつものように支度をして、それぞれ昼から用事があったから一緒に家を出て、駅で別れた。別れ際に「今までありがとうね」と言ったら、泣いちゃうからやめてと言われた。
「考えようによっては、友情ならずっと続くからね」と私が言い、
「それな」と指をさす調子の良い君。
本当に友情としてこの関係性が続くのか正直私は半信半疑だけれど、仮にどこかで関係性が途切れてしまっても、この瞬間の二人が いつまでも輝いたまま 日々を照らしてくれますように。
名曲…。
2022-4-24_人間の条件
恋人と別れたことによって私のOSに強制再起動がかかったようで、頭がすっきりして再び考えるべきことが脳内を駆け巡るようになり、これがあるべき姿だ!と思ったのも束の間、また精神が淀んできた。と言うか、きちんと「孤独」になり切れていないのがおそらく問題なのだと思う。
ハンナ・アーレントによれば人間が独りでいる状態にも3種類あって、「孤独(Solitude)」「孤立(Isolation)」「孤絶(Loneliness)」に分けられるらしい。
「孤独」は1人でいるけれど、思考し、自分と共にいること。もう一人の自分と対話することで、その対話を通じて「世界」と繋がりを持てている状態だという。この営みを通じて人間はアイデンティティを確立し、世界に現れる自己というものが出来上がる。
「孤立」は人と人とが共同で活動する契機が奪われた状態、連帯して政治的な活動などを行うことができないように一人一人が孤立させられていることで、専制的な政府が目指すところである。仕事をしている人間もこれにあたるらしいが、ネガティブな意味だけでなく、人間が何かを生産するには他者から守られ、孤立することが必要になる場面もあるとアーレントは言っている(らしい)。
そして最後の「孤絶」は「見捨てられていること」とも訳されていて、これは「孤独」になることもできていない状態で、一人でいても自己と対話することもできず、思考が断絶されて結果的に自己の喪失にもつながってしまう。
「見捨てられている(lonely)」状況においては、人間は自分の思考の相手である自分自身への信頼と、世界へのあの根本的な信頼というものを失う。人間が経験するために必要なのはこの信頼なのだ。自己と世界が、思考と経験をおこなう能力が、ここでは一挙に失われてしまうのである。
ハンナ・アーレント『全体主義の起源 Ⅲ』
これじゃ〜〜〜〜〜ん!まさに、と思わず膝を打ったよね。すごく打った。
早く元気だすぞ!と思うあまり、マッチングアプリに勤しんでいたけど、故に「孤独」になりきれず・とはいえ人とじっくり向き合うこともできず、結果的に「lonely」な状況に自分を追い込んでいたよね、と反省した。マッチングアプリで一人一人に返事してるだけで余暇の時間が全部終わるからな、そんなん自己と対話できなくて当たり前なのよ。
マッチングアプリやってると、本当に人がいっぱいいるし、それぞれの人間に「人格」があるのか疑わしい気持ちになるというか、人間に見えなくなってくるんだよな。もちろん一人一人が独自の人生を歩んできて、それぞれ特別なオンリーワンの世界に一つだけの花…であることは間違いないはずなんだけど、めちゃくちゃ画一的な人間ばっかりじゃない?とゲンナリしてしまう。全員旅行が好きだし、NetflixかアマプラかYoutube見てて、最近はキャンプに行ったりジムに行ったり料理をしてみたりしているからな。いや、私がある程度条件で絞ってしまったが故にこうなっているのか?? 私の求める条件を満たす人間は、自動的にこういう行動をとるように最適化されてしまうのだろうか??
誕生から死まで、日曜から土曜まで、朝から晩まで、すべての活動が型にはめられ、あらかじめ決められている。このように型にはまった活動の網に捕らわれた人間が、自分が人間であること、唯一無二の個人であること、たった一度だけ生きるチャンスをあたえられたということ、希望もあれば失望もあり、悲しみや恐れ、愛への憧れや、無と孤立の恐怖もあること、を忘れずにいられるだろうか。
エーリッヒ・フロム『愛するということ』鈴木晶訳,紀伊国屋書店
マッチングアプリ再開して、複数のアプリを適当に登録してありがたいことに3000ぐらいは「いいね」もらったと思うけど、その中で「面白そうな人間」本当に数人しかいないもの。なんていうか「人間」が居なさすぎない? 仕事も娯楽も感情さえも型にはめられたように見える人たち。実際に個別に向き合えばそうではないことがわかるかもしれないけれど、とてもそんなことができないような目まぐるしい市場に身を置かざるを得ない現代の恋愛、険しすぎる。
まぁこんなこと書いてる私自身がオリジナルな「人間」として存在できているのか、型にはまっていないのか、面白い人間であるのか、というのは常に反省しなくてはいけないことだし、油断して「lonely」な状態になっていると自己を喪失してしまうので、意識的に「孤独」であらねばならないね。そして誰か人と共にいることになったとしても、ずっと「孤独」でい続けなければいけないし、今度こそそれを手離さないようにしようと思う。
しかしアーレント全く読まずにこれ書いたけど、「人間」が世の中に居なさすぎるような気がするし、ここで『人間の条件』でも読もうかな…(ヘーゲルを読め)
2022-04-14_鎮痛剤
失恋の痛手がボディーブローのように効いてきたというか、精神的にはむしろ淀みから抜け出たようなある種爽やかな軽快さがあったりするのだけれど、フィジカルの方にダメージがダイレクトに来ていてライフポイントがジワジワと削られているのが今。お願い!死なないで城之内! と思いながらゴールデンカムイを読むことで辛うじて人間の形を保っているが、しかしその一方で、本当は気を紛らわせている場合ではなく、できるだけこの強烈な痛みや感情が去ってしまう前に、薄まってしまう前に、それを直視して味わい尽くしておかなければとは思っている。
以前のわたしは、生理痛やその他頭痛や何か痛みがあるときに、すぐ鎮痛剤を飲むことに妙な抵抗があって・なるべく痛みを痛みのままにさせておきたいようなところがあった。いつの間にかすっかりそんな気力が衰えたのか、仕事を優先するためのプラクティカルな理由からか、躊躇いなく痛み止めを飲むようになった。なんとなくこれは、今の私の精神的な痛みに対する態度と通ずるものがあるような気がしている。
これはまたお馴染みの脱線なんだけど、人間は鎮痛剤を飲むと他者の痛みへの共感も薄まるらしい。ついでに他者への共感性が高い人間はその分ストレスを感じやすく、結果的に不親切になりやすいらしいので、そういう人は鎮痛剤を飲むと共感が薄まっていい感じになるかもしれないよねと思った。会社に一見人当たりがよくていつもニコニコしてるんだけどその実めちゃくちゃ失礼で仕事のできないおじさんがいるんだけど、あの人ももしかしたら周囲に気を遣いすぎてストレスを感じて結果的に不親切&仕事ができない状態になっているのだとしたら、鎮痛剤を投与することで共感性が薄まって仕事ができるようになるのではなかろうか…とまぁまぁ真剣に考えたりしていた。でも鎮痛剤はあくまで「他者の痛み」に対する共感を薄めるものだから、あまり意味はないのだろうか?
「痛み」と向き合うということを考える時、いつもわたしは『ハチミツとクローバー』のはぐちゃんが、大怪我を負った後に鎮痛剤を使わず全身の痛みに耐えながら自分の手の先の感覚があるか探り当てようとする場面を思い出す。鎮痛剤を使えば耐え難い痛みを抑えることはできるけれど、同時に感覚も麻痺してしまうから、己の感覚の微かな印を、一筋の希望もまた紛れて見失ってしまうことを彼女は恐れて、必死に痛みに向き合っていたんだよね。
気を紛らすためにインスタントな慰めを求めても却ってゲンナリしたり神経をすり減らすことになるから良くないな〜と思っていたけど、それよりももっと悪いのは、むしろ本当に「慰め」がすぐに手に入ってしまって、何の反省もなく手元にあったはずの痛みを忘れてしまうことだろうなと思う。
わたしはすぐに空元気を出して動き回る人間だけど、少し落ち着いて男を殺す小説を書く準備をしようね。
2022-04-09_弁証法とフランスの論理
もう既に何がきっかけだったか思い出せなくなっているけれど、突然目が覚めたような思いがして、諸悪の根源は、自分自身と向き合わずにただひたすら「気をまぎらわす」ことに努めていたことだと気がついた。こんなことわざわざ言うなんて、正直ダサいし馬鹿みたいで恥ずかしいけれど、まぁそんなダサくて馬鹿みたいで恥ずかしいのが今の自分なのだから、つらくてもまずはそこを受け入れましょうね。
精神の生(Das Leben des Geistes)とは、死を避け、荒廃から己れを清らかに保つ生ではなく、死のただなかに己れを維持する生である。精神がその真理を獲得するのは、ただ絶対的な四分五裂のただなかに自己自身を見出すことのみによっている。精神がこういう力であるのは、われわれがあるものについて「これは無である」とか「これは偽である」とか言って、ただちにそれを片付けて何か他のものに移っていくときにするように、否定的なものから目を背ける肯定的なものとしてではない。そうではなくて、精神がこういう力であるのは、否定的なものをはっきりと直視し、そのもとに足を停めることのみによっている。この足を停めることこそ、否定的なものを存在へと逆転させる魔力なのである。この魔力は、さきに主体(Subjekt)と呼ばれたものと同じものである。
ヘーゲル『精神現象学』序文
ヘーゲルは私からすると「友達の友達の友達」とか「曽祖父」ぐらいの距離感にいる人で(むしろもっと遠いのでは?)、名前はよく出てくるけど実際には何も読んだことはなく・まぁ流石に読むこともないのではないかと思っていた。が、朝カルで高橋哲哉の「現代思想と「犠牲の論理」」の講義で引用されていたのが上記の文章で、はーーー今の私に必要なことっぽい…と反省したし、最近やりとりをしている人も「It’s never too late to try…」「You can start with Phenomenology of spirit」とか煽ってくるので性懲りもなくヘーゲルにも手を出すことにした。
ちなみにこの間読んだ『「論理的思考」の社会的構築 フランスの思考表現スタイルと言葉の教育』が滅茶苦茶面白かったんだけど、これによればフランスの「論理的思考」=論文の構成は、すごく弁証法的なんだよね。与えられたテーマに対して、必ず「正」の立場と「反」の立場から論証を試みた上で、その両者を超える「合」を目指していくというスタイル…。この本で取り上げられているのはフランスのバカロレア試験での小論文と、そしてその準備としてのフランスの教育カリキュラムについてで、すべての教育はそのスタイルで論証できるようになるために組み立てられていると言ってもいいぐらいで、その無駄のなさ、合理性が感動的ですらある。
そもそものフランスの国としての教育の理念が「市民の育成」で、国家に反抗できる強い個人を作るというようなところにあって、国家が国民に対して「必要ならば革命を起こせ」というようなことを教えるなんて信じがたいな〜〜〜 特にこの日本に生きている身としては。。。と感動した。日本は学校教育を通して「自分では何も考えず、上の言うことは絶対なので疑問を持たず、規則にしっかり従える人間」を作ろうと思ってるとしか思えないもんね、そんなん長期的に国家の衰退しか招きませんよねえ。こうやって国家とか言い出すと今度は「国家」とは…ってなって、結局またヘーゲルを読もうという話になるんだよな。
ちなみにこの本を読まなくても著者へのインタビューの記事も面白かったのでそれだけでもどうぞ。「論理的思考」の落とし穴――フランスからみえる「論理」の多様性
フランスの論理と比較される形で出てきた「アメリカの論理」(論証構造)は、いわゆる5パラグラフ・エッセイで、よくある「主張」→「エビデンス×3」→「主張の確認」というスタイルなのだけど、確かにこれだと片側の主張のみだけで成立するから「エビデンス」さえ集めてしまえば「論理的に正しい」ことになってしまう危うさがあるんだよな。昨今の陰謀論も、一応これに則って(支離滅裂だとしても)「エビデンス」持ってくるからそれなりに「論理」があるように見えてしまう、否定するのがダルい、反対意見と平行線を辿ってしまう、となっているのでは?? と思った。フランスの論理で物事を考えていたら陰謀論ハマらなそうな気がするんだけど、フランスでも陰謀論って流行ってるのかな〜。
もっと講義で聞いたヘーゲルとニーチェの話しようと思ってたのに何故か論理的思考の社会的構築の話になってしまった。まぁヘーゲルはこれから読むところなのでまだ何の話もできないが、まぁニーチェも生きるということとは「力」を肯定することだと言っているし、「否定的なものをはっきりと直視し、そのもとに足を停める」力を付けて頑張って生きていくぞという感じだ。